第百十九話 穢蛇の変貌
樹哭の間に、嫌な音が響いた。
ぐちゃり――と、生きた肉に異物が食い込むような湿った音。
砕けた黒杭の欠片を、自らの胸へ突き刺したヴェノルの体が、大きく仰け反る。
「……っ、が……ああああああぁぁぁッ!!」
絶叫。
その声は、もはや人のものではなかった。
翡翠色の光がヴェノルの全身を駆け巡る。
割れた仮面の下から覗く顔は、みるみる異形へ変わっていった。
皮膚の上を翡翠色の亀裂が這い、血管のように脈打つ。
両腕は不自然に膨れ上がり、指先は鉤爪へ変形する。
背からは黒い根と蛇の尾を混ぜたような触手が何本も噴き出し、地面を這いながらのたうった。
そして、その瞳。
人の理性を宿した光は、もう残っていない。
あるのは、飢えた獣と、狂った執念だけだった。
「……あれ、自分で人間やめたわよね」
セシリアが顔をしかめる。
「いや、あれはもう“やめた”ってレベルじゃねえだろ」
ツバサが吐き捨てた。
ヴェノルの口元が裂ける。
頬まで裂けたその口から、長い牙が覗いた。
「白き霊樹……母なる根……! そして貴様らの命……! すべて、我が身の糧にしてくれる……!」
その咆哮に呼応するように、樹哭の間の床を覆っていた穢れた根が一斉に脈打つ。
だが、先ほどまでとは違う。
今やそれらは白き霊樹へではなく、ヴェノル自身へ繋がっていた。
「穢れを、自分の体に集めてる……!」
エミリアが目を見開く。
「儀式の残滓を全部、無理やり自分へ流し込んでるんだ」
ビルセイヤは剣を構え直した。
黒杭は砕けた。
守護巨根も消えた。
白き霊樹と母なる根の浄化も始まっている。
だが、その代わりに最後の穢れが、一人の器へ凝縮された。
つまり――今ここでヴェノルを止めなければ、全部が無駄になる。
「エミリア!」
「はい!」
「浄化は続けろ。ただし、ヴェノルが白き霊樹へ近づいたら最優先で止める」
「分かりました!」
「シルヴァ、森の民と少年を頼めるか」
「う、うん……! 白き母さまの光で、少しずつだけど穢れを抑えられてる……!」
シルヴァは泣きそうな顔のまま、それでも力強く頷いた。
白き霊樹の根元では、助け出された森の民たちがまだ意識を取り戻しきっていない。
あちらに戦火が飛べば危険だ。
ならば、前線は三人で押さえるしかない。
「セシリア、ツバサ」
「ええ」
「任せろ」
「正面から叩く。俺が前へ出る。二人は左右から潰せ」
ビルセイヤの短い指示に、二人は迷いなく頷いた。
その瞬間、ヴェノルが消えた。
「――っ!?」
目で追えない。
次の瞬間には、ビルセイヤの目の前に異形の爪が迫っていた。
「速い……!」
咄嗟に剣を立てて受ける。
凄まじい衝撃。
ビルセイヤの体が数歩分、地面を削りながら押し込まれた。
「ぐっ……!」
重いだけではない。
爪が剣へ触れた場所から、翡翠色の穢れが染み込んでくる。
以前の蛇杖より、ずっと直接的で、ずっと凶悪だ。
「邪魔だァァァッ!!」
ヴェノルの背から伸びた触手が、左右から同時に襲いかかる。
だが、その一本をセシリアの剣が斬り払い、もう一本をツバサが蹴り上げた。
「ビルセイヤ、下がれ!」
「助かる!」
ビルセイヤは一歩引き、態勢を立て直す。
その隙に、セシリアが盾を構えてヴェノルの正面へ踏み込んだ。
「今度はこっちが相手よ!」
盾の体当たり。
ヴェノルは片腕で受け止めるが、その一瞬でツバサが背後へ回り込む。
「死角だ!」
剣閃。
狙うは首筋。
だが、刃が届く寸前、ヴェノルの背から生えた触手が自動的に割り込み、剣を弾いた。
「ちっ、自動防御かよ!」
「人の身を捨てた代償だろうな!」
ビルセイヤは再び踏み込む。
正面からヴェノルの爪を受け流し、そのまま懐へ潜る。
狙いは胴。
だが、斬りつけた感触は浅い。
翡翠色の鱗のようなものが、皮膚の下から浮かび上がっていたのだ。
「硬化までしてるのか」
「貴様らごときの刃が……届くと思うなッ!!」
ヴェノルが咆哮し、足元の根を爆ぜさせる。
無数の根が槍のように噴き上がった。
「散って!」
セシリアの声で三人が跳ぶ。
地面を貫く根槍。
もし一瞬遅れていれば串刺しだった。
しかも、根槍はそれだけでは終わらない。
空中で枝分かれし、今度は鞭のようにしなって追撃してくる。
「くそっ、しつこい!」
ツバサが剣で払い落とす。
セシリアも盾で受け流すが、その度に翡翠色の穢れが盾へべっとりと付着していく。
「これ、長く受けたくないわね……!」
ビルセイヤもまた、根槍を斬り払いながら考える。
力は上がっている。
速さもある。
さらに自動防御の触手付き。
まともに削り合えば、こちらが不利だ。
なら――核を見つけて、一気に断つしかない。
「エミリア!」
「はい!」
「精霊の目で見てくれ! あいつの体で、一番穢れが濃い場所はどこだ!」
エミリアは白き霊樹へ手を当てたまま、ヴェノルへ意識を向ける。
淡い風が彼女の髪を揺らした。
「……見えます!」
次の瞬間、エミリアの顔色が変わる。
「胸です! 黒杭の欠片を刺した場所! でも、そこだけじゃない……!」
「どういうことだ!」
「胸を中心に、穢れが全身へ回ってるんです。今も、白き霊樹から漏れた残滓を吸ってる……このままだと、もっと強くなります!」
「つまり、長引かせるとまずいってことね」
セシリアが舌打ちした。
「十分すぎるほど分かりやすいわ」
ビルセイヤは頷く。
胸。
あそこが核だ。
だが、ヴェノルもそれを自覚しているはず。
当然、簡単には触らせないだろう。
「ツバサ」
「なんだ」
「一瞬でいい。あいつの動きを止められるか」
ツバサはヴェノルの触手を睨みながら、口元を吊り上げた。
「無茶言うな。……と言いたいところだが、まあやるしかねえな」
「セシリア、正面を頼む」
「了解」
「エミリア、合図したら風をくれ」
「はい!」
三人の返事を聞き、ビルセイヤは深く息を吸った。
全身に無属性魔力を巡らせる。
筋肉が軋み、視界が研ぎ澄まされていく。
剣に風を纏わせる。
さらに、薄く火も重ねる。
ヴェノルはその気配を察したのか、口元を歪めた。
「面白い。なら来い、侵食を拒む剣士」
「望むところだ」
ビルセイヤが地を蹴る。
同時に、セシリアも正面から突っ込んだ。
「はあああっ!」
盾と剣の連撃。
ヴェノルは爪と触手で迎え撃つ。
だが、セシリアは真正面から受けるのではなく、わざと角度をずらし、攻撃を流すように立ち回った。
「こっち見なさいよ、化け物!」
盾で爪を逸らし、剣で肩口を浅く裂く。
小さな傷。
だが、その一撃にヴェノルの視線が引き寄せられる。
「鬱陶しい女が……!」
そこへ、ツバサが横から飛び込んだ。
「《アースバインド》!」
地面から伸びた土の鎖が、ヴェノルの脚へ絡みつく。
ヴェノルは即座に触手で引き千切ろうとする。
だが、その一瞬で十分だった。
「エミリア!」
「風よ、彼に道を!」
柔らかな追い風が、ビルセイヤの背を押す。
加速。
ビルセイヤの姿がぶれる。
ヴェノルがようやくこちらを向いた時には、もう遅い。
「――そこだ」
懐へ潜る。
触手が迫る。
だが、ビルセイヤはわざと半歩だけ深く踏み込み、自分の肩を犠牲にその軌道を外した。
触手が左肩を抉る。
熱い痛み。
血が飛ぶ。
それでも止まらない。
剣を、胸へ。
「《風火一閃》!!」
風と火を纏った斬撃が、ヴェノルの胸を斜めに切り裂いた。
翡翠色の鱗が砕ける。
その奥、黒杭の欠片が埋まった核へ、刃が届いた。
「が……あ……!?」
ヴェノルの顔が苦痛に歪む。
だが、まだ浅い。
核は割れきっていない。
ビルセイヤが追撃に入ろうとした瞬間、ヴェノルの胸が脈打った。
「しまっ――」
爆発。
翡翠色の衝撃波が至近距離で炸裂した。
ビルセイヤの体が吹き飛ぶ。
「ビルセイヤ!」
セシリアが叫ぶ。
地面を転がり、辛うじて受け身を取る。
だが、左肩と脇腹の傷が一気に痛んだ。
「っ……!」
息が詰まる。
視界の端で、ヴェノルがよろめきながらも立っているのが見えた。
胸の核に大きな亀裂。
だが、まだ残っている。
「は、はは……! 惜しかったな……!」
ヴェノルの口から血が垂れる。
「だが、この身が砕ける前に……白き霊樹を喰らえば、まだ逆転できる……!」
そう言って、ヴェノルが視線を向けたのは――白き霊樹だった。
「まずい!」
エミリアが叫ぶ。
ヴェノルの背の触手が一斉に伸び、白き霊樹の根元へ向かう。
シルヴァが悲鳴を上げた。
「いやっ……!」
「させるか!」
セシリアが飛び込むが、距離が遠い。
ツバサも間に合わない。
だが、その瞬間。
白き霊樹そのものが、ふわりと白い光を放った。
枝がざわめく。
母なる根が脈打つ。
そして、シルヴァの足元から伸びた白い根が、触手の進路を塞ぐように立ち上がった。
「え……?」
シルヴァが目を見開く。
白き霊樹が、応えたのだ。
森の民の祈りに。
母なる根を守ろうとする意志に。
白い根はヴェノルの触手を受け止め、そのまま絡みついて押し返す。
「白き母さま……!」
エミリアも息を呑んだ。
「霊樹が、自分で……!」
ヴェノルの顔が驚愕に歪む。
「な……なぜだ……! まだ眠りに落ちるはずの霊樹が……!」
「答えは簡単よ」
セシリアが剣を構え直し、にやりと笑った。
「あなたが嫌われてるからでしょ」
「てめえに森の母が従うわけねえだろ」
ツバサも吐き捨てる。
その言葉に、ヴェノルの表情が怒りで歪んだ。
だが、その怒りが、最後の隙になる。
ビルセイヤはゆっくり立ち上がった。
左肩は痛む。
脇腹も熱い。
それでも、剣はまだ握れる。
そして何より――今、ヴェノルの核には大きな亀裂が入っている。
「……これで終わりだ」
ビルセイヤが低く言う。
ヴェノルが振り返る。
その背後で、エミリアがそっと風を集めていた。
セシリアが正面へ踏み出し、ツバサが横へ回り込む。
三方向。
逃げ場はない。
白き霊樹の光が、樹哭の間を照らす。
穢れた蛇は、ついに追い詰められた。
決着の時が、迫っていた――。
――続く。




