第百十一話 偽核破壊
白枝の泉に満ちる翡翠色の瘴気が、びりびりと肌を刺していた。
泉の中央に突き立つ黒い石柱――《偽りの世界樹の核》は、不気味な脈動を繰り返しながら、白き霊樹へ穢れた魔力を流し込み続けている。
そのたびに、白銀の幹を走る翡翠色の亀裂が明滅し、霊樹が苦しげに枝葉を震わせた。
『いたい……くるしい……』
エミリアの耳にだけ届く、幼い少女のような声。
白き霊樹は、まだ耐えている。
だが、長くは持たない。
「次で決める」
ビルセイヤが低く告げた。
その声に呼応するように、セシリアが盾を叩きつけて黒ローブの男を弾き飛ばす。
「だったら、こっちは道を開けるわよ!」
ツバサもまた、地を蹴った。
「おう!」
ビルセイヤは深く息を吸う。
全身へ巡らせた無属性の身体強化が、さらに一段深く沈んだ。
筋肉が熱を帯び、血流が加速する。視界が研ぎ澄まされ、黒い石柱と蛇杖の男の位置、泉の流れ、敵の足運び――すべてが鮮明に見えた。
蛇杖の男が、顔を歪めて杖を掲げる。
「やらせるものか! 《翡翠の檻》!」
石柱が強く脈打った。
次の瞬間、泉の濁った水面から何十本もの翡翠色の蔓が噴き上がる。
それらは互いに絡み合い、巨大な檻のようにビルセイヤを閉じ込めようと迫ってきた。
「ビルセイヤ!」
セシリアが叫ぶ。
だがビルセイヤは足を止めない。
むしろ、真正面から踏み込んだ。
「邪魔だ」
剣を一閃。
風を纏った斬撃が、迫る蔓をまとめて断ち切る。
切断された蔓は黒い泥のように崩れ、水面へ落ちた。
「馬鹿な……!」
蛇杖の男の声に、初めて焦りが混じる。
ビルセイヤはさらに踏み込む。
水飛沫が上がる。距離が、一気に詰まる。
男は慌てて杖を振り下ろした。
翡翠色の光刃が走る。
だが、ビルセイヤは半身をずらし、紙一重でそれを躱した。
そのまま、石柱の真正面へ躍り出る。
「やめろぉぉっ!!」
蛇杖の男が絶叫した。
同時に、岸辺にいた黒ローブたちが一斉に石柱へ向かって走る。
だが、その前にセシリアが立ちはだかる。
「通さないって言ったでしょう!」
盾を叩きつけるような体当たり。
先頭の男が吹き飛び、その後ろの二人まで巻き込んで転がった。
「ツバサ!」
「任せろ!」
ツバサが横から滑り込み、倒れた黒ローブたちの武器を次々と弾き飛ばす。
「《アースバインド》!」
地面から伸びた土の腕が敵の足を絡め取り、その動きを封じた。
これで石柱への道を塞ぐ者はいない。
ビルセイヤは黒い石柱を見据えた。
近くで見るそれは、ただの石ではなかった。
表面には、木の年輪に似た紋様と、蛇の牙の印が幾重にも刻まれている。
その中心を流れる翡翠色の筋は、まるで生き物の血管のように脈打っていた。
「……気持ち悪いな」
吐き捨てるように呟き、剣を構える。
風魔法を刃へ纏わせる。
さらに無属性の身体強化を腕へ集中。
狙うは一点。
石柱の中心を走る翡翠色の脈動、その核だ。
「砕けろ」
ビルセイヤは地を蹴った。
全身の力を、剣へ。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
渾身の一撃が、黒い石柱へ叩き込まれる。
金属とも石とも違う、耳障りな悲鳴のような音が響いた。
ひびが入る。
一本。
二本。
三本。
次の瞬間――
黒い石柱が、内側から翡翠色の光を噴き上げながら爆ぜた。
「――っ!?」
泉全体が大きく揺れる。
濁っていた水が渦を巻き、翡翠色の瘴気が悲鳴のような音を立てて空へ散った。
石柱の破片は光の粒となって崩れ、やがて黒い灰へ変わって消えていく。
「核が……!」
蛇杖の男が絶望の声を上げた。
同時に、白き霊樹の幹を走っていた翡翠色の亀裂が一瞬だけ強く光り、次の瞬間、その一部が薄れていく。
『……っ、ぁ……!』
霊樹の声が変わった。
苦痛一色だった響きの中に、わずかな安堵が混じる。
「今です!」
エミリアが叫んだ。
彼女は霊樹の根元へ両手を当て、魔力を流し込む。
「風の精霊、水の精霊、森に宿る小さき声たちよ――どうか、この子を癒してください!」
淡い緑と蒼の光が、エミリアの掌から広がった。
光は霊樹の根を伝い、幹を巡り、枝葉へと昇っていく。
それはまるで、傷ついた大樹へ清らかな水が注がれていくようだった。
『あたたかい……』
白き霊樹の声が、少しだけ穏やかになる。
だが、次の瞬間。
「まだだ……! まだ終わらせん!」
蛇杖の男が狂気を滲ませた声で叫んだ。
砕けた石柱の残骸から、なおも翡翠色の靄をかき集め、蛇杖へ流し込んでいる。
男の仮面の隙間から、血走った目が覗いた。
「霊樹さえ手に入れば! この程度の核、いくらでも代わりは作れる!」
「やらせるか!」
ビルセイヤが踏み込む。
蛇杖の男も杖を振るい、翡翠色の刃を飛ばした。
だが、先ほどまでとは違う。
石柱を失ったせいか、その一撃は明らかに鈍っていた。
ビルセイヤは剣で弾き、さらに距離を詰める。
「ぐっ……!」
男が後退する。
その背後には、霊樹の根に囚われたベルンの姿があった。
「エミリア! ベルンを助けられるか!」
「根がまだ穢れています! でも、切ってもらえれば!」
「分かった!」
ビルセイヤは蛇杖の男を押し込みながら、ベルンを拘束する根へ視線を走らせる。
根は太い。
だが、翡翠色に汚染された部分だけなら断てる。
「セシリア! 右から!」
「了解!」
セシリアが黒ローブの最後の一人を蹴り飛ばし、そのまま泉の縁を回り込む。
蛇杖の男は左右から迫る二人に、明らかに焦った。
「くそっ……!」
杖を振り上げる。
その瞬間、ツバサが背後から飛び込んだ。
「後ろが空いてるぞ!」
鋭い蹴りが、蛇杖の男の背中に突き刺さる。
「がはっ!?」
前へつんのめった男の懐へ、ビルセイヤが滑り込んだ。
剣の柄で、仮面の横を強打する。
仮面が砕け、男がよろめく。
露わになった顔は、三十代半ばほどの痩せた男だった。
頬はこけ、瞳は異様な執着に濁っている。
「蛇の牙の幹部ってところか」
ビルセイヤが低く言う。
男は血を吐きながらも、不気味に笑った。
「幹部……? 違うな。私は“苗床”だ」
「苗床?」
「偉大なる御方が、世界樹を喰らうためのな……!」
直後、男の胸元が翡翠色に光った。
「下がれ!」
ビルセイヤが叫ぶ。
セシリアとツバサが即座に飛び退く。
次の瞬間、男の胸に埋め込まれていたらしい小さな翡翠石が砕け、濁った魔力が爆発した。
「っ――!」
衝撃が泉の水を巻き上げる。
ビルセイヤは腕で顔を庇いながら踏み止まった。
だが、爆風が収まった時、そこに男の姿はなかった。
「逃げた……!?」
セシリアが舌打ちする。
残っていたのは、焼け焦げた黒ローブの切れ端と、蛇杖の先端の破片だけ。
「転移か、あるいは自壊を利用した離脱か」
ツバサが破片を蹴る。
「最後まで感じ悪い野郎だな」
「でも、もう石柱はありません!」
エミリアの声が響いた。
彼女の足元では、ベルンを絡め取っていた根がゆっくりと緩み始めている。
「ビルセイヤさん、今です!」
「ああ!」
ビルセイヤは根元へ駆け寄り、翡翠色に染まった根へ剣を振り下ろした。
一閃。
汚染された根が断ち切られ、ベルンの身体がどさりと地面へ落ちる。
「ベルン!」
セシリアがすぐに駆け寄り、脈を確認した。
「生きてる! 気絶してるだけよ!」
「よかった……」
エミリアが安堵の息を漏らす。
だが、彼女はすぐに再び霊樹へ向き直った。
「まだ終わってません。霊樹の中に残った穢れを抜きます!」
エミリアは両手を霊樹へ当て、さらに魔力を流し込んだ。
風と水の精霊たちが、彼女の周囲に集まる。
小さな光の粒が舞い、白枝の泉の空気が少しずつ澄んでいく。
白き霊樹の幹を走っていた翡翠色の亀裂が、ゆっくりと薄れていった。
枝葉の震えが止まり、濁っていた泉の水も、少しずつ本来の白さを取り戻し始める。
『……ありがとう……』
今度の声は、はっきりと聞こえた。
エミリアだけではない。
ビルセイヤも、セシリアも、ツバサも、その声を聞いた。
「今の……」
セシリアが目を見開く。
白き霊樹の幹が、淡く輝く。
白銀の樹皮が月光を受けたように柔らかく光り、その根元から、一人の少女が現れた。
年の頃は十歳ほど。
雪のように白い髪に、淡い翡翠色の瞳。
透けるような白い衣をまとい、全身が薄い光に包まれている。
それは、人の姿を借りた霊樹そのものだった。
「あなたが……白き霊樹?」
エミリアがそっと尋ねる。
少女は小さく頷いた。
「わたしは、シルヴァ」
鈴の音のように澄んだ声だった。
「白枝の泉を守る、白き霊樹の心……」
ビルセイヤは剣を下ろし、静かに少女を見つめる。
「助かったのか?」
シルヴァは少しだけ困ったように微笑んだ。
「まだ、ぜんぶではないよ」
その言葉に、場の空気が引き締まる。
「根っこの深いところに、まだ黒い石のかけらが残ってるの。あれが森を汚してる。だから、完全には元に戻れない」
「石柱の残骸か」
ツバサが眉をひそめる。
「だが、あれは砕いたはずだぞ」
「ううん。砕いたのは、外に出してた核だけ」
シルヴァは首を横に振った。
「本当の穢れは、もっと奥。森のもっと深い場所に埋められてる」
ビルセイヤの目が細くなる。
「ルミナスの深森の奥か」
「うん……《樹哭の間》」
シルヴァは怯えるように胸元を押さえた。
「蛇の人たちは、そこで“母なる根”を起こそうとしてる」
「母なる根……?」
エミリアが息を呑む。
「世界樹の根の一部、ってことか」
シルヴァはこくりと頷いた。
「わたしは、その端っこ。ほんの小さな枝。だけど、森の奥には、もっと大きな根が眠ってるの。あれを無理やり起こしたら……森だけじゃ済まない」
ビルセイヤたちは、無言で顔を見合わせた。
白枝の泉の異変は、まだ入口にすぎない。
蛇の牙の狙いは、もっと奥――世界樹に連なる本当の根へ向いている。
しかも、逃げた蛇杖の男は「偉大なる御方が世界樹を喰らう」と言った。
ただ森を荒らしているだけではない。
何か、もっと大きな企みが動いている。
「ビルセイヤさん」
エミリアが真剣な目で見る。
「行くしかありません」
「ああ」
ビルセイヤは頷いた。
「ここで止める」
シルヴァはそんな彼らを見上げ、そっと胸に手を当てた。
「なら……お願い。森の奥へ行くなら、わたしも案内する」
「え?」
セシリアが目を丸くする。
「でも、あなたはまだ弱ってるんじゃ……」
「大丈夫。全部は無理でも、道は分かる」
シルヴァは小さく笑った。
「だって、ルミナスの深森は……わたしの家だもの」
白枝の泉に、ようやく静かな風が吹いた。
だが、それは終わりの風ではない。
穢れた核は砕けた。
ベルンも救い出した。
白き霊樹シルヴァとも出会えた。
けれど、真の異変はまだ森の奥に残っている。
《樹哭の間》――母なる根が眠る場所。
そこに、蛇の牙の本隊がいる。
ビルセイヤは白く澄み始めた泉を一度だけ見渡し、静かに剣を収めた。
「少し休んだら、奥へ向かう準備をする」
その言葉に、仲間たちが頷く。
白枝の泉の戦いは終わった。
だが、ルミナスの深森の異変は、ここからが本番だった。
――続く。




