第百九話 白枝の泉へ
夕暮れの空の下、ビルセイヤたちはガルディアの街を後にした。
目指すは、ルミナスの深森。
その外縁部にあるという白枝の泉。
そして、その奥で泣いているという白き霊樹だ。
同行するのは、ガルディア辺境伯家の騎士隊長補佐ロドリグ。
辺境伯ダリウスの命により、森の入口まで案内する役目を任されている。
「森の入口までは、街道を東へ半刻ほどです」
ロドリグが馬を引きながら言った。
「本来なら木材搬出用の道が使われますが、今は封鎖しています。兵の巡回路を使った方が安全でしょう」
「安全、ね」
セシリアが小さく苦笑する。
「今の森に、その言葉がどこまで通じるか分からないけど」
「それでも、何も知らずに踏み込むよりはましです」
エミリアが静かに答えた。
彼女は歩きながら、何度も森の方角へ視線を向けている。
精霊の気配を探っているのだろう。
だが、その表情は晴れない。
「まだざわついてるのか?」
ビルセイヤが尋ねる。
「はい」
エミリアは頷いた。
「昨日よりも、もっとはっきり分かります。精霊たちが怯えています。森の奥に近づくほど、その声が増えていく」
「原因はやっぱり、白枝の泉の先か」
「おそらく」
ビルセイヤは前を見据えた。
ガルディアの街を出てから、周囲の空気は目に見えて変わっていた。
冷たい。
だが、それだけではない。
森の方から流れてくる風に、わずかなざらつきが混じっている。
肌を撫でるたびに、得体の知れない違和感が残る。
まるで、清らかな水の中に、ほんの一滴だけ泥が落ちたような。
そんな不快な混ざり方だった。
◇◇◇
やがて、一行はルミナスの深森の入口へ辿り着いた。
そこには簡易の柵と見張り台が設けられ、数名の兵士が警戒に当たっている。
だが、その兵士たちの顔色は良くなかった。
疲労と緊張が、はっきりと表情に出ている。
「ロドリグ隊長補佐!」
兵士の一人が駆け寄ってきた。
「お戻りでしたか。そちらの方々が……」
「王都からの調査隊だ。辺境伯様の許可も出ている」
「はっ!」
兵士はすぐに敬礼した。
その視線がビルセイヤたちへ向けられる。
期待と不安が入り混じった目だった。
「状況は?」
ロドリグが問う。
「先ほど、森の中からグレートボアの咆哮が二度。ですが姿は確認できていません。巡回は予定通り外縁部のみです」
「異常はそれだけか?」
「いえ……」
兵士は少し言い淀んだ。
「一刻ほど前、泉の方角で翡翠色の光を見た者がいます」
ビルセイヤたちの空気が変わる。
「どの辺りだ?」
ビルセイヤが問う。
「白枝の泉の方向です。木々の間から一瞬だけ、柱のように」
「やっぱり、まだ動いてるな」
ツバサが低く呟いた。
ロドリグは兵士へ頷き、ビルセイヤたちへ向き直る。
「ここから先は巡回路を使えば、白枝の泉までおよそ一時間。ですが、森の中は普段よりかなり視界が悪くなっています。霧のようなものが出ているとの報告もあります」
「行方不明の兵士が消えた時と同じか」
セシリアが言う。
「ああ」
ビルセイヤは森を見上げた。
ルミナスの深森は、その名の通り深い森だった。
木々は高く、枝葉は幾重にも重なり、夕方だというのに内部はすでに薄暗い。
しかも今日は、森全体に薄い靄が漂っている。
普通の霧ではない。
目を凝らすと、靄の中に翡翠色の粒子が微かに混じっているのが分かった。
「……入るぞ」
ビルセイヤの言葉に、全員が頷いた。
◇◇◇
森の中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
ひんやりとした湿気。
土と苔の匂い。
だが、それらの奥に、金属が擦れるような不快な魔力の気配がある。
「嫌な感じだな」
ツバサが顔をしかめた。
「神殿で感じたのと少し似てる」
「ええ」
セシリアも頷く。
「でも、あの時よりもっと森に溶け込んでる。気づきにくい分、質が悪いわ」
エミリアは目を閉じ、木々へそっと手を触れた。
「……木が怯えています」
「木まで分かるのか?」
「精霊が宿る森ですから」
エミリアは静かに答える。
「普通なら、ここはもっと穏やかな場所のはずなんです。でも今は……痛みを我慢しているみたい」
ビルセイヤは剣の柄へ手を添えた。
敵意のようなものは、まだ感じない。
だが、森全体が“何か悪いものを抱え込まされている”感覚があった。
「ロドリグ、巡回路は?」
「このまま東へ。少し進んだ先で北東へ折れます。白枝の泉はそこからさらに奥です」
一行は慎重に歩を進める。
鳥の声はない。
虫の羽音も少ない。
代わりに、時折どこからともなく、かすかな唸り声のようなものが聞こえてくる。
風か。
魔物か。
それとも別の何かか。
判別がつかないことが、余計に不気味だった。
◇◇◇
森へ入って三十分ほど経った頃だった。
「止まって」
先頭を歩いていたエミリアが、小さく声を上げた。
全員が足を止める。
「どうした?」
ビルセイヤが尋ねると、エミリアは前方の大木を指差した。
「あれを」
幹の表面に、深く刻まれた傷がある。
近づいてみると、それはただの爪痕ではなかった。
人の手で刻まれた印。
絡み合う二本の蛇。
中央には牙のような鋭い刻み。
「蛇の牙だな」
ツバサが吐き捨てる。
「やっぱり森の中まで入り込んでやがる」
「しかも新しい」
セシリアが指で木肌をなぞる。
「刻まれてから、そんなに時間が経ってないわ」
「昨日か、一昨日か……」
ロドリグが険しい顔をする。
「巡回では見落としていたのか」
「いや、靄のせいで視界が悪い。見つけにくかったんだろ」
ビルセイヤは印の周囲を観察した。
足跡がある。
複数人分。
そのうち一つは、兵士の靴底に似た跡だった。
「ロドリグ」
「はい」
「この足跡、行方不明の兵士のものと一致しそうか?」
ロドリグはしゃがみ込み、真剣な顔で地面を調べた。
「……断定はできませんが、可能性は高いです。ガルディア兵の軍靴と似ています」
「追っていったのか、追われたのか」
ツバサが眉をひそめる。
「どちらにせよ、ここで蛇の牙と接触したのは間違いないな」
その時だった。
森の奥から、かすかに金属音が響いた。
カラン――と、何か硬いものが地面に落ちたような音。
全員の視線がそちらへ向く。
「誰かいる」
セシリアが盾に手をかける。
ビルセイヤは素早く前へ出た。
「俺が見る。セシリアは後ろを警戒。エミリア、気配を探れ。ツバサ、ロドリグは左右」
「了解」
短いやり取りの後、ビルセイヤは音のした方へ駆ける。
靄をかき分けるように進むと、木の根元に人影が見えた。
「――いた!」
そこに倒れていたのは、一人の兵士だった。
ガルディア辺境伯家の鎧を身に着けている。
右肩の鎧は大きく裂け、血で濡れていた。
「生きてるか!?」
ビルセイヤが駆け寄ると、兵士はうっすらと目を開けた。
「……だ、れ……」
「王都からの調査隊だ。助けに来た」
兵士の顔に、安堵が浮かぶ。
「カイルか!?」
後から追いついたロドリグが叫ぶ。
「ロドリグ隊長補佐……!」
「やはりカイルか!」
行方不明になっていた兵士の一人。
カイルはかすれた声で息を吐いた。
「ベルンは……泉の方へ……」
「何があった?」
ビルセイヤが問いかける。
カイルは震える唇を必死に動かした。
「霧が……急に濃くなって……蛇の仮面の連中が……」
「蛇の牙か」
「泉の奥に……石を……置いてた……光って……ベルンが、飲まれた……」
「飲まれた?」
「霧に……いや、木の根に……引きずり込まれるみたいに……」
ロドリグが息を呑む。
ビルセイヤはカイルの肩に手を置いた。
「他に見たものは?」
「白い……木……泣いてた……女の声みたいな……」
そこまで言ったところで、カイルの意識がふっと途切れる。
「気絶しただけです」
エミリアがすぐに脈を確認した。
「命に別状はありません。でも、かなり消耗しています」
「ロドリグ」
「はい!」
「カイルを入口まで連れて戻れ」
ビルセイヤは即座に言った。
「ここから先は俺たちだけで行く」
「しかし――」
「この状態の兵士を連れて奥へ進めない。ベルンを助けるなら、なおさら身軽な方がいい」
ロドリグは悔しそうに歯を食いしばる。
だが、すぐに覚悟を決めたように頷いた。
「……分かりました。カイルを入口の兵へ引き渡したら、私も追います」
「無理はするな。森の外縁で待機してくれれば十分だ」
「ですが!」
「ロドリグ」
ビルセイヤは真っ直ぐ彼を見た。
「ベルンは必ず連れ戻す」
短い言葉だった。
だが、その一言に込められた重みは十分だった。
ロドリグは拳を握り、深く頭を下げる。
「……お願いします」
◇◇◇
ロドリグがカイルを背負って離脱した後、ビルセイヤたちは再び森の奥へ進んだ。
靄はさらに濃くなっている。
木々の隙間から差し込む夕日すら、もうほとんど届かない。
代わりに、奥の方から淡い翡翠色の光が明滅していた。
まるで、森の心臓が不気味に脈打っているかのようだ。
「近いわね」
セシリアが声を潜める。
「ああ」
ビルセイヤも頷く。
「白枝の泉はもうすぐだ」
やがて、木々が不意に途切れた。
視界が開ける。
そこにあったのは、月光を溶かしたような白い水を湛える泉だった。
泉の縁には、白い樹皮を持つ木々が何本も立っている。
それだけなら、幻想的な美しさだっただろう。
だが今、その光景は完全に壊されていた。
泉の中央には、黒い石柱が突き立っている。
石柱には翡翠色の筋が幾重にも走り、脈打つように明滅していた。
その周囲の水は濁り、白いはずの泉が薄緑に染まっている。
さらに岸辺には、黒いローブを纏った男たちが数人。
その背後。
泉の奥に広がる大樹の根元には――
「……あれが、白き霊樹……」
エミリアが息を呑む。
そこにそびえていたのは、白銀の樹皮を持つ巨大な霊樹だった。
本来なら神々しいほど美しいはずの木。
だが今、その幹には翡翠色の亀裂のような光が走り、苦しむように枝葉を震わせている。
まるで、本当に泣いているかのように。
「蛇の牙……!」
セシリアが低く吐き捨てる。
その時、泉の中央に立つ黒衣の男が、ゆっくりとこちらを振り返った。
顔は仮面で隠されている。
手には、蛇を模した黒い杖。
「……来たか」
男の声は低く、どこか湿っていた。
「王都の犬どもが」
ビルセイヤは剣の柄を握り締める。
白枝の泉。
蛇の牙。
苦しむ白き霊樹。
全てが、目の前にあった。
――続く。




