第百二十二話 深森からの帰還
白き霊樹の葉が、静かに揺れていた。
樹哭の間に満ちていた濁った翡翠色の光は、もうない。
母なる根は再び眠りにつき、白き霊樹も深い傷を癒やすため、静かな沈黙へ戻っていた。
だが、ビルセイヤたちの胸には、白き霊樹が残した言葉が重く残っている。
――翡翠の鍵を持つ娘。
――選択の試練。
――蛇の牙は、王都にも目を向けている。
アイリスのことだ。
王都で鍛錬と古文書調査に励んでいるはずの第二王女。
世界樹の継承者候補となった少女。
彼女に迫るかもしれない危険を思うと、ここで長く留まるわけにはいかなかった。
「行こう」
ビルセイヤが静かに言った。
セシリア、エミリア、ツバサが頷く。
シルヴァは白き霊樹の幹へそっと手を添え、名残惜しそうに目を伏せた。
「白き母さま……少しだけ、行ってくるね」
白き霊樹の枝葉が、さらりと揺れた。
それはまるで、行っておいで、と告げているようだった。
「シルヴァも来るのか?」
ツバサが少し驚いたように尋ねる。
シルヴァはこくりと頷く。
「うん。森の民のみんなを里まで送らないと。それに……ルルにも会いたい」
「そうだな」
ビルセイヤは頷いた。
「ガルディアに保護されてる。無事だ」
その言葉に、シルヴァの表情が少しだけ明るくなる。
「よかった……」
◇◇◇
樹哭の間を出る頃には、森の空気は明らかに変わっていた。
まだ夜は深い。
だが、行きに感じた重苦しい圧迫感は薄れている。
翡翠色の靄はほとんど消え、木々の枝葉からは本来の清らかな魔力が流れ始めていた。
「精霊たちの声が戻ってきています」
エミリアが安堵したように呟く。
「まだ弱いですけど、怖がっているだけではありません。ありがとう、って言っているみたいです」
「礼ならシルヴァに言えよな」
ツバサが肩を竦める。
「こっちは散々走り回って斬りまくっただけだ」
「それも十分助けになってると思うけど」
セシリアが苦笑する。
シルヴァは少し照れたように笑った。
「みんなのおかげだよ。ビルセイヤたちが来てくれなかったら、白き母さまも、母なる根も、きっと壊されてた」
「まだ全部終わったわけじゃない」
ビルセイヤが言う。
「蛇の牙は別の根も狙ってる。王都のこともある」
「うん……」
シルヴァの表情が曇る。
「蛇の人たち、怖い。森の声を聞かないで、力だけを欲しがる」
「だから止める」
ビルセイヤは短く答えた。
その声に、迷いはなかった。
◇◇◇
泣き枝の回廊まで戻ると、そこもまた様子が変わっていた。
白い布のように垂れ下がっていた枝は静かに垂れ、先ほどまでの囁き声も聞こえない。
道の奥では、泣き枝の番人が膝をついたまま眠るように静止していた。
その眼窩には、もう濁った翡翠色の光はない。
柔らかな白い光が、小さく灯っているだけだ。
「番人も落ち着いたみたいね」
セシリアがほっと息を吐く。
シルヴァは番人の前へ歩み寄り、小さな手でその巨大な指先に触れた。
「ありがとう。守ってくれて」
番人は動かない。
だが、枝葉がかすかに揺れた。
それだけで十分だった。
「行こう」
ビルセイヤたちは、再び歩き出した。
◇◇◇
白枝の泉へ戻った時、そこにはロドリグと数名のガルディア兵が待機していた。
彼らはビルセイヤたちの姿を見るなり、弾かれたように立ち上がる。
「ビルセイヤ殿!」
ロドリグが駆け寄ってきた。
「ご無事でしたか!」
「ああ。樹哭の間の儀式は止めた」
その一言に、ロドリグの顔から緊張が抜けた。
「そうですか……!」
だがすぐに、彼はビルセイヤたちの後ろにいる森の民たちへ気づく。
「その方々は……」
「蛇の牙に捕らえられていた森の民だ。怪我人もいる。ガルディアで保護してほしい」
「もちろんです」
ロドリグは即座に頷いた。
「すでに担架と薬師を待機させています。すぐに運びます」
兵士たちが慎重に森の民たちを介抱し始める。
その中には、ヴェノルに“核”にされかけた少年もいた。
まだ顔色は悪いが、呼吸は安定している。
エミリアが様子を確認し、安堵したように微笑んだ。
「穢れは抜けています。しばらく休めば、きっと目を覚まします」
「よかった……」
シルヴァが胸を撫で下ろす。
その時、ロドリグがはっとしたように顔を上げた。
「そうだ、ベルンですが」
「見つかったのか?」
ビルセイヤが問うと、ロドリグは力強く頷いた。
「はい。皆さんが樹哭の間へ向かった後、霧が薄れたため捜索を再開しました。白枝の泉から少し離れた根の窪みに倒れていたところを発見しました」
「生きてるのね?」
セシリアが尋ねる。
「はい。衰弱はしていますが、命に別状はありません。すでに入口の詰所へ運びました」
「それはよかった」
エミリアが安心したように息を吐く。
カイルもベルンも救出できた。
森の民たちも生きている。
すべてが完全に元通りとはいかない。
それでも、最悪の結末は避けられたのだ。
「蛇の牙の者たちは?」
ビルセイヤが問う。
「白枝の泉で拘束した者は、すでにガルディアへ移送しました。ただ……」
「ただ?」
「意識を取り戻した途端、何人かは自害しようとしました。今は口を割らせるどころではありません」
ロドリグの顔が険しくなる。
「相当、強い縛りを受けているようです」
「蛇の牙らしいな」
ツバサが嫌そうに顔をしかめる。
「情報を吐かせないための仕込みくらい、いくらでもしてそうだ」
ビルセイヤは小さく頷いた。
「無理に尋問するな。呪いや術式が仕込まれてる可能性がある」
「承知しました。辺境伯様にもそのように報告します」
◇◇◇
森の入口へ戻る頃には、東の空がわずかに白み始めていた。
長い夜が終わろうとしている。
ルミナスの深森の入口で待機していた兵士たちは、ビルセイヤたちの帰還と森の民たちの無事を見て、大きく安堵した。
中には、カイルやベルンの仲間だったのだろう。
目元を押さえている兵士もいる。
「……全員、生きて戻れたのは大きいわね」
セシリアが静かに言う。
「ああ」
ビルセイヤは頷いた。
誰かを救えなかった戦いもある。
間に合わなかった命もある。
だからこそ、今回は間に合ったことに意味があった。
ビルセイヤは懐に収めた白き霊樹の加護枝を、そっと確かめる。
この枝を、アイリスへ届ける。
そして、王都へ蛇の牙の警告を伝える。
やるべきことは、まだ多い。
「まずはガルディアだな」
ツバサが大きく息を吐く。
「さすがにちょっと休みたい」
「珍しくまともなこと言うじゃない」
セシリアが笑う。
「いや、普通に疲れただろ。泣き枝の回廊から樹哭の間まで、ずっと全力だったんだぞ」
「それはまあ……否定できないわね」
エミリアも苦笑した。
「私も少し休みたいです。精霊魔法を使い続けましたから」
シルヴァが申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんね。みんなに無理させちゃった」
「謝る必要はない」
ビルセイヤが言う。
「助けに来るって決めたのは俺たちだ」
シルヴァはじっとビルセイヤを見つめ、それから小さく笑った。
「ビルセイヤって、ルルが言ってた通りだね」
「ルルが?」
「うん。“怖そうだけど、優しい人”って」
その言葉に、セシリアが吹き出しそうになった。
「怖そうだけど優しい。けっこう的確ね」
「そうか?」
「ええ、とても」
エミリアまで頷き、ツバサも笑う。
「まあ、初見はだいたい無愛想だしな」
「お前たち……」
ビルセイヤは軽くため息をついた。
だが、その空気は悪くなかった。
長い夜を越えた後の、ほんの少しの穏やかさ。
それが今はありがたかった。
◇◇◇
朝日が森の端を照らし始める頃、ビルセイヤたちはガルディアの街へ戻った。
門の前では、すでに報告を受けた兵士たちが待っていた。
森の民たちは慎重に館へ運ばれ、カイルとベルンも治療室へ移されることになった。
そして、辺境伯ダリウス・ガルディアは、館の前で自ら彼らを出迎えた。
「戻ったか」
その声には、いつもの重みがあった。
だが、ビルセイヤたちの姿を見た瞬間、彼の目にわずかな安堵が浮かぶ。
「報告は受けている。カイルとベルン、そして森の民たちを救ってくれたそうだな」
「間に合ってよかったです」
ビルセイヤが答える。
ダリウス辺境伯は深く頭を下げた。
「礼を言う。ガルディア辺境伯として、そして兵を預かる者として」
辺境伯が、冒険者へ頭を下げる。
周囲の兵士たちが息を呑んだ。
だが、ビルセイヤは静かに受け止めた。
「まだ報告しなければならないことがあります」
「ああ。聞こう」
ダリウスは顔を上げ、すぐに表情を引き締める。
「蛇の牙のことか」
「それだけではありません」
ビルセイヤは懐から、布に包んだ白き霊樹の加護枝を取り出した。
淡い翡翠色の光が、布越しにわずかに漏れる。
ダリウスの目が鋭くなる。
「それは……?」
「白き霊樹から託されたものです」
ビルセイヤは静かに言った。
「王都へ持ち帰る必要があります。アイリス王女に関わるものです」
その言葉に、ダリウスは一瞬だけ沈黙した。
王女。
世界樹。
蛇の牙。
詳しい事情を知らずとも、ただならぬものだと察したのだろう。
「……分かった」
ダリウスは短く頷いた。
「まずは休め。報告はその後でいい」
「いえ、先に重要なことだけ伝えます」
ビルセイヤは真っ直ぐ辺境伯を見た。
「蛇の牙は、王都にも目を向けています」
ダリウスの表情が変わる。
「王都に?」
「はい。白き霊樹がそう告げました。王家に世界樹へ繋がる何かがあることを、蛇の牙は察し始めているようです」
辺境伯の空気が、一瞬で戦場のものへ変わった。
「……陛下へ早馬を出す」
「お願いします」
「ロドリグ!」
「はっ!」
「最速の伝令を用意しろ。王都宛てだ。内容は私が直接書く」
「承知しました!」
ロドリグが駆け出す。
ダリウスは再びビルセイヤへ向き直った。
「詳しい報告は後ほど聞く。だが、今の一言だけで十分だ。王都の警戒を強める必要がある」
「俺たちも、ガルディアで最低限の休息を取ったら王都へ戻るつもりです」
「そうか」
ダリウスは力強く頷いた。
「ならば、その間にこちらで情報をまとめる。捕らえた蛇の牙の者、森の民の証言、兵士たちの報告。すべて整理して渡そう」
「助かります」
◇◇◇
こうして、ルミナスの深森での戦いは終わった。
白枝の泉は浄化され、白き霊樹は眠りへ戻り、母なる根も再び静かに大地へ沈んだ。
カイルとベルンは救われ、森の民たちも保護された。
だが、ビルセイヤたちの旅は終わらない。
白き霊樹の加護枝。
翡翠の鍵を持つ娘。
王都へ忍び寄る蛇の牙の影。
次に向かうべき場所は、再び王都アルティア。
そこには、三か月の鍛錬を始めたばかりのアイリスがいる。
まだ未熟で、けれど確かに前へ進もうとしている王女。
彼女へ届けるべきものが、今ビルセイヤの手の中にあった。
朝日を浴びるガルディアの街で、ビルセイヤは静かに空を見上げる。
北東の深森から、白い風が吹いた。
それは別れの風であり、次なる旅路を告げる風でもあった。
――続く。




