第百八話 ガルディア辺境伯
夜明けと共に、ビルセイヤたちは宿場町を発った。
同行するのは、ガルディア辺境伯家の騎士隊長補佐ロドリグ。
昨夜の戦闘後、ほとんど休む間もなく動くことになったが、誰一人として不満は口にしなかった。
それだけ、ルミナスの深森で起きている異変は深刻だった。
翡翠に侵されたフォレストウルフ。
森で行方不明になった二人の兵士。
森から逃げてきた少女。
そして、その少女が繰り返したという言葉。
――白い木が泣いてる。
それら全てが、ビルセイヤたちの胸に重く残っていた。
◇◇◇
昼過ぎ。
一行はガルディアの街へ到着した。
王都アルティアから北東に位置する辺境伯領の中心地。
その街は、王都の華やかさとは違う、堅実で力強い雰囲気を持っていた。
高い外壁。
頑丈な門。
門上には弓兵が立ち、街道の先を警戒している。
辺境防衛の要となる街だけあって、街全体が一つの砦のようだった。
「ここがガルディアか」
ツバサが門を見上げる。
「シーサスやエメラルド・グリーンとは雰囲気が違うな」
「辺境伯の街だからな」
ビルセイヤは門の上の兵士たちを見た。
「防衛を第一に作られている」
「ええ」
ロドリグが頷く。
「ガルディアは北東辺境の守りです。普段は交易や林業も盛んですが、いざという時は街全体が防衛拠点になります」
門番はロドリグの姿を見ると、すぐに敬礼した。
「ロドリグ隊長補佐!」
「王都からの客人をお連れした。辺境伯様へ取り次いでくれ」
「はっ!」
兵士たちはすぐに門を開ける。
ビルセイヤたちは、ガルディアの街へ足を踏み入れた。
街の中は、想像以上に人が多かった。
商人、兵士、冒険者、職人。
だが、どこか張り詰めた空気がある。
道端では武器を手入れする兵士が目立ち、冒険者たちも酒場ではなくギルド方面へ足早に向かっていた。
ルミナスの深森の異変が、すでに街全体へ影を落としているのだろう。
「まずは辺境伯様の館へ向かいます」
ロドリグの案内で、一行は街の中央へ進む。
そこに建っていたのは、華美な城ではなく、軍事拠点としての機能を重視した石造りの館だった。
高い塔。
厚い外壁。
広い中庭では、兵士たちが訓練を行っている。
館というより、半ば要塞である。
「これはまた……」
ツバサが苦笑する。
「貴族の屋敷ってより、軍の本部だな」
「辺境伯家の館は、そういうものよ」
セシリアが言う。
「辺境を守る貴族は、戦うための備えを怠れないから」
「その通りです」
ロドリグは小さく頷いた。
「辺境伯様も、華やかな屋敷より兵が動きやすい館を好まれます」
◇◇◇
館の応接室に通されて間もなく、扉が開いた。
入ってきたのは、一人の大柄な男だった。
年齢は四十代半ばほど。
短く刈り込まれた灰色の髪。
鋭い目つき。
厚い胸板と鍛えられた腕。
貴族というより、歴戦の将軍と呼ぶ方が似合う人物だった。
「待たせたな」
男は低い声で言った。
「私はガルディア辺境伯、ダリウス・ガルディアだ」
ビルセイヤたちは立ち上がる。
「ビルセイヤです」
「セシリアです」
「エミリアです」
「ツバサだ」
それぞれ名乗ると、ダリウス辺境伯は一人一人を見定めるように視線を向けた。
「王都からの正式依頼を受けた者たちか」
「はい」
「ライオット陛下から話は聞いている。古代神殿の件、そして王家秘蔵の記録に関わる者だともな」
その言い方からして、詳細までは知らされていないのだろう。
アイリスの継承者候補の件は伏せられているはずだ。
だが、ダリウス辺境伯はそれ以上詮索しなかった。
「事情を全て聞くつもりはない。陛下が信頼した者なら、私も信じる」
簡潔な言葉だった。
だが、そこには辺境を預かる者らしい決断の早さがある。
「ありがとうございます」
ビルセイヤが頭を下げる。
「礼は不要だ」
ダリウス辺境伯は机の上に地図を広げた。
「時間がない。すぐに本題へ入る」
地図には、ガルディアの街とルミナスの深森、その周辺の村や小道が細かく記されていた。
ダリウス辺境伯は、森の外縁部を指差す。
「異変が始まったのは約一週間前だ」
「一週間前……」
セシリアが呟く。
「最初は、森の外で魔物を見たという報告だった。珍しいが、あり得ない話ではない。だが三日前から一気に増えた」
「三日前……アイリス王女の試練の後か」
ツバサが小さく呟く。
ダリウス辺境伯の眉がわずかに動いた。
だが彼は深く追及せず、話を続ける。
「現在、森の入口付近は実質封鎖状態だ。兵を配置しているが、深部へは入れていない」
「行方不明の兵士は?」
ビルセイヤが問う。
「二名。名はカイルとベルン。どちらも経験豊富な兵だ」
ダリウス辺境伯の声が、僅かに低くなる。
「場所は白枝の泉付近。戻った兵の証言では、泉の奥で翡翠色の光を見た直後、二人の姿が消えたそうだ」
「消えた?」
「霧に呑まれるように、だ」
部屋の空気が重くなる。
「霧……」
エミリアが目を細める。
「森の精霊が作る結界に似ています。でも、普通なら人を攫うようなことはしません」
「つまり普通じゃないってことか」
ツバサが腕を組む。
「そうだろうな」
ダリウス辺境伯は頷いた。
「さらに、森の木々に妙な印が刻まれていた」
彼は机の上に一枚の羊皮紙を置いた。
そこには、木に刻まれた印の写しが描かれている。
絡み合う二本の蛇のような模様。
中央には牙を思わせる鋭い刻印。
それを見た瞬間、ビルセイヤたちの表情が変わった。
「蛇の牙……」
セシリアが低く呟く。
「やはり知っているか」
ダリウス辺境伯の目が鋭くなる。
「古代神殿で暗躍していた組織です」
ビルセイヤが答える。
「封印や異界の魔神に関わっていました」
「なるほど」
ダリウス辺境伯は重々しく頷いた。
「なら、今回も奴らが絡んでいる可能性が高いわけだ」
「ほぼ確定だな」
ツバサが吐き捨てるように言う。
「世界樹に似た魔力を魔物へ流し込んで、森を荒らしてる。ろくでもねえ実験でもしてるんじゃないか?」
「十分あり得る」
ビルセイヤは印の写しを見つめる。
蛇の牙が世界樹に関わるものを狙っているのだとすれば、ルミナスの深森の奥にある“白い木”も危ない。
急がなければならない。
「森から逃げてきた少女は?」
エミリアが静かに尋ねた。
ダリウス辺境伯の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「保護している。医師と女性兵士がついているが、まだ怯えが強い。まともな会話は難しい」
「会わせてもらえますか?」
エミリアが一歩前に出た。
「森の民の子である可能性があるなら、私の精霊魔法に反応するかもしれません」
ダリウス辺境伯は少し考え、頷いた。
「分かった。だが無理はさせるな」
「もちろんです」
◇◇◇
少女が保護されている部屋は、館の奥にあった。
部屋の前には女性兵士が二人立っている。
中に入ると、そこには小さな寝台と椅子、そして水差しが置かれていた。
寝台の隅に、小さな少女が膝を抱えて座っている。
年は十歳前後。
薄い緑色の髪。
大きな琥珀色の瞳。
服は木の葉や蔓を編んだような不思議な素材でできており、普通の村娘とは明らかに違っていた。
少女はビルセイヤたちを見るなり、びくりと肩を震わせる。
「大丈夫です」
エミリアが優しく声をかけた。
「怖がらないで。私たちはあなたを傷つけません」
少女は答えない。
ただ、震える手で毛布を握りしめている。
エミリアは無理に近づかず、少し離れた場所で膝をついた。
そして、そっと手を胸元へ当てる。
「風の精霊、水の精霊。どうか、この子に優しい声を届けて」
小さな精霊魔法が発動する。
淡い光が部屋に広がり、柔らかな風が少女の頬を撫でた。
少女の震えが、少しだけ小さくなる。
「……せい、れい……?」
かすかな声。
エミリアは微笑んだ。
「ええ。私はエルフです。精霊の声を少しだけ聞くことができます」
少女はゆっくりと顔を上げた。
その目が、エミリアを見つめる。
そして次に、ビルセイヤを見る。
少し怯えた。
だが、敵意ではない。
何かを探るような視線だった。
「あなたの名前を聞いてもいいですか?」
エミリアが優しく尋ねる。
少女はしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……ルル」
「ルルさんですね」
エミリアは頷く。
「ルルさんは、ルミナスの深森から来たのですか?」
少女――ルルは、こくりと頷いた。
「森の民?」
再び小さく頷く。
ダリウス辺境伯が息を呑んだ。
ルミナスの深森に森の民がいるという話は、伝承の域を出なかったのだろう。
「ルル」
ビルセイヤが静かに声をかける。
「森で何があった?」
ルルはびくっと肩を震わせた。
エミリアがすぐに視線で制する。
ビルセイヤは少しだけ声を和らげた。
「無理に話さなくていい。でも、俺たちは森を助けに行きたい」
「森を……助ける……?」
「ああ」
ルルはビルセイヤをじっと見つめた。
そして、震える声で呟く。
「白い木が……泣いてる」
その言葉に、全員が息を呑む。
「白い木って、白枝の泉の奥にある霊樹のことか?」
ツバサが尋ねると、ルルは小さく頷いた。
「白き霊樹……森の母……みんなの声を聞いてくれる木……」
「森の母……」
エミリアが呟く。
「でも、黒い人たちが来た」
「黒い人たち?」
ビルセイヤの目が細くなる。
「顔を隠してた。蛇の印……木に傷をつけた。泉に変な石を沈めた」
「変な石……」
セシリアが眉をひそめる。
「その石が原因で魔物が?」
「石が光った」
ルルは震えながら頷いた。
「森の子たちが苦しんだ。狼も、鳥も、蛇も……みんな、痛いって叫んでた」
エミリアの表情が苦しげに歪む。
「精霊だけじゃなく、森の生き物全部に影響が出ているんですね」
「黒い人たちは、何をしていた?」
ビルセイヤが静かに問う。
ルルは一瞬言葉に詰まった。
そして、小さな声で言う。
「白い木を……起こそうとしてた」
「起こす?」
「でも違う。白い木は起きたくないって言ってた。苦しいって。泣いてた」
部屋に沈黙が落ちる。
蛇の牙。
白枝の泉。
変な石。
白き霊樹を無理やり目覚めさせようとしている。
その目的はまだ分からない。
だが、ろくなものではないことだけは確かだった。
「ルル」
ビルセイヤは真剣な声で言った。
「俺たちは白い木を助けに行く。行方不明の兵士も探す。だから、もし分かるなら教えてくれ。黒い人たちは、まだ森にいるのか?」
ルルは小さく頷いた。
「いる。泉の奥。白い木の根元」
「数は?」
「たくさん……でも、怖い人は三人」
「怖い人?」
「一人は、蛇の杖を持ってる。もう一人は、大きな剣。もう一人は……声が変。みんな、その人の言うことを聞いてた」
指揮官格がいる。
ビルセイヤはそう判断した。
「分かった」
彼は立ち上がる。
「ダリウス辺境伯。すぐに森へ向かいます」
「待て」
ダリウス辺境伯が低く言った。
「兵を出す」
「お気持ちはありがたいですが、森の中で大人数は危険です」
ビルセイヤは即座に答える。
「蛇の牙が仕掛けを置いているなら、人数が多いほど被害が増える」
「だが、私の兵が二人消えている」
「だからこそ、少数で行きます」
ビルセイヤは真っ直ぐ辺境伯を見た。
「俺たちが先行して状況を確認します。兵士を見つけたら必ず助けます」
ダリウス辺境伯はしばらく黙っていた。
部屋に緊張が満ちる。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「……分かった」
そして机の上に置かれていた小さな地図を取り出す。
「白枝の泉までの簡易地図だ。森の民しか知らぬ道は載っていないが、兵が使っている巡回路は記してある」
「助かります」
「ロドリグ」
「はっ」
「お前は彼らを森の入口まで案内しろ。そこから先は指示に従え」
「承知しました」
ロドリグが頷く。
その時、寝台の上のルルが小さく手を伸ばした。
「待って……」
ビルセイヤが振り返る。
ルルは震えながらも、必死に言葉を絞り出した。
「白い木……助けて……」
「ああ」
ビルセイヤは静かに頷いた。
「必ず助ける」
その言葉に、ルルの瞳に少しだけ光が戻った。
◇◇◇
館を出る頃には、空は夕暮れに染まり始めていた。
だが、ビルセイヤたちはすでに森へ向かう準備を整えていた。
地図。
薬草。
魔力回復薬。
携帯食。
そして、蛇の牙の印の写し。
「結局、休む暇なしだな」
ツバサが肩を回す。
「いつものことじゃない」
セシリアが苦笑する。
「でも、今回は急いだ方がいいです」
エミリアが森の方角を見つめる。
「精霊たちの声が、さっきより弱くなっています」
ビルセイヤは頷いた。
「行こう」
目指すは、ルミナスの深森。
白枝の泉。
そして、その奥で泣いているという白き霊樹。
蛇の牙が何を企んでいるのか。
翡翠に侵された魔物の正体は何なのか。
その答えは、森の奥にある。
夕暮れの空の下、ビルセイヤたちはガルディアの街を後にした。
世界樹に連なる異変を止めるために。
――続く。




