第百七話 翡翠に侵された牙
宿場町の夜は、ようやく静けさを取り戻していた。
街道を埋めるように押し寄せたフォレストウルフの群れは、ビルセイヤたちの手でどうにか退けられた。だが、その代償として見張り台の柵は何本かへし折れ、街道脇の荷車も二台ほど横転している。
幸い、死人は出なかった。
軽傷者はいたが、宿場町にいた冒険者や商人たちが互いに協力し合い、すでに応急処置は始まっている。
その中で、ビルセイヤは街道脇に横たえられたフォレストウルフの死骸を見下ろしていた。
首筋に残る、翡翠色の筋。
戦闘中は淡く光っていたそれも、今は色を失い、黒く濁って崩れ始めている。
「やっぱり、普通の強化じゃないわね」
隣にしゃがみ込んだセシリアが、眉をひそめた。
「魔力の暴走にしては、色が妙すぎる」
「ああ」
ビルセイヤは死骸の首筋に指先を近づける。
ほんの僅かだが、まだ魔力の残滓が残っていた。
冷たい。
だが、その奥に妙な生々しさがある。
自然の魔力ではない。
誰かの意思、あるいは何かの力で無理やり流し込まれたような、不快な感触だった。
「どうですか?」
エミリアが近づいてくる。
その手には、先ほど倒した個体の牙が一本握られていた。
「これを見てください」
差し出された牙には、根元に近い部分だけ薄い緑色の線が走っていた。
まるで、内側から翡翠が滲み出たような色合いだ。
「牙にまで……」
セシリアが息を呑む。
「体表だけじゃなく、骨格に近いところまで魔力が侵食しています」
エミリアの表情は険しい。
「しかも、この魔力……精霊のものではありません」
「分かるのか?」
「はい。精霊の魔力なら、もっと柔らかく流れます。こんな刺々しい感じにはなりません。これは……何か別の力で、無理に森の魔物へ“世界樹に似た属性”を押しつけているような……」
「世界樹に似た属性、か」
ツバサが腕を組む。
「似てるけど違うってことか?」
「そう考えるのが自然です」
エミリアは頷いた。
「少なくとも、アイリス王女の枝杖や、あの試練で感じた世界樹の気配とは別物です。もっと濁っていて、不安定で、乱暴です」
ビルセイヤは倒れたフォレストウルフをもう一度見下ろした。
翡翠色。
世界樹に似た何か。
それが魔物を侵し、街道まで追い立てている。
だとすれば、ルミナスの深森で起きている異変は、単なる精霊のざわめきでは済まない。
「……やっぱり、森の奥に原因があるな」
その時、宿場町の出張所から受付嬢が慌てた様子で駆けてきた。
「あ、あの! 皆さん、少しいいですか!?」
「どうした?」
「ガルディアの街から、兵士の方が来ています。今回の群れの件を聞いて、ぜひ話がしたいと……!」
ビルセイヤたちは顔を見合わせた。
ガルディアの街から兵士が来たということは、辺境伯側もすでに事態を把握しているのだろう。
「行こう」
◇◇◇
冒険者出張所の中には、まだ深夜だというのに慌ただしい空気が残っていた。
机の上には街道地図が広げられ、宿場町の職員たちが怪我人の数や被害状況を書き込んでいる。
その中央に、一人の男が立っていた。
年は三十前後だろうか。
濃紺のマントに、ガルディア辺境伯家の紋章入りの胸当て。
腰には実用本位の長剣を差し、いかにも前線慣れした兵士という雰囲気を纏っている。
「お待ちしていました」
男はビルセイヤたちを見ると、すぐに姿勢を正した。
「私はガルディア辺境伯家所属、騎士隊長補佐のロドリグと申します」
「ビルセイヤです。こっちは仲間のセシリア、エミリア、ツバサ」
「お噂はかねがね」
ロドリグは短く頭を下げる。
「王都から正式依頼を受け、ルミナスの深森の調査に向かっている方々だと聞いています」
「辺境伯にはもう話が通ってるんだな」
ツバサが言う。
「はい。ライオット国王陛下からの早馬が、昨日の時点で届いております」
ロドリグはそう言って、地図の一点を指した。
ガルディアの街からさらに東へ。
ルミナスの深森へ続く道筋だ。
「単刀直入に申し上げます。ルミナスの深森の入口は、すでに封鎖寸前です」
「封鎖寸前?」
セシリアが眉をひそめる。
「ここ三日で、森の外縁に現れる魔物の数が急増しました。フォレストウルフだけではありません。グレートボア、ナイトホーク、樹上蛇――本来なら森の深部にいる魔物まで、外へ押し出されるように出現しています」
「森の生態系そのものが乱れてるな」
ビルセイヤが低く言う。
「ええ」
ロドリグは頷いた。
「しかも問題は、それだけではありません」
彼は少しだけ声を落とす。
「森へ偵察に入った我々の兵士が、二名戻っていません」
部屋の空気が、一段と重くなった。
「行方不明、ですか」
エミリアが小さく呟く。
「はい。正確には、五名で森の入口付近を確認しに向かい、三名は戻りました。ですが残る二名は、森の中で“光る何か”を見た直後に連絡を絶ちました」
「翡翠色の光か」
ビルセイヤが問う。
「ええ。戻った三名も同じ証言をしています。森の奥で、翡翠色の柱のような光が一瞬だけ立ち上った、と」
柱のような光。
アイリスの枝杖が反応した時に見せた淡い光とは、規模が違う。
もっと大きく、もっと強い現象だ。
「それで、兵士たちは?」
セシリアが尋ねる。
「二人を探すため、追加で部隊を出す案もありました。ですが辺境伯様が止められました」
ロドリグは悔しそうに歯を食いしばる。
「今の状態で人数を増やしても、被害が拡大するだけだと」
「正しい判断だ」
ビルセイヤは即座に言った。
「原因が分からないまま人を突っ込ませるのは危険すぎる」
「……分かっています」
ロドリグは拳を握る。
「ですが、仲間を置き去りにしたままというのは、兵としてどうしても割り切れない」
その声音には、抑え込んだ焦りと悔しさが滲んでいた。
ビルセイヤはロドリグをまっすぐ見返す。
「その二人が最後にいた場所、分かりますか?」
「おおよその位置なら」
ロドリグは地図の森の外縁部を指した。
「この“白枝の泉”と呼ばれる泉の近くです。本来は精霊が集まる静かな場所ですが、今は近づく者がいません」
「白枝の泉……」
エミリアが小さく繰り返す。
「名前からして、世界樹と無関係とは思えませんね」
「俺もそう思う」
ビルセイヤは地図を見つめた。
「ルミナスの深森へ入るなら、まずそこを目指すべきだな」
「待ってください」
ロドリグが慌てて口を挟む。
「皆さんが森へ向かうのは承知しています。ですが、辺境伯様からは“まずガルディアへ寄ってほしい”と命じられています」
「理由は?」
ツバサが問う。
「二つあります」
ロドリグは指を二本立てた。
「一つは、森に入る前に現状を正確に共有したいから。もう一つは――」
彼はそこで一瞬だけ言葉を切る。
「昨夜、ガルディアの街に“森から逃げてきた少女”が保護されたからです」
「少女?」
セシリアが目を見開く。
「はい。年の頃は十歳前後。身元不明。服装は森の民に近いものでしたが、ガルディア周辺の村の子ではありません。ひどく怯えていて、まともに話せる状態ではないそうです」
「森の民……」
エミリアが表情を引き締める。
「ルミナスの深森の周辺には、古くから精霊と共に暮らす小集落があると聞いたことがあります」
「その可能性もあります」
ロドリグは頷いた。
「ただ、その少女は保護された時、何度も同じ言葉を繰り返していたそうです」
「何て?」
ビルセイヤが問うと、ロドリグは低い声で答えた。
「――“白い木が泣いてる”と」
その言葉に、エミリアがはっと息を呑んだ。
「白い木……」
「心当たりがあるのか?」
ビルセイヤが見る。
「断言はできません。でも、ルミナスの深森に古くから伝わる伝承の中に、“白枝の泉の奥には白き霊樹がある”という話があります」
「霊樹?」
「世界樹そのものではなく、その眷属、あるいは根の一部とされる霊木です。実在するかは分かりませんでしたが……もし本当に存在していて、何か異変が起きているなら」
「森の異常とも繋がる、か」
ビルセイヤは小さく息を吐いた。
世界樹に似た翡翠の力。
森から逃げてきた少女。
白い木が泣いている、という言葉。
そして、行方不明の兵士たち。
点だった情報が、少しずつ一本の線になり始めている。
「分かった。まずはガルディアへ行こう」
ビルセイヤはロドリグへ向き直った。
「その少女に会わせてくれ。辺境伯にも話を聞きたい」
「ありがとうございます」
ロドリグは深く頭を下げる。
「夜明けと同時に出発すれば、昼過ぎにはガルディアへ着けるはずです」
「今から出るのは危険すぎるしな」
ツバサが頷く。
「さすがに今夜はここで休んだ方がいい」
「ええ。私も賛成です」
エミリアはそう言いながらも、まだ不安そうに窓の外を見ていた。
「……ただ、森のざわめきが少しずつ強くなっています。あまり時間は残されていない気がします」
「なら、明日は朝一番で出る」
ビルセイヤが言う。
「ガルディアで必要な情報を集めたら、その足で森へ入る準備をする」
「相変わらず決断が早いわね」
セシリアが苦笑する。
「急がない理由がない」
ビルセイヤは真顔で答えた。
「行方不明者が出てる。森の魔物は街道に溢れ始めてる。しかも、原因が世界樹に関わる可能性が高い。なら、一刻も早く動くべきだ」
「そこは同意」
ツバサが肩を竦める。
「俺も早く正体を見たいしな。翡翠に侵された魔物なんて、どう考えてもロクな話じゃない」
◇◇◇
ロドリグとの話を終え、出張所を出た頃には、空の色がほんのわずかに白み始めていた。
長い夜が終わろうとしている。
宿場町はまだ寝静まっているが、遠く北東の空だけが、妙に重たい気配を孕んでいた。
ビルセイヤは宿へ戻る前に、一度だけ街道の先を振り返る。
その先にあるのは、ガルディアの街。
そして、ルミナスの深森。
行方不明の兵士たち。
森から逃げてきた少女。
白い木が泣いているという不吉な言葉。
全てが、これから向かう先に集まっている。
「ビルセイヤ」
セシリアが隣に立った。
「大丈夫?」
「何がだ?」
「顔。ちょっと怖い」
「……そうか?」
「ええ。獲物を見つけた時の顔に近いわね」
「それ、全然フォローになってないぞ」
ツバサが後ろから笑う。
ビルセイヤは小さく息を吐いた。
「別に、戦いたいわけじゃない」
「でも、助ける気ではいるんでしょう?」
セシリアが静かに言う。
ビルセイヤは答えなかった。
だが、その沈黙だけで十分だった。
行方不明の兵士がいる。
泣いている森がある。
そして、もし本当に“白い木”が世界樹に連なる存在なら、見過ごせるはずがない。
「明日、ガルディアで全部聞き出す」
ビルセイヤは短く言った。
「その上で、森に入る」
「うん。そういうと思った」
セシリアは少しだけ笑う。
エミリアも、ツバサも頷いた。
こうして、ビルセイヤたちの次の目的ははっきりと定まった。
まずはガルディアの街へ。
辺境伯から森の現状を聞き、森から逃げてきた少女に会い、行方不明者の手掛かりを掴む。
その先に待つのは、白枝の泉。
そして、その奥で泣いているという“白い木”。
夜明け前の空気は冷たかった。
けれどその冷たさの奥で、確かに何かが彼らを待っている。
世界樹に連なる、新たな異変が。
――続く。




