第百十五話 樹根儀式
ルミナスの深森最奥――《樹哭の間》。
そこは、森の心臓と呼ぶべき場所だった。
大地から隆起した巨大な白銀の根。
世界樹に連なる“母なる根”。
その神聖なはずの根には、無数の黒い杭が打ち込まれ、濁った翡翠色の光が脈打っている。
根が震えるたびに、空洞全体が低く呻いた。
『……ぁ……』
声が聞こえた。
人の声ではない。
獣の声でもない。
森そのものが苦痛に呻くような声だった。
「ひどい……」
エミリアが顔を歪める。
「母なる根が、無理やり起こされようとしています」
シルヴァは胸元を押さえ、今にも泣き出しそうな顔で根を見つめていた。
「やめて……母なる根は、まだ起きちゃだめなのに……」
その前方、黒い祭壇の前に立つ仮面の男――ヴェノルが、静かに笑った。
「目覚めに時期など関係ない。必要なのは力だ」
ビルセイヤは剣を構える。
「そのために森を壊すのか」
「壊すのではない。作り替えるのだ」
ヴェノルは片手を広げた。
「世界樹の根は、この世界に流れる生命の理へ繋がっている。我ら蛇の牙は、その流れを手に入れる」
「ろくでもないことだけは分かったわ」
セシリアが盾を構え、吐き捨てるように言う。
ツバサも剣を抜く。
「つまり、あの杭を全部壊せばいいんだな?」
「そう簡単に触れられると思うか?」
ヴェノルが指を鳴らした。
空洞の周囲にいた黒ローブたちが、一斉に動き出す。
数は十数人。
さらに、母なる根の周囲から翡翠色に濁った根がうねり始めた。
「来るぞ!」
ビルセイヤの声と同時に、戦闘が始まった。
黒ローブの一団が左右から迫る。
「正面は私が止める!」
セシリアが前に出た。
盾で曲刀を受け止め、そのまま押し返す。
続けて剣を振るい、相手の腕を浅く斬って武器を落とさせた。
「ツバサ!」
「分かってる!」
ツバサが横へ回り込み、地面に手を当てる。
「《アースバインド》!」
土の腕が伸び、黒ローブたちの足を絡め取る。
その隙に、エミリアが弓を構えた。
「風よ、貫いて!」
放たれた矢が風を纏い、後方で詠唱していた黒ローブの杖を弾き飛ばす。
「シルヴァ、杭の場所は分かるか!」
ビルセイヤが叫ぶ。
シルヴァは母なる根を見つめ、震えながらも頷いた。
「大きい杭が七本! 小さいのはたくさんあるけど、儀式を支えてるのは七本だよ!」
「七本か」
ビルセイヤは即座に判断する。
「俺が杭を壊す。セシリアとツバサは敵を抑えろ。エミリアはシルヴァを守りながら浄化の準備!」
「了解!」
「任せろ!」
「はい!」
ビルセイヤは地を蹴った。
狙うは、母なる根に打ち込まれた一番近い黒杭。
だが、その前に翡翠色の根が槍のように突き出してくる。
「邪魔だ!」
剣を一閃。
汚染された根を断ち切り、そのまま黒杭へ接近する。
黒杭は人の腕ほどの太さがあり、表面には蛇の牙の刻印がびっしりと刻まれていた。
近づくだけで、吐き気を催すような魔力が肌を刺す。
「こんなものを……」
ビルセイヤは剣に風を纏わせる。
「森に打ち込むな!」
渾身の斬撃。
黒杭に亀裂が入る。
もう一撃。
乾いた破砕音と共に、一本目の杭が砕け散った。
瞬間、母なる根の脈動がわずかに弱まる。
『……ぁ……』
苦しみの声が、少しだけ和らいだ。
「効いてる!」
シルヴァが叫ぶ。
「ビルセイヤ、続けて!」
「ああ!」
ビルセイヤは次の杭へ向かう。
だが、ヴェノルがそれを黙って見ているはずもなかった。
「やれ」
低い命令。
空洞の奥から、巨大な影が現れる。
それは翡翠に侵されたグレートボアだった。
ただし、通常の個体より二回りは大きい。
牙には黒い結晶が生え、体表には濁った翡翠色の筋が走っている。
「改造魔物かよ!」
ツバサが舌打ちする。
グレートボアは地面を蹴り、ビルセイヤへ突進した。
「ビルセイヤ!」
セシリアが叫ぶ。
ビルセイヤは振り返るが、距離が近い。
避けるより早く、巨体が迫る。
「《アースウォール》!」
ツバサが即座に土壁を作る。
だが、グレートボアはその壁を粉砕して突き進んだ。
「止まらねえ!」
「私が止める!」
セシリアが盾を構えて前へ出る。
衝突。
重い音が空洞に響いた。
「ぐっ……!」
セシリアの足が地面を削る。
それでも彼女は倒れない。
「行って! 杭を!」
「助かる!」
ビルセイヤは二本目の黒杭へ向かって踏み込む。
ヴェノルの仮面の奥で、目が細くなった。
「思ったより動くな」
「余裕ぶってる場合か?」
ツバサが黒ローブを蹴り飛ばしながら言う。
「お前の儀式、壊され始めてるぞ」
「問題ない」
ヴェノルは静かに杖を掲げた。
「まだ、供物は足りている」
「供物……?」
エミリアが眉をひそめる。
次の瞬間、空洞の奥から苦しげな声が聞こえた。
「……っ、助け……」
そこには、木の根に拘束された人影があった。
一人ではない。
三人。四人。
全員が森の民らしき服装をしている。
「森の民……!」
シルヴァが悲鳴を上げた。
「ルルの里の人たち……!」
ヴェノルが笑う。
「母なる根を起こすには、森に連なる血が必要でな。森の民ほど都合の良い供物はない」
「貴様……!」
ビルセイヤの声が低く沈む。
「許せません……!」
エミリアの周囲に風が渦巻く。
だが、森の民たちを拘束する根には黒杭と同じ穢れが絡みついている。
力任せに攻撃すれば、彼らまで傷つけかねない。
「落ち着いて!」
シルヴァが叫ぶ。
「まず大杭を壊して! そうすれば拘束の力も弱くなる!」
「なら、急ぐしかないな」
ビルセイヤは二本目の杭へ剣を叩き込んだ。
亀裂。
破砕。
二本目が砕ける。
さらに三本目へ。
だがその時、ヴェノルが動いた。
これまで黒ローブたちに任せていた男が、初めて自ら前へ出る。
「好きに壊されては困る」
杖の先に、濁った翡翠色の光が集まる。
「《樹牙葬》」
地面が割れた。
母なる根から伸びた黒緑の根が、牙のようにビルセイヤへ襲いかかる。
「っ!」
ビルセイヤは剣で斬り払う。
だが一本、腕をかすめた。
焼けるような痛み。
傷口から、翡翠色の魔力が侵入しようとする感覚があった。
「ビルセイヤさん!」
「問題ない!」
ビルセイヤは無属性魔力を傷口へ流し込み、侵食を弾き飛ばす。
ヴェノルがわずかに目を見開いた。
「侵食を拒んだか。面白い」
「面白がってる暇はないぞ」
ビルセイヤは三本目の杭へ踏み込み、剣を振り下ろす。
三本目が砕けた。
母なる根の脈動がさらに弱まる。
森の民を拘束する根も、わずかに緩んだ。
「今なら一人ずつ外せます!」
エミリアが叫ぶ。
「セシリア!」
「任せて!」
セシリアはグレートボアを盾で押し返し、横へ流す。
そこへツバサが飛び込み、足を斬った。
「倒れろ!」
巨体が傾く。
「《アイスアロー》!」
エミリアの氷矢がグレートボアの足を凍らせ、完全に動きを止めた。
その隙に、シルヴァが森の民の一人へ駆け寄る。
「ごめんね、今助けるから……!」
エミリアが穢れを薄め、セシリアが根を斬る。
一人目の森の民が救出された。
息はある。
「よし!」
ツバサが叫ぶ。
「この調子でいける!」
だが、ヴェノルは表情を変えなかった。
「なるほど。ならば、予定より早めるだけだ」
彼は懐から黒い種のようなものを取り出した。
それを、祭壇へ落とす。
瞬間。
樹哭の間全体が震えた。
母なる根に残る四本の大杭が、一斉に強く光る。
「何をした!」
ビルセイヤが叫ぶ。
ヴェノルは静かに告げた。
「起動を早めた」
黒い種が祭壇に沈み込み、濁った翡翠色の光が爆発的に広がる。
母なる根が、今までで最も大きく脈打った。
『――――ッ!!』
森全体を揺るがす悲鳴。
シルヴァが膝をつく。
「だ、め……母なる根が……起きちゃう……!」
白銀の巨大な根が、ゆっくりと持ち上がり始めた。
まだ完全ではない。
だが、明らかに目覚めへ向かっている。
残る大杭は四本。
救出すべき森の民はまだ複数。
敵の幹部ヴェノルは健在。
時間がない。
ビルセイヤは剣を握り締めた。
「全部まとめて止める」
低く告げ、前へ踏み込む。
ヴェノルは仮面の奥で笑った。
「止められるものなら、止めてみろ」
母なる根が、再び脈打つ。
樹哭の間に、濁った翡翠色の光が満ちていく。
森の命運を懸けた戦いは、ここからさらに激しさを増していくのだった。
――続く。




