第百七十三話 白き霊樹の祝福
神域剣技――《命脈断流》
その一太刀が聖域を駆け抜けた瞬間、白枝の泉を覆っていた黒い瘴気は音もなく霧散していった。
翡翠魔兵の巨体を覆っていた黒い結晶が、ひび割れながら次々と崩れ落ちる。
ガラガラガラ――。
崩壊する結晶は地面へ落ちることなく、淡い光の粒となって空へ昇っていった。
まるで長い間閉じ込められていた命が、ようやく解放されたかのようだった。
◇◇◇
「終わった……のか?」
ツバサが剣を下ろし、小さく呟く。
しかし、ビルセイヤは首を横に振った。
「いや。」
「まだだ。」
白枝を構えたまま、ガイゼルを見据える。
融合していた翡翠魔兵は崩れ始めていたが、その中心にある翡翠魔核だけは、なおも弱々しく鼓動を続けていた。
ドクン……。
ドクン……。
先ほどまでの激しい脈動ではない。
消えかけた灯火のような、小さな鼓動だった。
◇◇◇
ガイゼルは膝をついたまま、自分の両手を見つめていた。
結晶化していた腕は元の人間の姿へ戻り始めている。
「そんな……。」
「私は……負けたのか。」
その声からは、先ほどまでの狂気が消えていた。
代わりに残っていたのは、深い虚しさだけだった。
「神代へ届くはずだった……。」
「千年……。」
「千年積み重ねた研究が……。」
ビルセイヤはゆっくりと歩み寄る。
「違う。」
「最初から間違っていた。」
ガイゼルは顔を上げた。
「何?」
「命を踏みにじって辿り着く未来なんて、誰も望まない。」
「…………。」
「世界樹も。」
「霊樹も。」
「人も。」
「全部、生きるためにある。」
ガイゼルは静かに目を閉じた。
その言葉を否定する力は、もう残っていなかった。
◇◇◇
その時だった。
白き霊樹が大きく枝葉を揺らす。
サァァァァ――。
柔らかな風が聖域を包み込んだ。
枝先から無数の白い葉が舞い落ちる。
それらはビルセイヤだけではなく、セシリア、エミリア、ツバサ、フィリア、そしてフェンリルの周囲を優しく巡った。
「これは……。」
エミリアは目を見開く。
「祝福です。」
カグラが微笑む。
「白き霊樹が皆さんへ感謝を伝えています。」
◇◇◇
泉にも変化が起きていた。
濁っていた水は透き通る白銀へ戻り、底まで見えるほど澄み渡っている。
泉の中央に突き立っていた黒い石柱は完全に崩れ去り、その跡には小さな白い若木が芽吹いていた。
「芽が……。」
フィリアが嬉しそうに笑う。
「新しい命ですね。」
『当然だ。』
ヴァルグラムが穏やかな声で言う。
『霊樹とは終わることなく命を繋ぐ存在。』
『穢れが消えれば、新たな命は必ず芽吹く。』
◇◇◇
フェンリルが若木の前まで歩み寄る。
そして静かに頭を垂れた。
守護獣として、新たな命へ忠誠を誓うように。
その姿を見た森の獣たちも次々と姿を現す。
フォレストウルフ。
ナイトホーク。
グレートボア。
精霊獣たち。
皆、穏やかな瞳で白き霊樹を見つめていた。
森は少しずつ、本来の姿を取り戻し始めていた。
◇◇◇
その穏やかな光景の中、不意にガイゼルが苦しそうに咳き込んだ。
「がはっ……!」
口元から血が零れる。
融合の反動だった。
命脈断流によって穢れは切り離された。
しかし、自ら禁術を用いた代償までは消せない。
「ガイゼル!」
セシリアが思わず声を上げる。
ビルセイヤは静かに近づき、その身体を支えた。
「なぜ……。」
ガイゼルはかすれた声で尋ねる。
「敵である私を……。」
「助けられる命なら助ける。」
ビルセイヤは迷いなく答えた。
「それが俺の剣だ。」
ガイゼルは驚いたように目を見開き、やがて力なく笑った。
「そうか……。」
「だから、お前は選ばれたのか……。」
◇◇◇
その瞬間だった。
白き霊樹の幹が淡く輝き始める。
幹の表面に、古代文字が一つ、また一つと浮かび上がった。
ヴァルグラムの表情が変わる。
『始まるぞ。』
カグラも静かに息を呑む。
「白き霊樹が……。」
「契約者へ言葉を授けようとしています。」
白き霊樹の祝福。
それは千年もの間、誰にも与えられることのなかった神代からの新たな導きだった。
――続く。




