第百六十話 蛇の牙、聖域へ
ゴゴゴゴゴ……。
炎神の聖域全体が大きく揺れていた。
紅蓮の霊樹の若木は苦しむように枝葉を震わせ、白銀の幹を流れる紅い光が不規則に明滅している。
聖域の入口では、結界が黒い瘴気に侵食され始めていた。
まるで黒い泥が透明な水へ流れ込むように、神聖な結界が少しずつ濁っていく。
「結界が……!」
フィリアが杖を握り締めた。
聖属性の魔力を流し込もうとするが、黒い瘴気は消えるどころか、さらに勢いを増していく。
「私の聖魔法だけでは浄化しきれません!」
エミリアも弓を構えながら周囲の精霊へ呼びかける。
「風の精霊たちも近づけない……。」
「瘴気が強すぎます。」
◇◇◇
ヴァルグラムは静かに巨大な鍛冶槌を握った。
先ほどまで穏やかだった表情は消え、神代最後の鍛冶師としての鋭い眼差しが戻っている。
『神代より守り続けた聖域。』
『まさか、この時代で再び蛇の牙を見ることになろうとはな。』
その声には、長い時を生きた者だけが持つ静かな怒りが込められていた。
ビルセイヤは白枝を抜く。
白銀の刀身が聖域の光を受けて輝く。
「ヴァルグラムさん。」
『分かっている。』
老人は頷いた。
『奴らの狙いは霊樹だ。』
『何としても若木へ近づけるな。』
「ああ。」
ビルセイヤは短く答えた。
◇◇◇
――パリン。
乾いた音が響く。
結界に一本の亀裂が走った。
そこから黒い霧が噴き出し、ゆっくりと人影が現れる。
一人。
二人。
三人。
全身を黒いローブで包み、蛇を模した仮面を付けた男たちだった。
その中央に立つ男だけは違う。
黒と翡翠色が混ざった長衣。
手には蛇が巻き付くような黒い杖。
仮面には二本の牙を模した紋様が刻まれていた。
「ようやく見つけた。」
男はゆっくりと笑う。
「神代最後の鍛冶場。」
「そして紅蓮の霊樹。」
その声には、不気味な余裕があった。
◇◇◇
ツバサが一歩前へ出る。
「またお前らか。」
「どこにでも湧いてくるな。」
男は肩を竦めた。
「使命だからな。」
「我ら蛇の牙は、創世の力を取り戻す。」
「そのために世界樹も霊樹も必要なのだ。」
セシリアは盾を構える。
「世界を壊してまで?」
「壊す?」
男は小さく笑った。
「違う。」
「作り直すのだ。」
「不完全な世界を。」
その言葉に、ビルセイヤの瞳が鋭くなる。
「自分たちの都合のいい世界に、だろ。」
「結果は同じだ。」
男は淡々と答えた。
「弱き者は淘汰され、選ばれた者だけが生きる。」
「それが神代の理だった。」
「違う!」
フィリアが思わず叫んだ。
「そんな世界を神々は望んでいません!」
男はフィリアを見る。
「聖職者か。」
「ならば知っているはずだ。」
「神代にも争いはあった。」
「神々ですら互いに刃を向けた。」
「……。」
フィリアは言葉を失う。
それは否定できない歴史だった。
◇◇◇
その時。
カグラが静かに前へ出た。
「確かに争いはありました。」
「ですが。」
紅蓮の霊樹の巫女は真っ直ぐ男を見据える。
「神々は最後に争いを止めました。」
「だから世界樹へ未来を託したのです。」
「それを踏みにじったのが、あなたたち。」
男の笑みが消える。
「巫女。」
「余計なことを知っているな。」
黒い杖がゆっくりと持ち上がる。
◇◇◇
その瞬間。
ビルセイヤが一歩前へ出た。
「その先には行かせない。」
白枝の切っ先が静かに男へ向けられる。
男は興味深そうに眺めた。
「白い刀。」
「ほう。」
「それが白銀の霊樹に認められた剣か。」
白枝が僅かに震えた。
まるで敵意へ反応するように。
「名前まで知っているのか。」
ビルセイヤが低く言う。
「当然だ。」
「千年待ったのだから。」
その一言で、場の空気が凍り付いた。
「千年……?」
セシリアが息を呑む。
「お前たち。」
「まさか神代から。」
「生きているわけじゃない。」
男は首を振る。
「知識を継ぐ。」
「意思を継ぐ。」
「それが蛇の牙。」
「我らは代々、この使命だけを受け継いできた。」
◇◇◇
ヴァルグラムは静かに目を閉じた。
『だから滅びなかったか。』
『魂ではなく、思想を継承したのだな。』
男は初めてヴァルグラムを見る。
「神代最後の鍛冶師。」
「あなたも邪魔だ。」
「安心しろ。」
「今日で全て終わる。」
そう言って杖を掲げた。
翡翠色に濁った魔力が溢れ出す。
ゴォォォッ!!
床へ魔法陣が描かれていく。
先ほどルミナスの深森で見たものと同じ紋様。
「召喚陣!」
エミリアが叫ぶ。
「来ます!」
◇◇◇
魔法陣から巨大な咆哮が響く。
ズシン!
ズシン!
地面を揺らしながら姿を現したのは、全長五メートルを超える巨大な狼だった。
純白だったはずの毛並みは、翡翠色の亀裂に覆われている。
赤黒く染まった瞳。
牙から滴る黒い瘴気。
その姿を見たカグラが悲痛な声を上げた。
「そんな……!」
「あの子は!」
「霊樹を守る守護獣……!」
エミリアも愕然とする。
「侵されています……!」
「世界樹に似せた偽りの力で!」
男は愉快そうに笑った。
「さあ。」
「見せてもらおう。」
「神に認められた鍛冶師と。」
「穢れた神獣。」
「どちらが強いかを。」
巨大な守護獣が苦しそうな咆哮を上げる。
その瞳の奥には、まだ微かに助けを求める光が残っていた。
ビルセイヤは白枝を強く握り締める。
「倒すんじゃない。」
「助ける。」
その一言に、仲間たちは力強く頷いた。
炎神の聖域を守る戦いが、今、始まる。
――続く。




