第百十話 蛇杖の男
白枝の泉に、翡翠色の不気味な光が脈打っていた。
白く透き通っていたはずの泉は、中央に突き立てられた黒い石柱のせいで薄緑に濁り、その周囲を漂う靄までもが毒のような色に染まっている。
岸辺に立つ黒ローブの男たち。
その奥で、白銀の樹皮を持つ大樹――白き霊樹が、苦しむように枝葉を震わせていた。
幹を走る翡翠色の亀裂。
葉の先から零れ落ちる淡い光は、涙のように見える。
まるで、本当に泣いているようだった。
「……来たか」
泉の中央、黒い石柱の傍らに立つ男が、ゆっくりとこちらを振り向く。
顔は蛇を模した黒い仮面で隠され、右手には、同じく蛇の意匠が巻き付いた黒い杖が握られていた。杖の先端には、濁った翡翠色の宝石が埋め込まれている。
「王都の犬どもが」
湿った、耳障りな声だった。
ビルセイヤは一歩前へ出る。
「蛇の牙か」
「だったらどうした?」
蛇杖の男は嘲るように口元を歪めた。
「今さら名乗る必要もあるまい。どうせ貴様らは、ここで死ぬのだからな」
その言葉と同時に、岸辺にいた黒ローブたちが一斉に武器を抜く。
短剣、曲刀、杖。
数は七……いや、奥の木陰にも二人。全部で九人。
「随分と歓迎が手厚いわね」
セシリアが盾を構え、剣を抜く。
「嫌な歓迎だがな」
ツバサも腰の剣に手をかけた。
エミリアは霊樹を見つめたまま、唇を噛む。
「ビルセイヤさん……あの霊樹、かなり危険です。根の深いところまで、あの石柱の魔力が入り込んでいます」
「助けられるか?」
「時間をもらえれば。泉の穢れを断って、霊樹に直接精霊魔法を通せれば、たぶん……でも」
エミリアの視線が、泉の中央の黒い石柱へ向く。
「あれがある限り、回復してもまた侵されます」
「つまり、あの石柱が元凶か」
「はい」
ビルセイヤは静かに頷いた。
「分担する」
短く告げる。
「セシリア、ツバサ。岸の連中を抑えろ。できれば石柱へ近づかせるな」
「了解!」
「任せろ」
「エミリアは霊樹を見ろ。石柱を壊した後、すぐに浄化へ移れるように準備しておけ」
「分かりました!」
「ビルセイヤは?」
セシリアが問う。
ビルセイヤは蛇杖の男をまっすぐ見据えた。
「あの蛇杖の男を叩く。石柱も俺が壊す」
その宣言に、蛇杖の男が喉の奥で嗤った。
「できるものなら、やってみろ」
瞬間。
男が蛇杖を掲げる。
翡翠色の宝石がぎらりと光り、泉の濁った水面が大きく波打った。
「喰らえ。《翡翠の牙》」
水面から、翡翠色に濁った水の槍が無数に噴き上がる。
「散れ!」
ビルセイヤの声と同時に、四人は左右へ飛んだ。
直後、翡翠の水槍が岸辺を穿つ。
木の根が砕け、地面が抉れ、白い花々が泥と共に散った。
「うわっ、いきなり派手だな!」
ツバサが舌打ちしながら横へ転がる。
「喋ってる暇があるなら斬りなさい!」
セシリアが突っ込んでくる黒ローブの曲刀を盾で受け止め、そのまま体重を乗せて押し返した。
「はぁっ!」
鋭い斬撃。
相手の脇腹を浅く裂き、返す刃で二人目の手首を狙う。
一方、ツバサは低く身を沈めたまま敵陣へ踏み込んだ。
「《アースバインド》!」
地面から伸びた土の腕が、黒ローブの足首を絡め取る。
「ちっ――」
「遅い」
動きの止まった相手の懐へ入り、ツバサの剣が閃く。
一人。二人。連続で急所を外しつつも戦闘不能へ追い込んでいく。
その間に、ビルセイヤは一直線に泉へ駆けていた。
水面を蹴る。
身体強化を纏った足が浅瀬を爆ぜさせ、白い飛沫が舞う。
「来るか」
蛇杖の男が杖を横薙ぎに払った。
翡翠色の靄が刃のように飛ぶ。
ビルセイヤは半身をずらしてそれを避ける。
頬をかすめた靄が、背後の木を腐食させるように黒ずませた。
「毒か」
「毒であり、呪いでもある」
男が嗤う。
「世界樹の力を模して作られた、選ばれし者だけが扱える力だ」
「模して、か」
ビルセイヤの目が細くなる。
「偽物にしては、随分と雑だな」
「――何?」
「本物の世界樹は、こんな風に森を泣かせたりしない」
言葉と同時に、ビルセイヤは一気に間合いを詰めた。
剣を振るう。
だが蛇杖の男は、杖とは思えぬ速さでそれを受け流した。
金属音が弾ける。
「ほう?」
男がわずかに目を見開く。
「ただの鍛冶屋ではないらしいな」
「ただの鍛冶屋なら、ここまでは来ない」
ビルセイヤはそのまま二撃、三撃と畳み掛ける。
袈裟。逆袈裟。胴への横薙ぎ。
連続の斬撃を、蛇杖の男は後退しながら捌いていく。
だが、そのたびに男の足元の水が不自然に盛り上がる。
泉そのものが、男を守るように動いていた。
「泉の水まで操ってるのか」
「操っているのではない。従わせているのだ」
男が杖を地面へ突き立てる。
瞬間、黒い石柱が脈打った。
翡翠色の光が泉全体へ走り、次の瞬間――白き霊樹が大きく震えた。
『――ぁ……っ』
誰かの悲鳴のような声が、頭の奥へ直接響く。
「……っ!」
エミリアが顔を上げた。
「今の、霊樹の声……!」
同時に、霊樹の根元付近で何かが蠢いた。
土の中から突き出していた太い根が、ずるりと持ち上がる。
その内側に、鎧の一部が見えた。
「ベルン!?」
ロドリグから聞いた名を、セシリアが叫ぶ。
間違いない。
行方不明の兵士の一人だ。
ベルンは霊樹の根に半ば取り込まれるような形で拘束され、意識を失っていた。だが、まだ生きている。
「根に飲まれてる……!」
エミリアが駆け出そうとする。
だが、その前に黒ローブの一人が立ちはだかった。
「通すかよ!」
「邪魔です!」
エミリアの周囲に風が渦巻く。
「《エアカッター》!」
風の刃が黒ローブの杖を弾き飛ばし、その頬を浅く裂いた。
その隙に、彼女は霊樹の方へ駆ける。
「エミリア! 護衛は私がやる!」
セシリアが敵を弾き飛ばしながら叫ぶ。
「お願い!」
エミリアは霊樹の根元へ滑り込むように膝をついた。
そっと白銀の樹皮へ手を触れる。
――冷たい。
けれど、その奥に確かに脈があった。
『痛い……苦しい……』
幼い女の子のような声。
それでいて、森全体の響きを持つ声。
『へんな石が……根に、毒を流してる……』
「やっぱり……!」
エミリアは目を見開く。
「白き霊樹……聞こえます。私はあなたを助けに来ました。だから、少しだけ耐えてください」
『……助けて……』
白い枝葉が、かすかに震えた。
一方、ビルセイヤと蛇杖の男の戦いはさらに激しさを増していた。
「貴様……霊樹の声が聞こえる娘を連れてきたか」
蛇杖の男が舌打ちする。
「ならば先に潰すまで!」
男がエミリアの方へ杖を向ける。
翡翠色の光弾が放たれる。
「させるか!」
ビルセイヤが割り込んだ。
剣で光弾を叩き斬る。
だが衝撃は重く、腕に鈍い痺れが走った。
「……っ」
「ほう、今のを斬るか。だが、何度まで耐えられる?」
男が両手で杖を握り直す。
「見せてやろう。これが我ら蛇の牙が掴んだ、“偽りの世界樹の核”の力だ」
黒い石柱が、さらに強く脈動した。
泉の濁りが一気に深まり、水面から翡翠色の蔓のようなものが何本も伸びる。
それらは生き物のようにうねり、ビルセイヤへ襲いかかった。
「ビルセイヤ!」
セシリアの叫び。
だがビルセイヤは退かない。
逆に、一歩踏み込んだ。
「偽り、か」
翡翠の蔓を剣で断ち切る。
二本、三本、四本。切っても切っても湧いてくる。
それでも前へ出る。
「だったら、本物には絶対に届かない」
身体強化をさらに高める。
血流が熱を帯びる。
アークレイドから継いだ無属性の力が、全身を巡った。
「なに……!?」
蛇杖の男の目が揺れる。
ビルセイヤはそのまま水面を蹴り、男の懐へ飛び込んだ。
「――はぁっ!!」
渾身の一撃。
蛇杖の男は慌てて杖で受ける。
だが、完全には受けきれない。
剣圧が仮面の端を掠め、男の肩口を深く裂いた。
「ぐっ……!」
男がよろめく。
仮面の一部が砕け、その奥から痩せた頬が覗いた。
「貴様、何者だ……!」
「ビルセイヤ」
剣を構え直し、短く名乗る。
「ただの鍛冶屋で、ただの冒険者だ」
「ふざけるな……! そんな者が、この核の力を押し返せるはずが――」
「押し返すさ」
ビルセイヤは黒い石柱を見据えた。
「あれを壊せば終わるんだろ」
蛇杖の男の顔色が変わる。
「やめろ!」
その反応だけで十分だった。
石柱こそが、この異変の核。
ならば、狙う場所は一つ。
「セシリア! ツバサ! 数は減らせたか!」
「こっちはあと三人!」
「いつでもいける!」
「エミリア! 石柱を壊した後、霊樹を浄化できるか!」
「はい! でも、ベルンさんが根に囚われたままです!」
「なら、その根も斬る!」
ビルセイヤは息を深く吸い込んだ。
視界の端で、蛇杖の男が狂ったように杖を掲げるのが見える。
黒ローブたちも必死に石柱を守ろうと動き始める。
だが、もう遅い。
ビルセイヤの中で、狙いは定まっていた。
白き霊樹を泣かせる偽りの核。
森を蝕む翡翠の毒。
蛇の牙の企み。
全部まとめて、ここで断ち切る。
「次で決める」
低く告げたその声に、仲間たちの気配が一斉に応じた。
セシリアが敵を押し返す。
ツバサが横から切り崩す。
エミリアが霊樹へ魔力を通し始める。
そしてビルセイヤは、黒い石柱へ向けて剣を構えた。
白枝の泉の空気が、ぴんと張り詰める。
次の一撃で、この戦いは大きく動く。
そう確信させるほどの熱が、剣の中に宿っていた。
――続く。




