第百二十一話 白き霊樹の託宣
樹哭の間に、静かな白光が満ちていた。
先ほどまで濁った翡翠色の魔力に覆われていた聖域は、まるで長い悪夢から目覚めたかのように、少しずつ本来の姿を取り戻している。
母なる根を縛っていた黒杭は砕け、ヴェノルも消えた。
白き霊樹の枝葉は、穏やかな音を立てて揺れている。
「……綺麗」
セシリアが思わず呟いた。
戦闘の痕は残っている。
砕けた地面、折れた根、焼け焦げた木片。
それでも、この場所には確かに清らかな空気が戻り始めていた。
エミリアは白き霊樹の幹に手を当て、目を閉じている。
その隣では、シルヴァが両手を胸の前で組み、祈るように霊樹を見上げていた。
「白き母さま……」
シルヴァの声は、震えていた。
けれど、それは恐怖ではない。
安堵と、感謝と、ようやく戻ってきたぬくもりに触れるような震えだった。
ビルセイヤは、手の中にある白き霊樹の加護枝を見下ろした。
白銀の木肌。
先端の若葉。
中心に宿る、淡い翡翠色の光。
それは確かに、アイリスの枝杖と同じ系譜の力を感じさせた。
だが、同じではない。
アイリスの枝杖が“芽吹き”なら、これは“導き”だ。
そんな感覚があった。
その時だった。
白き霊樹の幹が、ふわりと光を強めた。
「……!」
エミリアが目を開く。
シルヴァもはっと顔を上げた。
「白き母さまが……話そうとしてる」
白銀の葉が一斉に揺れる。
さらさら、と。
風もないのに、森全体が囁くような音を立てた。
次の瞬間、ビルセイヤたちの意識に、静かな声が届いた。
『……救い手たちよ』
それは、女性の声にも、幼子の声にも、老いた大樹の声にも聞こえた。
いくつもの響きが重なり合い、それでいて不思議と澄んでいる。
白き霊樹の声だった。
『わたしは、白枝の泉を守る霊樹。世界樹より分かたれし根の端。森の記憶を抱くもの』
ビルセイヤは静かに顔を上げる。
「話せるのか」
『長くは、話せません。穢れは払われましたが、傷はまだ深い。けれど、伝えねばならぬことがあります』
白き霊樹の光が、ビルセイヤの手の中の加護枝へ流れ込む。
枝が淡く輝き、空中に小さな光の輪を描いた。
その輪の中に、一本の巨大な樹の影が浮かび上がる。
天まで届く大樹。
枝は空を支え、根は大地を抱き、葉は星のように輝いている。
「世界樹……」
エミリアが息を呑む。
『世界樹は、ただの樹ではありません。命の流れを束ね、世界の均衡を支える柱。かつて、この地にもその根の一部が伸びていました』
光景が変わる。
巨大な世界樹から伸びた一本の根が、大地の下を通り、ルミナスの深森へ繋がっていく。
その根の先に、白き霊樹と母なる根が生まれる。
『白き霊樹は、その流れを見守るために生まれた枝。母なる根は、この地と世界樹を結ぶ古き結び目です』
ツバサが低く呟く。
「だから蛇の牙は、ここを狙ったのか」
『はい。彼らは世界樹そのものへ届く道を探しています。白き霊樹を汚し、母なる根を無理やり起こせば、世界樹の流れに穴を開けられると考えたのでしょう』
「穴……?」
セシリアが眉をひそめる。
『本来なら閉じられている道を、無理やりこじ開けることです。成功していれば、この森だけでは済みませんでした。命の流れが歪み、魔物は狂い、土地は弱り、やがて王国全体へ影響が広がっていたでしょう』
その言葉に、空気が重くなる。
蛇の牙がしようとしていたことは、想像以上に危険だった。
単なる禁術ではない。
世界の根幹へ傷を入れる行為だったのだ。
「止められてよかったわね……」
セシリアが小さく息を吐く。
だが、白き霊樹の声は続いた。
『しかし、これで終わりではありません』
ビルセイヤの表情が引き締まる。
「まだあるのか」
『蛇の牙は、すでにいくつかの“根”を見つけています。ここはその一つに過ぎません』
「複数あるってことか」
ツバサが顔をしかめる。
『世界樹の根は、古い時代に世界各地へ細く伸びました。多くは眠り、忘れられています。けれど、蛇の牙はそれを探している』
「目的は何だ」
ビルセイヤが問う。
『世界樹を喰らう器を作ること』
その一言に、全員が黙った。
ヴェノルも、蛇杖の男も、同じような言葉を残していた。
世界樹を喰らう。
その意味が、少しずつ輪郭を持ち始めている。
『彼らの背後には、世界樹の力を憎み、奪おうとする者がいます。名はまだ深く閉ざされ、わたしにも届きません。ただ、その気配は黒く、古く、空洞のように飢えている』
ビルセイヤは眉をひそめた。
「異界の魔神に関係あるのか」
白き霊樹の枝葉が、わずかに震える。
『同じ闇の流れを感じます。ですが、完全に同じではありません。異界より来るものと、この世界の古い穢れが結びつき始めている……そのように感じます』
エミリアが不安そうに胸元を押さえた。
「それが蛇の牙の本当の目的……」
『おそらくは』
白き霊樹の光が、少し弱まる。
シルヴァが慌てて幹に手を添えた。
「白き母さま、無理しないで……」
『シルヴァ。あなたも、よく耐えました』
「……っ」
その一言で、シルヴァの目に涙が浮かぶ。
『あなたが森の声を繋ぎ、救い手たちを導いたから、わたしは今ここで話せています』
「わたし……何もできなかった……」
『いいえ。あなたは森を諦めませんでした。それが何よりの力です』
シルヴァは小さく嗚咽を漏らし、白き霊樹の幹へ額を当てた。
◇◇◇
白き霊樹の光が、今度はビルセイヤの手にある加護枝から、空中へ伸びた。
そこに浮かび上がったのは、一人の少女の影。
王城で別れたばかりの第二王女。
翡翠の枝杖を抱く少女。
アイリス・アルティアだった。
「アイリス王女……」
エミリアが呟く。
『翡翠の鍵を持つ娘』
白き霊樹の声が、静かに響く。
『彼女はまだ芽です。小さく、未熟で、風に揺れる若葉のような存在。けれど、その内に世界樹へ届く道を開く力を宿しています』
ビルセイヤはアイリスの幻影を見つめた。
王都での試練。
翡翠の枝杖。
三か月の訓練。
すべてが、ここへ繋がっている。
『今の彼女をここへ導いてはなりません。未熟なまま根に触れれば、力に飲まれます』
「だから三か月か」
『時間の長さに意味があるのではありません。彼女が、自らの足で立ち、自らの意志で選ぶことに意味があります』
その言葉に、ビルセイヤは静かに頷いた。
アイリスは守られるだけの王女ではなくなろうとしている。
ならば、自分たちがすべきことは、彼女の代わりに全部を決めることではない。
彼女が進めるように、道を繋ぐことだ。
『救い手ビルセイヤ』
白き霊樹が名を呼んだ。
「なんだ」
『あなたは、彼女の剣となり、盾となる者ではありません』
ビルセイヤの目がわずかに細くなる。
『あなたは、彼女の前に道を示す者。けれど、道を歩くのは彼女自身です』
「……分かってる」
『ならば、その加護枝を王都へ持ち帰りなさい。翡翠の鍵を持つ娘へ見せる時、枝は次の試練の扉を開くでしょう』
「次の試練……」
セシリアが呟く。
『世界樹の継承者候補は、一度の試練で完成するものではありません。心、力、絆を越えたなら、次は“選択”の試練が訪れます』
「選択の試練?」
エミリアが問い返す。
『王女として国を守る道。継承者として世界樹に近づく道。仲間として救い手たちと共に歩む道。それらは時に重なり、時に分かれます。彼女はいずれ、自分が何を選ぶのか問われるでしょう』
ビルセイヤは黙って聞いていた。
アイリスは、ビルセイヤたちと旅をしたいと願っている。
だが、同時に王女でもある。
世界樹の継承者候補となった以上、その責任はさらに重くなる。
彼女の望みだけでは進めない。
だが、責任だけで縛ってしまえば、彼女自身の心が死ぬ。
確かに、いつか選ぶ時が来るのだろう。
『その時、あなたが答えを与えてはいけません』
「……ああ」
『彼女が迷った時、傍にいてください。けれど、選ぶのは彼女自身。それが、世界樹へ近づく者に必要なこと』
白き霊樹の光が、さらに弱まる。
エミリアが心配そうに声を上げた。
「もう十分です。これ以上話すと、霊樹の負担が……」
『最後に、もう一つだけ』
白き霊樹は静かに言った。
『蛇の牙は、王都にも目を向けています』
その一言で、全員の空気が変わった。
「王都に?」
セシリアが鋭く問う。
『彼らは翡翠の鍵の存在を完全には知りません。ですが、“王家に世界樹へ繋がる何かがある”ことを察し始めています』
「つまり、アイリス王女が危ないってことか」
ツバサの声が低くなる。
『今すぐ襲撃が起こるとは限りません。けれど、王都へ戻ったなら警戒を強めなさい。特に、古い記録に触れる者、世界樹の名を語る者、そして蛇の印を持つ者に』
ビルセイヤは加護枝を握り締めた。
「分かった。王都には伝える」
『頼みます』
白き霊樹の声が、少しずつ遠くなる。
『救い手たちよ。白枝の泉は、あなたたちに恩を忘れません。いつか翡翠の鍵を持つ娘と共に戻る日まで、この森は眠りながら待ちましょう』
最後に、白銀の葉が一枚、ふわりと舞い落ちた。
その葉は、エミリアの掌へ静かに収まる。
「これは……」
『精霊を聞く娘へ。森の声を繋ぐ葉です。迷いの森で、一度だけ正しき道を示すでしょう』
エミリアはその葉を胸に抱く。
「ありがとうございます」
白き霊樹の光が、ゆっくりと静まっていく。
声はもう聞こえない。
ただ、穏やかな気配だけが残った。
◇◇◇
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
聞かされた内容が大きすぎたのだ。
世界樹の根。
蛇の牙の本当の狙い。
翡翠の鍵を持つアイリス。
次なる試練。
そして、王都への危険。
「……情報量、多すぎないか?」
最初に口を開いたのはツバサだった。
そのあまりに率直な感想に、セシリアが思わず苦笑する。
「でも、否定できないわね」
「王都に戻ったら、ライオット陛下へ報告だな」
ビルセイヤが言う。
「アイリス王女の訓練だけじゃない。王城内の警戒も強める必要がある」
「古文書庫も危ないかもしれませんね」
エミリアが表情を引き締めた。
「アイリス王女が世界樹に関する記録を調べる予定でしたから」
「なら、戻る理由が増えたわね」
セシリアが頷く。
ビルセイヤは、手の中の加護枝を布で丁寧に包んだ。
これはただの戦利品ではない。
アイリスへ繋ぐ証であり、次の試練を告げる鍵だ。
「まずはガルディアへ戻る」
ビルセイヤは静かに言った。
「辺境伯へ報告し、森の民を保護する。その後、王都へ戻る準備だ」
「ベルンの捜索もですね」
エミリアが付け加える。
「ああ。まだやることはある」
白き霊樹の異変は収まった。
だが、すべてが終わったわけではない。
むしろ、ここから先の方が大きな流れになるかもしれない。
ビルセイヤは樹哭の間を見渡した。
母なる根は静かに眠りへ戻りつつある。
白き霊樹は傷を癒やしながら、深い眠りに入ろうとしている。
シルヴァはその傍に寄り添い、祈りを続けていた。
そして彼の手には、アイリスへ届けるべき加護枝がある。
翡翠の鍵を持つ娘。
選択の試練。
王都へ忍び寄る蛇の影。
新たな火種は、すでに生まれていた。
「行こう」
ビルセイヤが歩き出す。
その背後で、白き霊樹の葉が静かに鳴った。
それは別れの音であり、約束の音でもあった。
いつか、アイリスと共に再びこの森へ戻る日まで。
白き霊樹は、深き森の奥で静かに待ち続けるのだった。
――続く。




