第百六十二話 白銀の守護獣
パリン――。
翡翠色の亀裂が、ガラスの砕けるような澄んだ音を立てて崩れ落ちた。
守護獣の身体を覆っていた黒い瘴気は、白枝の一閃によって切り裂かれ、神炎に触れた瞬間、灰となって消えていく。
やがて――。
ガァァ……。
苦しみに満ちていた咆哮は静まり、代わりに低く穏やかな鳴き声が聖域へ響いた。
赤黒く染まっていた瞳は、本来の透き通るような蒼色を取り戻している。
逆立っていた白銀の毛並みも、月光を浴びた雪原のような美しい輝きを放っていた。
「戻った……。」
セシリアが安堵の息を漏らす。
エミリアも胸に手を当て、静かに微笑んだ。
「精霊たちが喜んでいます。」
「苦しみが消えました。」
◇◇◇
巨大な守護獣は、ゆっくりとビルセイヤの前まで歩いてくる。
その巨体に思わず身構えるツバサ。
「お、おい……。」
「まだ何かあるんじゃないだろうな。」
だが守護獣は敵意を見せなかった。
静かに頭を下げる。
そして。
ビルセイヤの肩へ、その大きな鼻先をそっと寄せた。
「これは……。」
フィリアが目を丸くする。
「感謝しています。」
カグラが優しく微笑む。
「守護獣『フェンリル』は、命の恩人へ礼を伝えているのです。」
「フェンリル。」
ビルセイヤはゆっくりとその名を口にした。
白銀の守護獣は静かに目を細め、小さく鳴いた。
その姿には、先ほどまでの狂気は微塵も残っていなかった。
◇◇◇
「よかった……。」
セシリアも自然と笑顔になる。
「本当に助かったのね。」
「ええ。」
エミリアは守護獣へ近づき、そっと毛並みに触れた。
柔らかい。
そして温かい。
「本来の魔力へ戻っています。」
「もう大丈夫でしょう。」
◇◇◇
しかし、その穏やかな空気を壊すように拍手が響いた。
パン……パン……パン。
蛇の牙の男だった。
「実に見事だ。」
「まさか穢れだけを断つとは。」
仮面の奥から、興味深そうな声が漏れる。
「予想以上だよ、ビルセイヤ。」
ビルセイヤは白枝を構え直す。
「まだやる気か。」
「もちろんだ。」
男はゆっくりと杖を掲げる。
「守護獣など所詮は実験材料の一つ。」
「目的は最初から――」
その視線が紅蓮の霊樹へ向く。
「霊樹そのものだ。」
◇◇◇
「させません!」
フィリアが前へ出る。
純白の魔法陣が展開される。
「《ホーリーウォール》!」
光の壁が紅蓮の霊樹の前へ築かれた。
同時にエミリアも魔法を重ねる。
「風の精霊、水の精霊。」
「霊樹を守って!」
淡い蒼色の結界が重なる。
二重の守り。
だが男は笑っていた。
「その程度。」
「意味はない。」
◇◇◇
黒い杖の先端へ翡翠色の魔力が集まる。
その色は世界樹の力に似ている。
だが。
どこまでも濁っていた。
ドォォォッ!!
巨大な魔力弾が放たれる。
光の壁へ一直線。
ガァァン!!
聖なる結界が大きく揺れた。
「きゃっ!」
フィリアが一歩後退する。
「重い……!」
セシリアがすぐ隣へ並ぶ。
「フィリア!」
「私も支える!」
盾を結界へ押し当てる。
無属性身体強化。
さらに防御魔法を重ねる。
ようやく結界の揺れが止まった。
◇◇◇
ヴァルグラムは低く呟く。
『世界樹の力を模倣している。』
『だが本質が違う。』
カグラも頷く。
「命を育てる力ではありません。」
「命を支配する力です。」
ビルセイヤは男を睨みつける。
「それがお前たちのやり方か。」
「世界樹の力を歪める。」
男は肩を竦める。
「力に善も悪もない。」
「使う者が決める。」
「違う。」
ビルセイヤは一歩踏み出す。
「力は人を守るためにある。」
「誰かを苦しめるためじゃない。」
◇◇◇
その瞬間。
紅蓮の霊樹の若木が再び輝き始めた。
白。
蒼。
紅。
三色の光が絡み合い、ビルセイヤの白枝へ流れ込んでいく。
「また共鳴が!」
エミリアが驚く。
カグラは目を見開いた。
「紅蓮の霊樹が……。」
「力を貸しています。」
ヴァルグラムも静かに頷いた。
『試されているのだ。』
『最後の試練は、まだ終わっておらぬ。』
◇◇◇
蛇の牙の男は初めて焦りを見せた。
「霊樹が自ら人間へ力を……。」
「あり得ない!」
しかし若木はさらに強く輝く。
ビルセイヤの胸元の炎心晶。
腰の白枝。
そして紅蓮の霊樹。
三つの力が完全に共鳴を始めた。
すると、聖域の床へ巨大な紋章が浮かび上がる。
世界樹。
三本の霊樹。
そして中央には、一振りの刀。
その光景を見たヴァルグラムは静かに息を吐いた。
『神代の契約が目覚めたか。』
『ならば、真の継承はこれからだ。』
神代より封じられてきた最後の契約。
それが今、ビルセイヤの前で静かに目覚めようとしていた。
――続く。




