第百十四話 泣き枝の番人
泣き枝の回廊の最奥に、穢れた守護者が立ちはだかっていた。
木でできた巨人。
幹のような胴体。根を束ねた腕。枝角の生えた頭部。
本来なら森を守る存在だったはずのそれは、今や眼窩に濁った翡翠色の光を宿し、低い唸り声を響かせている。
「こいつを倒して、先へ進むぞ!」
ビルセイヤの声に、仲間たちが一斉に構えた。
だが、シルヴァが慌てて叫ぶ。
「待って! 殺しちゃだめ!」
「殺すなって、相手は木の巨人だぞ!?」
ツバサが思わず叫び返す。
「あの子は、泣き枝の番人なの! 本当は樹哭の間へ悪いものが入らないように守ってくれる存在で……穢れに操られてるだけ!」
「つまり、倒すんじゃなくて浄化しろってことね!」
セシリアが盾を構えながら叫ぶ。
「そう! 中に入った穢れだけを取り除ければ、元に戻るはず!」
簡単に言ってくれる。
ビルセイヤは苦笑しそうになったが、すぐに表情を引き締めた。
泣き枝の番人が、巨大な腕を振り上げる。
「来るぞ!」
根の腕が地面を叩きつけた。
轟音。
地面が割れ、白い葉と土砂が舞い上がる。
ビルセイヤたちは左右へ散った。
「正面は俺が引き受ける! セシリアは守りを固めろ! ツバサは足を狙え! エミリア、シルヴァと一緒に浄化の準備!」
「了解!」
「任せろ!」
「分かりました!」
ビルセイヤは身体強化を巡らせ、番人の懐へ踏み込んだ。
巨体に似合わず、番人の動きは速い。
枝の腕が横薙ぎに迫る。
ビルセイヤは身を低くして潜り抜け、剣を振るった。
狙いは胴体ではない。
足元に絡みつく、翡翠色に濁った根。
「はっ!」
刃が根を断つ。
黒緑色の靄が噴き出し、番人が苦しげに軋んだ。
『ギ、ギギ……!』
「効いてる!」
セシリアが叫ぶ。
「穢れてる部分を斬ればいいのね!」
「そうだ! 本体を壊すな!」
ビルセイヤが応じた直後、番人の眼窩が強く光った。
地面から無数の白い根が突き出し、槍のようにビルセイヤへ迫る。
「《フレイム》!」
ビルセイヤの炎が根を焼き払う。
だが、完全には止まらない。
「ビルセイヤ!」
セシリアが飛び込み、盾で根の槍を受け止めた。
重い衝撃に、彼女の足が地面を削る。
「っ……重い!」
「助かった!」
「お礼はあと!」
セシリアは盾を押し返し、そのまま剣で根を斬り裂く。
ツバサは番人の背後へ回り込んでいた。
「こっちはどうだ!」
彼は地面へ手を当てる。
「《アースバインド》!」
土の腕が番人の足元へ絡みつく。
しかし、番人の力は凄まじい。
土の拘束を軋ませながら、無理やり引きちぎろうとする。
「長くはもたねえぞ!」
「十分です!」
エミリアが杖を掲げた。
その隣で、シルヴァも胸元に両手を当てている。
「風の精霊、水の精霊……お願い。この子を縛る穢れを洗い流して!」
「森の声よ、泣き枝の番人を思い出して……!」
二人の声が重なる。
淡い緑と白の光が生まれ、番人の足元へ流れ込んだ。
翡翠色に濁っていた根の一部が、ゆっくりと白さを取り戻す。
『ギ……ァ……』
番人の唸り声が変わった。
怒りではない。
苦痛と、迷い。
「戻りかけてる!」
シルヴァが叫ぶ。
「でも、まだ奥に濁りがある!」
「どこだ!」
ビルセイヤが問う。
シルヴァは番人の胸元を指差した。
「あそこ! 胸の中心に、穢れの棘が刺さってる!」
ビルセイヤは番人を見上げる。
確かに、幹のような胸部に翡翠色の棘が突き刺さっていた。
それは木の一部ではない。
黒い石柱と同じ気配を持つ、小さな偽核の欠片だった。
「あれを抜けばいいんだな」
「抜くか、砕くか。でも、本体を傷つけすぎると番人も壊れちゃう!」
「難しい注文だな」
ビルセイヤは剣を握り直す。
「だが、やるしかない」
番人が再び動く。
巨大な腕が振り下ろされた。
ビルセイヤは横へ跳び、地面を転がって避ける。
その隙に、ツバサが番人の足へ斬り込む。
「こっち見ろ、デカブツ!」
番人の視線がツバサへ向く。
根の腕が伸びる。
「危ない!」
セシリアが盾を構えて割り込んだ。
衝撃。
セシリアの身体が後方へ押し飛ばされる。
「セシリア!」
「大丈夫! まだ動ける!」
彼女はすぐに立ち上がるが、腕が痺れているのか盾を持つ手がわずかに震えていた。
このまま長引けば不利だ。
番人を傷つけすぎず、胸の偽核だけを砕く。
ビルセイヤは一瞬で判断した。
「エミリア! 風をくれ!」
「はい!」
エミリアが杖を振る。
「風の精霊よ、彼の一歩に翼を!」
風がビルセイヤの足元へ集まる。
「ツバサ、足止め!」
「任せろ!」
ツバサが再び地面へ手を当てる。
「《アースバインド》!」
土の腕が番人の足を拘束する。
同時に、シルヴァが白い光を放った。
「番人、思い出して! あなたは森を壊す子じゃない! 守る子なんだよ!」
その声に、番人の動きが一瞬だけ鈍った。
ほんの一瞬。
だが、ビルセイヤには十分だった。
「行くぞ」
風を纏い、地を蹴る。
ビルセイヤの身体が、一気に番人の胸元へ跳び上がった。
眼前に、翡翠色の棘。
剣を逆手に持ち替える。
狙うのは棘の根元。
本体を裂くのではなく、穢れだけを断つ。
「――そこだ!」
刃が走る。
硬い手応え。
棘が悲鳴のような音を立てた。
だが、まだ砕けない。
「くっ……!」
番人の腕がビルセイヤへ迫る。
空中では避けられない。
「ビルセイヤさん!」
エミリアの悲鳴。
その時、セシリアが地面を蹴った。
「届いて!」
彼女は盾を投げた。
盾は回転しながら飛び、番人の腕にぶつかる。
ほんのわずか、軌道が逸れた。
その隙に、ビルセイヤは剣へさらに力を込める。
「砕けろ!」
棘に、ひびが入った。
次の瞬間。
翡翠色の棘が砕け散った。
『――――!』
番人が大きく仰け反る。
濁った翡翠色の光が眼窩から消え、代わりに柔らかな白い光が灯った。
巨体がゆっくりと膝をつく。
ビルセイヤは地面へ着地し、すぐに距離を取った。
「エミリア! シルヴァ!」
「はい!」
「うん!」
二人が番人へ駆け寄る。
エミリアの精霊魔法と、シルヴァの霊樹の力が、番人の全身へ染み込んでいく。
黒ずんでいた根が白く戻り、軋んでいた枝が静かに垂れた。
しばらくして、泣き枝の番人は完全に動きを止めた。
だが、それは死ではない。
眠るように、静かに膝をついている。
『……森……守ル……』
低く、木々が揺れるような声が響いた。
シルヴァの目に涙が浮かぶ。
「うん……ありがとう。戻ってきてくれて」
番人は、ゆっくりと頭を下げた。
そして、その背後。
絡み合っていた枝の門が、ぎぎぎ、と音を立てて開き始める。
奥へ続く道が現れた。
そこから吹いてきた風は、冷たく、重い。
しかも、はっきりと濁った翡翠色の魔力を含んでいた。
「この先が……」
セシリアが盾を拾いながら呟く。
「樹哭の間だよ」
シルヴァが小さく頷く。
「母なる根が眠る場所」
ビルセイヤは開いた道の奥を見る。
暗闇の向こうに、淡い翡翠色の光が脈打っている。
それは白枝の泉で見たものよりも、ずっと大きく、ずっと不気味だった。
「かなり近いな」
ツバサが剣を肩に担ぐ。
「ああ」
ビルセイヤは剣を鞘へ収めず、構えたまま歩き出す。
「行くぞ」
◇◇◇
枝の門を抜けた先は、森の中心へ向かう下り坂だった。
地面には太い根が何本も走り、まるで巨大な生き物の背中を歩いているようだった。
進むほど、空気は重くなる。
そして、やがて視界が開けた。
そこにあったのは、巨大な空洞だった。
森の中にぽっかりと開いた、円形の聖域。
その中央には、大地から隆起した巨大な根があった。
一本の根というにはあまりにも大きい。
まるで、白銀の龍が地中から身を起こしかけているようにも見える。
だが、その根の表面には、無数の黒い杭が打ち込まれていた。
杭からは濁った翡翠色の光が流れ、巨大な根を無理やり脈動させている。
「……あれが、母なる根」
シルヴァの声が震える。
空洞の周囲には、黒ローブの者たちが何人も立っていた。
そして中央。
黒い祭壇の前に、一人の男がいる。
顔を覆う蛇の仮面。
背に纏う黒衣。
だが、先ほどの蛇杖の男とは明らかに格が違った。
男はゆっくりと振り返る。
「遅かったな」
その声は、静かだった。
だが、冷たい。
「白枝の泉の核を砕いた程度で、我らの計画が止まると思ったか」
ビルセイヤは剣を構える。
「蛇の牙か」
「いかにも」
男は片手を広げる。
「我が名はヴェノル。蛇の牙、樹根儀式を預かる者」
その背後で、母なる根が苦しむように脈打つ。
濁った翡翠色の光が、空洞全体を照らした。
「歓迎しよう、王都の犬ども」
ヴェノルは仮面の奥で笑った。
「世界樹の根が目覚める、その瞬間の供物としてな」
樹哭の間。
母なる根。
そして、蛇の牙の儀式。
ようやく辿り着いた森の最奥で、最後の戦いが始まろうとしていた。
――続く。




