第百十八話 穢れの守護巨根
樹哭の間が、大きく震えた。
最後の黒杭を胸に埋め込んだ、穢れの巨人――いや、穢れの守護巨根が、地鳴りのような唸り声を上げて立ち上がる。
その全身は黒く濁った根と樹皮で構成されていた。
両腕は大木の幹のように太く、肩からは無数の細根が蛇のようにうねっている。
顔にあたる部分には、これまでの根喰いと同じく翡翠色の仮面が張りついていたが、その大きさは人の背丈を軽く超えていた。
そして何より、胸の中央に埋め込まれた最後の黒杭が、不気味な心臓のように脈打っている。
「……っ、でかすぎるでしょ」
セシリアが思わず息を呑む。
「最後の一本を守るために、残った穢れ全部をあれに押し込めたって感じか」
ツバサが舌打ちした。
ヴェノルは口元から血を流しながらも、まだ笑っていた。
「そうだ。白き霊樹の力、母なる根の魔力、森の穢れ、そして未完成の儀式の残滓――すべてを繋ぎ合わせた即席の守護獣だ」
「即席にしては、ずいぶん趣味の悪い出来だな」
ビルセイヤは剣を構えたまま吐き捨てる。
脇腹の傷が痛む。
だが、立てないほどではない。
最後の黒杭は、あの守護巨根の胸にある。
ならばやることは単純だ。
あれを倒して、最後の黒杭を破壊する。
「セシリア、ツバサ!」
「分かってる!」
「言われなくても!」
「エミリアはシルヴァと白き霊樹の浄化を続けろ! 穢れが戻らないように押さえてくれ!」
「はい!」
「シルヴァ、母なる根と白き霊樹の繋がりを切るな!」
「う、うん……!」
ビルセイヤの指示が飛ぶ。
次の瞬間、穢れの守護巨根が大きく腕を振り上げた。
「来るわ!」
セシリアが叫ぶ。
振り下ろされた巨腕が、空気ごと叩き潰す勢いで迫る。
ただの殴打ではない。腕に絡みついた細根が鞭のようにしなり、触れたものを絡め取ろうとしていた。
「散れ!」
ビルセイヤの声で、全員が左右へ飛ぶ。
直後、巨腕が叩きつけられた地面が爆ぜた。
土と木片が吹き飛び、樹哭の間がさらに大きく揺れる。
「うわっ……!」
シルヴァがよろめく。
だが、エミリアがすぐに支えた。
「大丈夫です! 祈りを止めないでください!」
「……うん!」
シルヴァは白き霊樹へ手を当て直し、震える声で祈りを紡ぐ。
「白き母さま……母なる根と、森のみんなを……守って……!」
白い光が、再び霊樹の幹を包んだ。
◇◇◇
「こっちだ、木偶!」
ツバサがわざと大声を上げ、守護巨根の側面へ駆ける。
狙いは注意を引くこと。
守護巨根の仮面がぎょろりとツバサを向いた。
「よし、食いついた!」
直後、巨腕が横薙ぎに振るわれる。
ツバサは滑り込むように懐へ潜り込んだ。
ぎりぎりでかわし、剣を抜き放つ。
「《風牙斬》!」
横一文字の斬撃が、守護巨根の膝裏を裂いた。
黒い樹液が飛び散る。
だが、浅い。
「硬っ……!」
予想以上に樹皮が分厚い。
根喰いとは比べものにならない強度だった。
その隙に、守護巨根の足元から無数の細根が噴き出す。
「ツバサ、下!」
「っ!」
セシリアの警告で後ろへ跳ぶ。
さっきまでいた場所を、黒い根の槍が何本も貫いた。
「お返しだ!」
セシリアが盾を構えて突っ込む。
守護巨根の正面へ、あえて真正面から。
「はぁぁっ!」
盾で巨体の脛を殴りつける。
当然、まともに押し返せる相手ではない。
だが、それでいい。
守護巨根の視線がセシリアへ向いた瞬間、ビルセイヤが真横から駆け上がった。
「借りるぞ!」
守護巨根の膝、腰、脇腹。
足場にするように駆け上がり、そのまま胸の黒杭を狙って剣を振り下ろす。
「そこだ!」
ガギィンッ――!
重い音が響いた。
黒杭に刃は届いた。
だが、浅い。
胸の前で交差した太い根が、咄嗟に黒杭を庇ったのだ。
「防ぐか!」
守護巨根が咆哮し、胸元のビルセイヤを叩き落とそうと両腕を振り回す。
ビルセイヤは空中で体を捻り、すんでのところで離脱した。
だが、片方の腕にかすった細根が腕へ絡みつく。
「っ……!」
瞬時に、冷たい穢れが流れ込んでくる。
翡翠色の筋が、手首から肘へと這い上がった。
「ビルセイヤ!」
セシリアが顔色を変える。
「平気だ!」
ビルセイヤは歯を食いしばり、無属性魔力を腕へ集中させた。
侵食を焼き切るように押し返す。
腕の翡翠色が、じりじりと消えていった。
だが、時間をかければ押し負ける。
長引かせるわけにはいかない。
◇◇◇
一方、ヴェノルは傷を押さえながら、なおも杖を掲げていた。
「まだ終わらぬ。まだ、足りぬ……!」
杖先から伸びた翡翠色の糸が、守護巨根と繋がっている。
奴が操っているのだ。
「……なら、まずはあいつを黙らせた方が早いかもしれません」
エミリアが低く呟く。
白き霊樹に手を当てたまま、片手で弓を取った。
「シルヴァさん、少しだけお願いします!」
「う、うん!」
エミリアは片膝をつき、ヴェノルへ狙いを定める。
深呼吸。
精霊の気配を矢へ宿す。
「風よ、水よ――穢れを断つ一矢となれ」
放たれた矢は、淡い蒼緑の光を纏って一直線に飛んだ。
ヴェノルは咄嗟に障壁を展開する。
だが、完全には防ぎきれない。
矢が障壁を貫き、杖を持つ右肩を射抜いた。
「がっ……!」
ヴェノルの体が大きく揺れる。
杖先から守護巨根へ伸びていた糸が、一瞬だけ乱れた。
「今です!」
◇◇◇
「ツバサ!」
「おう!」
ビルセイヤの声に、ツバサが即座に反応する。
ツバサは守護巨根の足元へ潜り込み、剣を地面へ突き立てた。
「《アースバインド》!」
土がうねり、守護巨根の片脚へ絡みつく。
完全に止めることはできない。
だが、一瞬なら十分だ。
「セシリア!」
「任せなさい!」
セシリアが正面から突っ込んだ。
盾を低く構え、守護巨根の膝へ全力でぶつかる。
「うおおおおっ!」
鈍い衝撃音。
ツバサの拘束とセシリアの突撃で、守護巨根の上体がわずかに傾ぐ。
その“わずか”を、ビルセイヤは見逃さない。
地を蹴る。
風を纏う。
身体強化を最大まで引き上げる。
視界から、余計なものが消える。
見えるのは、胸の黒杭だけ。
「――斬る」
ビルセイヤは、ほとんど一筋の光のような速度で駆け上がった。
守護巨根の胸元へ。
交差して庇う根の腕が動くより、わずかに早く。
剣を抜き放つ。
「《風閃・双牙》!」
二連の斬撃が、交差する根を切り裂いた。
防壁が開く。
露出した最後の黒杭へ、ビルセイヤは全身の力を込めて剣を叩き込んだ。
――バキィッ!!
黒杭に大きな亀裂が走る。
だが、まだ折れない。
「まだか……!」
その瞬間、守護巨根の仮面が至近距離でビルセイヤを見た。
翡翠色の口が、裂けるように開く。
「まずい!」
ツバサが叫ぶ。
仮面の口から、濃縮された翡翠色の魔力が砲撃のように放たれた。
避けきれない。
ビルセイヤはとっさに剣を盾代わりに構える。
だが――
「ビルセイヤさん!」
エミリアの声。
次の瞬間、ビルセイヤの周囲を風の障壁が包んだ。
同時に、セシリアが地面を蹴って飛び込む。
「このっ……!」
盾が魔力砲を真正面から受け止めた。
凄まじい衝撃。
セシリアの体が吹き飛ばされる。
「セシリア!」
「大丈夫……っ、ちょっと腕が痺れただけ……!」
苦しげに言いながらも、セシリアは立ち上がった。
ビルセイヤは歯を食いしばる。
仲間が作ってくれた、この一瞬。
無駄にはしない。
「ツバサ! もう一回、足を止めろ!」
「上等だ!」
ツバサは拳を握り、今度は魔法ではなく直接守護巨根の脚へ飛びついた。
腰の剣をしまい、両腕で根の脚を抱え込む。
「うおおおおおおっ!!」
身体強化を最大まで込め、無理やり脚を引き倒す。
もちろん、一人の力で完全に止められる相手ではない。
だが、足をずらすことはできる。
ぐらり、と守護巨根の体勢が崩れた。
「今よ、ビルセイヤ!」
「あああああっ!!」
ビルセイヤは、亀裂の入った黒杭へ再び剣を振り下ろした。
風。
火。
そして、無属性の身体強化。
三つを同時に剣へ叩き込む。
「砕けろおおおおおっ!!」
渾身の一撃。
黒杭が悲鳴を上げるように軋み――
次の瞬間、ついに粉々に砕け散った。
◇◇◇
その瞬間、世界が止まったようだった。
守護巨根の胸から翡翠色の光が溢れ出す。
白き霊樹と母なる根へ突き刺さっていた穢れの流れが、一斉に断ち切られた。
『――――!!』
守護巨根が声にならない絶叫を上げる。
全身の根が暴れ、仮面に亀裂が走り、体が内側から崩れていく。
「みんな、下がって!」
エミリアが叫ぶ。
ビルセイヤは胸元から飛び降り、セシリアとツバサも一気に距離を取る。
直後、守護巨根は翡翠色の光を噴き上げながら爆散した。
黒い根と穢れた魔力が吹き荒れる。
だが、その暴風を押し返すように、白き霊樹がまばゆい白光を放った。
光は母なる根へ流れ込み、さらに樹哭の間全体へ広がっていく。
翡翠色の穢れが、白い光に焼かれるように薄れていった。
「……浄化が、始まってる」
エミリアが呆然と呟く。
シルヴァは泣きそうな顔で白き霊樹へしがみついていた。
「母さま……!」
母なる根の脈動が、今度は苦痛ではなく、穏やかな鼓動へ変わっていく。
拘束されていた森の民の少年も、胸元の翡翠色が消え、静かな寝息を立て始めていた。
「助かった……のか?」
ツバサが肩で息をしながら言う。
「まだだ!」
ビルセイヤの視線は、爆散した守護巨根の向こう――ヴェノルへ向いていた。
黒杭は砕けた。
守護巨根も消えた。
だが、その元凶であるヴェノルはまだ生きている。
しかも、あの男は爆散の混乱の中で、何かをしようとしていた。
「……くくっ」
血に濡れたヴェノルが、砕けた黒杭の欠片を拾い上げている。
その仮面の奥の目は、なおも狂気に染まっていた。
「素晴らしい……実に素晴らしい。だが、これで終わると思うなよ」
「何をする気だ!」
セシリアが叫ぶ。
ヴェノルは答えない。
代わりに、拾い上げた黒杭の欠片を、自分の胸へ――突き刺した。
「なっ……!?」
全員の表情が凍りつく。
翡翠色の光が、ヴェノルの全身を内側から染め上げていく。
砕けたはずの儀式の残滓。
守護巨根に宿っていた穢れ。
そして、白き霊樹から吸い上げ損ねた魔力の残り。
それらが一気にヴェノルの肉体へ流れ込み始めた。
「……最後に、私自身が器となろう」
仮面が、音を立てて割れた。
その下から現れたのは、人の顔ではなかった。
翡翠色の亀裂に覆われた皮膚。
蛇のように縦に裂けた瞳。
口元から覗く、異様に長い牙。
「白き霊樹も……母なる根も……貴様らごと喰らってくれる……!」
樹哭の間に、禍々しい咆哮が響く。
浄化は始まった。
だが、戦いは終わっていない。
蛇の牙幹部ヴェノルは、自らを穢れの器へ変えて、最後の悪足掻きに出た。
ビルセイヤは剣を握り直し、変貌するヴェノルを睨み据える。
白き霊樹を守るための戦いは、まだ終わらない――。
――続く。




