第百十六話 母なる根の悲鳴
樹哭の間が、悲鳴を上げた。
白銀の巨大な根――《母なる根》が、大地ごと持ち上がるように脈打つ。
残る四本の黒杭が一斉に翡翠色の光を放ち、空洞全体を濁った魔力で満たしていく。
『――――ッ!!』
耳ではなく、胸の奥へ直接叩きつけられるような叫びだった。
「くっ……!」
セシリアが顔をしかめ、盾を支えに踏みとどまる。
エミリアも咄嗟に耳を押さえたが、意味はない。
この声は音ではなく、森そのものの苦痛が魔力となって響いているのだ。
シルヴァはその場に膝をつき、胸元を押さえて震えていた。
「だめ……だめぇ……これ以上、起きちゃだめ……!」
ヴェノルはそんな光景を見上げ、仮面の奥で静かに笑う。
「美しいだろう。眠るべき根が、無理やり目を開かされる瞬間は」
「趣味が悪いにもほどがあるわね……!」
セシリアが吐き捨てる。
ツバサはグレートボアの足を押さえ込んだまま、舌打ちした。
「ビルセイヤ! 時間がねえぞ!」
「ああ!」
ビルセイヤは短く応じ、剣を握り直した。
残る大杭は四本。
森の民の拘束もまだ解けきっていない。
しかも、ヴェノルが儀式を加速させたことで、樹哭の間そのものが“敵”になりつつある。
最優先は――。
「セシリア、ツバサ! 森の民の救出を優先しろ! エミリアはシルヴァを守りながら浄化の補助! 俺は杭を折る!」
「了解!」
「任せろ!」
「はい!」
ビルセイヤは地を蹴った。
狙うは、母なる根の右側に打ち込まれた四本目の大杭。
だが、その進路を遮るように、地面から無数の根が噴き上がる。
「《樹牙葬》」
ヴェノルが杖を軽く振っただけで、黒緑の根が槍となって襲いかかってきた。
一本、二本、三本。
ビルセイヤは剣で弾き、斬り、身体を捻って避ける。
だが、その数が多い。
「ちっ……!」
避けきれなかった一本が頬を掠め、浅い傷を刻んだ。
そこから、冷たい何かが侵入してくる。
翡翠色の穢れだ。
「舐めるな」
ビルセイヤは無属性魔力を全身へ巡らせる。
アークレイドから受け継いだ澄んだ力が、侵食を弾き飛ばした。
ヴェノルがわずかに目を細める。
「やはり面白い。お前、ただの剣士ではないな」
「お前に説明する義理はない」
言い捨て、ビルセイヤは四本目の杭へ到達した。
剣に風を纏わせる。
「砕けろ!」
一閃。
黒杭に亀裂が走る。
もう一撃――と踏み込んだ瞬間、今度は空洞の天井近くから翡翠色の光が降り注いだ。
「ビルセイヤさん、上です!」
エミリアの叫び。
咄嗟に身を引く。
直後、ビルセイヤのいた場所へ翡翠色の魔力弾が叩きつけられ、地面を抉った。
上を見れば、樹哭の間の縁に黒ローブの術者が三人、いつの間にか陣取っている。
「面倒な援護だな……!」
ツバサが顔をしかめる。
「エミリア!」
「分かっています!」
エミリアは即座に弓を引き絞った。
「風よ、彼方へ!」
放たれた矢は風を纏い、術者の一人の肩を貫く。
悲鳴と共に一人が崩れ落ちた。
だが、残る二人はなお詠唱を続ける。
その隙に、セシリアは森の民を拘束する根へ斬りかかっていた。
「これで、二人目っ!」
剣が根を断ち切る。
拘束されていた若い森の民の女性が、崩れるように地面へ倒れた。
すぐにシルヴァが駆け寄る。
「だいじょうぶ!? しっかりして!」
「シルヴァ、下がって!」
エミリアが叫ぶ。
母なる根の周囲の土が、ぶくり、と不気味に膨らんだ。
次の瞬間。
そこから這い出してきたのは、人型をした“何か”だった。
体は木と根でできている。
だが顔の部分には、黒く濁った翡翠色の仮面のような殻が張りつき、眼窩だけが妖しく光っている。
「……今度は何よ、これ!」
セシリアが一歩前へ出る。
シルヴァの顔が青ざめた。
「根喰い……! 穢れた根が作る森の亡者……!」
「名前からしてろくでもねえな!」
ツバサが剣を構える。
根喰いは一体ではない。
三体、四体、五体。
母なる根の周囲から次々と這い出し、森の民とシルヴァへ向かってくる。
「エミリア! シルヴァと森の民を連れて下がれ!」
ビルセイヤが叫ぶ。
「でも、ビルセイヤさんの援護が――」
「今はそっちが優先だ!」
「……っ、分かりました!」
エミリアは唇を噛み、シルヴァの手を取った。
「シルヴァ、立てますか!?」
「う、うん……!」
「助けた人たちを後ろへ! ここは私たちが抑えます!」
その間に、セシリアとツバサが根喰いの前へ立ちはだかる。
「ツバサ、右!」
「左は任せる!」
セシリアが盾で一体の突進を受け止める。
重い。
木と根の集合体とは思えないほどの質量だった。
「はぁっ!」
押し返しざまに剣を振るう。
だが、刃が幹を斬った感触はあるのに、相手は止まらない。
「硬い……!」
「核があるんだろ!」
ツバサが横から飛び込み、根喰いの膝裏を斬り払う。
体勢が崩れたところへ、さらに回し蹴り。
仮面のような顔面に直撃した瞬間、翡翠色の殻にひびが入った。
「そこか!」
セシリアが即座に踏み込み、ひびの入った顔面へ剣を突き立てる。
翡翠色の光が弾け、根喰いが崩れ落ちた。
「顔が核ってわけね!」
「分かりやすくて助かる!」
だが、数が多い。
ツバサの背後から、別の一体が腕を振り上げる。
「ツバサ、後ろ!」
「っ!」
セシリアの警告で振り向きざま、ツバサは剣を交差させて受け止めた。
衝撃が腕に響く。
「くそっ、重てえ!」
その隙に、根喰いの足元から細い根が這い出し、ツバサの足首へ絡みつこうとした。
まずい。
だが、その瞬間。
「《フレイム》!」
炎が走った。
ビルセイヤの放った火魔法が細根を焼き払い、ツバサを解放する。
「借り一つだ!」
「あとで返せ!」
軽口を叩きながらも、ビルセイヤはそのまま四本目の杭へ斬りかかった。
亀裂の入っていた黒杭が、今度こそ砕け散る。
四本目、破壊。
母なる根の悲鳴が、ほんのわずかに弱まった。
『……ぅ……』
同時に、森の民を拘束していた根もさらに緩む。
「今です!」
エミリアが残る拘束へ精霊魔法を流し込む。
「風よ、穢れを祓って!」
淡い風が根の表面を撫で、黒ずんだ魔力を削り取る。
シルヴァも震える手を母なる根へ向けた。
「白き森の声よ……母なる根を守って……!」
彼女の白い光が重なると、拘束の根は明らかに弱った。
「セシリア! そこ!」
「分かってる!」
セシリアの剣が閃く。
根が断たれ、三人目の森の民が解放された。
これで、残る拘束者はあと一人。
だが、ヴェノルはそこで初めて、明確な苛立ちを見せた。
「……想定以上だな」
仮面の奥の目が、冷たく細められる。
「ならば、供物の質を変えるだけだ」
「何をする気だ!」
ビルセイヤが叫ぶ。
ヴェノルは答えない。
代わりに杖を高く掲げ、残る三本の大杭へ魔力を流し込んだ。
翡翠色の光が、今度は母なる根そのものではなく――まだ拘束されたままの最後の森の民へ集まり始める。
「……っ、やめ……!」
拘束されていたのは、年若い少年だった。
ルルと同じくらいの年頃に見える。
彼の胸元へ、三本の大杭から伸びた光が突き刺さる。
「やめろ!」
シルヴァが悲鳴を上げた。
「その子はだめ! 森の核にされちゃう!」
「森の核……!?」
エミリアが息を呑む。
ヴェノルは静かに告げた。
「器が足りぬなら、作ればいい。森の民の血と母なる根の魔力を繋ぎ、即席の触媒にする」
「狂ってる……!」
セシリアの顔が怒りに染まる。
「人を道具扱いするな!」
ツバサも吐き捨てるように言った。
ビルセイヤの視線が鋭くなる。
残る大杭は三本。
だが、今この瞬間にも少年の体へ穢れが流れ込んでいる。
先に杭を壊すか。
それとも直接、少年を救うか。
迷う時間はない。
「エミリア!」
「はい!」
「少年を守る結界を張れるか!」
「短時間なら……!」
「セシリア、ツバサ! ヴェノルを止めろ! 俺は最後の拘束を断ち切る!」
「了解!」
「行ってこい!」
エミリアは杖を構え、少年の周囲へ風の膜を展開する。
「風の精霊よ、彼を包んで!」
薄緑の障壁が少年を覆う。
翡翠色の光が少しだけ鈍る。
「今です、ビルセイヤさん!」
ビルセイヤは駆けた。
その前へ、ヴェノルが初めて自ら立ちはだかる。
「行かせると思うか?」
蛇の杖が振るわれる。
黒緑の根が渦となって襲いかかった。
ビルセイヤは剣で受ける。
激突。
火花ではなく、翡翠色の魔力が散った。
重い。
今までの術とは比べものにならないほど、圧力が強い。
「貴様……!」
「ようやく本気を見せるか、侵食を拒む剣士」
ヴェノルの声は静かだったが、その内側には明確な殺意があった。
母なる根はなおも脈打つ。
少年の顔色はみるみる青ざめていく。
残る大杭は三本。
樹哭の間の戦いは、ここで新たな局面へ突入した。
ビルセイヤとヴェノル。
ついに、蛇の牙幹部との真正面からの激突が始まろうとしていた――。
――続く。




