第第百十三話 泣き枝の回廊
白枝の泉を後にしたビルセイヤたちは、白き霊樹シルヴァの案内で、さらにルミナスの深森の奥へと進んでいた。
夜の森は、昼間とはまるで別世界だった。
頭上を覆う枝葉は月明かりをほとんど通さず、周囲は深い闇に沈んでいる。だが、完全な暗闇ではない。シルヴァの足元から零れる淡い白光と、森のあちこちに浮かぶ翡翠色の靄が、かえって異様な輪郭を作り出していた。
湿った土の匂い。
苔を踏みしめる足音。
遠くで、何かが枝を揺らす音。
どれも森の中では珍しくないはずなのに、今はひとつひとつが妙に耳に残る。
「……静かすぎるな」
先頭を歩くビルセイヤが低く呟いた。
その言葉に、後ろを歩くツバサが小さく頷く。
「鳥もいねえ。虫の音すらほとんどしない。夜の森って、こんなもんじゃないだろ」
「普通なら、もっと命の気配があります」
エミリアが周囲へ視線を巡らせながら答えた。
「でも今は……みんな息を潜めているみたい。精霊たちも、森の生き物たちも、何かを怖がっています」
その声は静かだったが、確かな緊張を孕んでいた。
セシリアは盾を背負い直し、白く霞む森の奥を睨む。
「白枝の泉で石柱は壊したのに、まだここまで空気が悪いのね」
「泉は中継点だっただけだもん」
先導するシルヴァが振り返り、少し寂しそうに笑った。
「いちばんひどい穢れは、まだ樹哭の間に残ってる。白枝の泉が少し楽になったのは、あくまで“広がる速度が遅くなった”だけなんだ」
「根本はまだそのまま、ってことか」
「うん」
ビルセイヤは剣の柄に手を添えたまま、森の奥を見据えた。
白枝の泉を出てから、体感で三十分ほど。
森の空気は少しずつ変化していた。
ただ湿っているだけではない。
歩を進めるほどに、肌へまとわりつく魔力の粘り気が増していく。翡翠色の靄も濃くなり、木々の幹や根にまで薄く光る筋が走り始めていた。
まるで森そのものが、内側から病に侵されているようだった。
◇◇◇
「もうすぐだよ」
シルヴァが足を止めた。
その先には、他より一際大きな古木が何本も並ぶ一帯があった。木々は不自然なほど枝を絡ませ合い、まるで巨大な門のように道を塞いでいる。
しかも、その枝々には白い布のようなものが幾重にも垂れ下がっていた。
風もないのに、ゆらり、ゆらりと揺れている。
「……あれは?」
セシリアが眉をひそめる。
「泣き枝の回廊」
シルヴァの声が少しだけ硬くなる。
「樹哭の間へ続く最後の道。昔は、森に入る資格のある者だけを通すための“試しの道”だったの」
「資格、ね」
ツバサが胡散臭そうに枝のアーチを見上げる。
「で、今はどうなってる?」
「蛇の人たちの穢れが混ざって、すごく危なくなってる。たぶん、昔みたいに“心を試す”だけじゃ済まない」
「具体的には?」
ビルセイヤが問うと、シルヴァは少し言いにくそうに唇を噛んだ。
「……見たくないものを見せるの」
その場の空気が、一段重くなる。
「見たくないもの?」
エミリアが小さく繰り返す。
「うん。後悔とか、不安とか、怖い記憶とか。泣き枝の回廊は、もともと“森へ入る者の心に迷いがないか”を見る場所だった。だけど今は穢れのせいで、それがもっと強く、もっと乱暴になってる」
「要するに、幻惑か精神干渉ってことね」
セシリアが肩を竦めた。
「しかも、本人の心の弱いところを狙ってくるタイプ」
「そう考えていいと思う」
エミリアが頷く。
「森の精霊と穢れた魔力が混ざって、半ば結界のようになっているんでしょう」
「面倒だな」
ツバサが額を掻く。
「斬って壊せる相手なら楽なんだが」
「全部がそうなら苦労しない」
ビルセイヤは短く返し、シルヴァを見る。
「お前が先導すれば、多少は軽減できるのか?」
「完全には無理。でも、道を見失わないようにはできると思う」
シルヴァはそう言って、自分の胸元に両手を当てた。
「この森は、まだ少しだけわたしの声を聞いてくれるから」
「それで十分だ」
ビルセイヤは頷いた。
「セシリア、エミリア、ツバサ。ここから先は、見えるものも聞こえるものも全部が本物とは限らない。誰かが急に様子を変えても、すぐに斬るな」
「最後の一言が物騒なのよ」
セシリアが呆れたように言う。
「でも、分かったわ。互いに声を掛け合って進みましょう」
「はい。できるだけ、近くを歩きます」
エミリアも頷いた。
「もし幻覚に呑まれたら、名前を呼んでください。精霊魔法で意識を引き戻せるかもしれません」
「俺は殴って戻す係でいいか?」
「それで戻る相手ならいいんだけどな」
ツバサの冗談に、ビルセイヤはわずかに口元を緩めた。
そして四人は、シルヴァを先頭に“泣き枝の回廊”へ足を踏み入れた。
◇◇◇
回廊の内側は、外の森よりさらに奇妙だった。
枝が天井のように絡み合い、白い布のようなものが視界の端で絶えず揺れている。足元には白い花弁のような葉が積もり、踏むたびにかさり、と乾いた音が鳴った。
なのに、空気はひどく湿っている。
冷たい靄が足首にまとわりつき、息を吸うたび肺の奥まで翡翠色のざらつきが入り込んでくるようだった。
「っ……」
数歩進んだところで、セシリアが眉をしかめた。
「どうした?」
「今、誰かに名前を呼ばれた気がしたの」
ビルセイヤが立ち止まる。
「誰に?」
「分からない。でも……女の人の声だった」
セシリアは周囲を見回した。
しかし、そこにいるのはビルセイヤたちだけだ。
シルヴァが小さく首を振る。
「始まってる。気をつけて。声に釣られちゃだめ」
「……ええ、分かった」
セシリアは深く息を吐き、気を引き締める。
そのまま一行は慎重に進んだ。
だが、回廊はまるで生きているかのように、少しずつ彼らの心へ入り込んでくる。
白い布が揺れるたびに、耳元で囁きがした。
――間に合わなかった。
――守れなかった。
――お前のせいだ。
「……っ」
今度はツバサが舌打ちした。
「おい、ビルセイヤ」
「なんだ」
「聞こえてねえか。昔の声が」
その問いに、ビルセイヤは一瞬だけ黙った。
聞こえている。
いや、“聞こえてしまった”と言うべきか。
鉄を打つ音。
熱した鋼の匂い。
遠い昔、自分がまだ創造神でも何でもなかった頃――ひたすら鍛冶場で火と向き合っていた時の記憶。
その中に、もう二度と会えないはずの声が混じっていた。
――もっと強ければ、守れたのに。
――お前は結局、何も救えなかった。
「ビルセイヤさん」
エミリアの声が、すぐ近くで響いた。
はっとして視線を上げると、彼女が心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫ですか?」
「……ああ。少し、鬱陶しいだけだ」
ビルセイヤは短く答えた。
今の一瞬、自分の足が止まっていたことに気づく。
危ない。
この回廊は、ただ幻を見せるだけではない。
心を揺らし、立ち止まらせ、その隙に道を見失わせるのが目的なのだろう。
「全員、間隔を詰めろ」
ビルセイヤが低く言う。
「声が聞こえても、目の前の仲間だけ見て進む」
「了解」
ツバサがすぐに応じる。
セシリアもエミリアも、無言で頷いた。
◇◇◇
それからしばらく進んだ時だった。
ふいに、エミリアが足を止めた。
「エミリア?」
セシリアが振り返る。
だが、エミリアは返事をしなかった。
彼女の視線は、回廊の脇――白い布の向こう側へ向いている。まるで、そこに誰かがいるかのように。
「……母さま?」
かすれた声だった。
ビルセイヤの表情が変わる。
「エミリア!」
だが、エミリアは聞こえていないようだった。
彼女はふらりと一歩、回廊の外へ踏み出しかける。
「まずい!」
セシリアが腕を掴もうとするより早く、ビルセイヤがエミリアの肩を引き寄せた。
「っ!」
その瞬間、エミリアの足元の地面から、白い根が何本も突き出した。
もしあと一歩踏み込んでいれば、そのまま足を絡め取られていただろう。
「エミリア!」
ビルセイヤが強く呼ぶ。
エミリアはびくりと体を震わせ、ようやく焦点の合わない目をこちらへ向けた。
「……え?」
「戻れ。幻だ」
「わ、たし……」
次の瞬間、エミリアの目からぽろりと涙が落ちた。
「母さまが……呼んで……」
その声音に、ビルセイヤもセシリアもツバサも、何も言えなくなる。
エミリアの過去について、全てを知っているわけではない。
だが、その一言だけで十分だった。
この回廊は、本当に“最も触れられたくない場所”を抉ってくる。
「エミリア」
セシリアがそっと彼女の手を握った。
「今ここにいるのは、私たちよ」
「……はい」
エミリアは唇を噛み、何度か呼吸を整える。
「すみません……気を抜きました」
「謝るな」
ビルセイヤが言う。
「全員、同じ条件だ。次は俺たちが引っ張る」
エミリアは少しだけ目を見開き、やがて小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
◇◇◇
だが、回廊の試練はまだ終わらない。
さらに奥へ進んだところで、今度はセシリアが足を止めた。
「セシリア?」
ツバサが呼ぶ。
セシリアは返事をしない。
ただ、白い布の向こうを見つめたまま、顔を青ざめさせていた。
「なんで……」
ぽつりと漏れた声は、かすかに震えていた。
「なんで、そこで立ってるのよ……」
ビルセイヤが視線を向ける。
しかし、彼には何も見えない。ただ白い靄が揺れているだけだ。
「セシリア、見るな!」
「でも……っ!」
セシリアは苦しそうに胸を押さえた。
「だって、あれ……私が、助けられなかった人たちで……!」
その瞬間、彼女の周囲の白い布がぶわりと広がった。
まるで何本もの手のように伸び、セシリアの腕や足へ絡みつこうとする。
「ちっ!」
ツバサがすぐに剣を抜き、白布を斬り払う。
だが斬られた布は霧のようにほどけ、またすぐ別の場所から伸びてくる。
「鬱陶しいな!」
「セシリア!」
ビルセイヤが前へ出る。
だがその時、今度は彼自身の視界がぐらりと揺れた。
目の前にいるはずのセシリアたちが消え、代わりに広がったのは、真っ赤な炎に包まれた鍛冶場だった。
熱風。
焼ける匂い。
そして、炎の向こうで誰かが倒れている。
――また、間に合わない。
「……っ!」
強烈な頭痛と共に、視界が白く弾けた。
次の瞬間、頬に鋭い痛みが走る。
「ビルセイヤ!」
誰かが、平手で殴ったのだ。
視界が戻る。
そこには、片手を振り抜いた姿勢のセシリアがいた。
「……お前」
「悪い! でも今、完全に持っていかれそうになってた!」
セシリアは息を荒げながら叫ぶ。
ビルセイヤは一瞬だけ呆気に取られ、それから苦笑した。
「……助かった」
「でしょ!」
「いや、そこ威張るところか?」
ツバサが突っ込みを入れながらも、白布を蹴散らす。
そのやり取りに、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
だが、その一瞬が功を奏したのか、回廊を満たしていた囁きがわずかに遠のく。
「今です!」
エミリアが素早く杖を掲げた。
「風の精霊よ、迷いを払って――《クリア・ブレス》!」
淡い風が四人を包み込む。
柔らかな風は白い靄を押し流し、耳元にまとわりついていた囁きを一時的に吹き飛ばした。
「はぁ……助かった……」
セシリアが肩で息をする。
「完全には消せません。でも、少しの間なら意識を保てるはずです」
エミリアの額にも汗が滲んでいた。
精神干渉を相手に精霊魔法で対抗するのは、かなり消耗するのだろう。
「十分だ」
ビルセイヤが前を見る。
「このまま一気に抜ける」
「賛成だ。長居して得する場所じゃねえ」
ツバサも剣を構え直した。
◇◇◇
それから先は、半ば駆け抜けるような突破だった。
白い布が腕のように伸びてきても、ツバサが斬り払う。
枝の隙間から不気味な囁きが流れ込めば、エミリアが風で散らす。
セシリアは仲間の様子を見ながら、誰かがふらつけばすぐ支える位置に回った。
そしてビルセイヤは、先頭で道を切り開く。
迷いそうになるたび、シルヴァの白い光が進むべき道を照らした。
「もう少し……!」
シルヴァが声を上げる。
「回廊の終わりが近い!」
その直後だった。
行く手を塞ぐように、回廊の最奥の枝々が一斉に軋んだ。
ギギギ、と不快な音を立てて枝が絡み合い、その中央から巨大な人影が浮かび上がる。
「――なっ!?」
セシリアが息を呑む。
それは木でできた巨人だった。
幹を削り出したような胴体。
根を束ねたような腕。
頭部には角のような枝が生え、その眼窩には翡翠色の光が灯っている。
「樹人……!?」
エミリアの声が震える。
「違う、あれは――」
シルヴァの顔が青ざめる。
「泣き枝の番人……! 本来なら樹哭の間を守る守護者なのに、穢れに呑まれてる……!」
木の巨人は、低く唸るような音を響かせた。
次の瞬間、根の腕を大きく振りかぶる。
「伏せろ!」
ビルセイヤが叫ぶと同時に、巨大な一撃が地面を叩き割った。
白い葉が舞い、土と木片が爆ぜる。
「最後にこんなのが出るの!?」
「昔はこんなじゃなかったのぉ……!」
半泣きのシルヴァに、ツバサが叫び返す。
「それ先に言え!」
だが文句を言っている暇はない。
泣き枝の回廊の最奥。
樹哭の間へ続く最後の門を守るかのように、穢れた守護者が立ちはだかっていた。
ビルセイヤは剣を抜き放ち、翡翠の光を宿した木の巨人を見上げる。
回廊は抜ける寸前。
だが、まだ終わっていない。
「こいつを倒して、先へ進むぞ!」
その声に、セシリア、エミリア、ツバサが即座に応じる。
樹哭の間は、もうすぐそこだ。
だがその前に、最後の障壁が牙を剥く――。
---
――続く。
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