第九十九話 第一の試練・心
翡翠の扉をくぐった先に広がっていたのは、静かな森だった。
頭上を覆う樹々はどれも常識外れの大きさで、幹は塔のように太く、枝葉は空そのものを支えているように見える。木々の間を漂う淡い緑の光が、森全体を神秘的に照らしていた。
風は柔らかい。
土の匂いは優しく、空気は澄んでいる。
だが――どこかおかしい。
「……静かすぎるな」
ツバサが低く呟いた。
その通りだった。
森だというのに、鳥のさえずりも獣の気配もない。ただ、木々が揺れる微かな音だけが響いている。
「ここが……試練の場所なんでしょうか」
エミリアが不安そうに辺りを見回す。
「たぶんね」
セシリアがアイリスの隣へ寄る。
「でも、何が起きるか分からないわ。気をつけて」
「はい……」
アイリスは緊張した面持ちで頷いた。
その時だった。
森の奥から、アークレイドの思念の声が響く。
『第一の試練は“心”』
姿は見えない。だが、その声だけは空間全体に染み込むように響いていた。
『継承者とは、ただ力を求める者ではない。なぜその力を欲するのか。何を守りたいのか。その根を問う』
アイリスがごくりと喉を鳴らす。
『この試練では、お前の心の奥底を映す。偽りも、見栄も、逃げも許されぬ』
「心の奥底……?」
ビルセイヤが眉をひそめた。
嫌な予感がする。
だが、次の瞬間にはもう遅かった。
ふわり、と森を漂っていた緑の光が一斉に動き出す。
光はアイリスを中心に渦を巻き、その足元に大きな魔法陣を描いた。
「きゃっ……!?」
アイリスが短く悲鳴を上げる。
「アイリス!」
ビルセイヤが手を伸ばす。
だが、その指先が届くより早く、光の柱が彼女を包み込んだ。
眩い閃光。
次の瞬間、そこにアイリスの姿はなかった。
「消えた!?」
セシリアが目を見開く。
『案ずるな』
アークレイドの思念の声が響く。
『継承候補は、己の心と向き合うための空間へ移された。第一の試練は、本人にしか越えられぬ』
「ふざけんな!」
ツバサが叫ぶ。
「一人で行かせるなって言っただろうが!」
『だからこそだ』
声は静かだった。
『心の試練は、他人が代わりに支えることができない。己自身で立ち、己自身で答えを出すしかない』
ビルセイヤは奥歯を噛み締めた。
分かっている。
試練とはそういうものだ。
だが、頭で理解するのと、実際に仲間が一人で放り込まれるのを見送るのとでは話が違う。
「アイリス……」
ビルセイヤは拳を握り締めた。
◇◇◇
気が付くと、アイリスは一人で立っていた。
「……ここ、どこ……?」
周囲を見回し、息を呑む。
そこは、見覚えのある場所だった。
アルティア王城の中庭。
春には花が咲き乱れ、幼い頃のアイリスが何度も駆け回った場所だ。
だが、どこか様子がおかしい。
空は薄暗く、花々の色もどこか褪せて見える。まるで、記憶の中の景色をそのまま切り取ったような、現実感の薄い世界だった。
「どうして……王城の庭?」
『それは、お前の心が最も強く結びついた場所だからだ』
またしてもアークレイドの声が響く。
だが、姿は見えない。
『第一の試練は、お前自身の本心を暴く。逃げたい過去も、見たくない弱さも、全てな』
「そんな……」
アイリスが身を強張らせた、その時。
「――またそんなところで遊んでいるのか、アイリス」
低い男の声が聞こえた。
はっとして振り向く。
そこに立っていたのは、幼い頃の記憶の中にいるライオット国王だった。
今より少し若く、厳しい表情をしている。
「お、お父様……?」
思わず声が震える。
だが、その国王はアイリスを見ても笑わなかった。
「お前は王女だ」
厳しい声が響く。
「いつまでも好き勝手に外へ飛び出していていい立場ではない。王族としての自覚を持ちなさい」
胸がずきりと痛んだ。
これは、昔本当に言われた言葉だ。
城を抜け出して城下町へ遊びに行った時、ライオット国王に叱られたことがある。
その時の光景が、そっくりそのまま再現されていた。
「わ、私は……」
「お前は第二王女だ」
さらに別の声が重なる。
今度はミリア王妃だった。
いや、正確には“記憶の中のミリア王妃”だ。
「ウィルやシリスのように、王族として相応しい振る舞いを学ばねばなりません。あの二人を見習いなさい」
言葉は柔らかい。
だが、その優しさが逆に胸を締め付けた。
分かっている。
誰もアイリスを傷つけようとしていたわけではない。
王族として必要なことを教えようとしていただけだ。
それでも、幼いアイリスにとっては苦しかった。
兄のウィルは剣も政治も優秀で、将来の王太子として誰からも期待されていた。
姉のシリスは礼儀作法も外交も完璧で、王女の鑑のような存在だった。
比べられていたわけではない。
けれど、アイリス自身はいつも感じていた。
――自分だけが、王族として出来損ないなのではないか、と。
「違う……」
アイリスは小さく呟いた。
だが、記憶の幻たちは止まらない。
今度は侍女たちの声が聞こえてくる。
「アイリス様はまたお部屋を抜け出したの?」
「本当に落ち着きがありませんわね」
「シリス様のように淑やかであれば……」
「やめて……」
頭を押さえる。
忘れたかったわけではない。
でも、思い出したくもなかった。
元気で、自由で、何にでも興味を持つ。それがアイリスの長所だと、今なら少しは思える。
けれど、子供の頃の彼女は違った。
それが全部、「王女らしくない」と言われているように感じていた。
自分だけが、王家に相応しくない。
自分だけが、何もできない。
自分だけが――。
「私は……っ」
息が苦しい。
胸が締め付けられる。
足元がぐらつき、思わず膝をつきそうになった、その時だった。
目の前の景色が、ふっと切り替わる。
王城の庭が消え、代わりに現れたのは――シーサスの街並みだった。
「え……?」
アイリスが目を見開く。
そこは、彼女が初めてビルセイヤと出会った街。
人々が行き交い、露店が並び、海風の匂いが漂う活気ある街だ。
そして、その通りの向こうに。
見慣れた黒髪の青年が立っていた。
ビルセイヤだ。
まだ今ほど親しくなる前。けれど、アイリスにとって運命が動き始めた、あの日のビルセイヤ。
彼は冒険者ギルドへ向かう途中なのか、いつものように真っ直ぐ前を見て歩いている。
その姿を見た瞬間、アイリスの胸の奥に温かいものが灯った。
城の中にいる時には感じられなかった感情。
初めて「外の世界って、こんなに眩しいんだ」と思った日の記憶。
「私は……」
ぽつりと声が漏れる。
「私は、あの日……ビルセイヤさんを見て、初めて思ったんです」
誰に語るでもなく、言葉がこぼれていく。
「王女だからって、城の中で守られているだけじゃなくて、自分の足で外へ出て、自分で世界を見てみたいって」
ビルセイヤの背中が、ゆっくりとこちらを振り向く。
もちろん本物ではない。
記憶の中の幻だ。
それでも、その姿はアイリスに問いかけてくるようだった。
――お前は、何のために力を欲するのか。
その問いに、アイリスはゆっくりと立ち上がる。
震えていた足が、少しずつ力を取り戻していく。
「私は、王女として役に立ちたい」
それは本音だった。
国のために何かしたい。父や母、兄や姉の力になりたい。その気持ちは昔から確かにあった。
「でも、それだけじゃない」
胸元の翡翠を握り締める。
「私は、ただ守られるだけの自分が嫌だったんです」
声が強くなる。
「お父様やお母様が悪いわけじゃない。みんなが私を大事にしてくれてるのも分かってます」
「でも、だからって――ずっと守られているだけで終わりたくない!」
世界が揺れた。
薄暗かった空に、わずかに光が差し込む。
「私は、ビルセイヤさんたちみたいに、自分の足で立って、自分の力で誰かを守れる人になりたい!」
その瞬間、胸元の翡翠が強く輝いた。
眩い緑光がアイリスを包み込み、王城の幻も、侍女たちの声も、全てを押し流していく。
そして、最後に一つだけ声が響いた。
『――それがお前の答えか』
アークレイドの声だった。
アイリスは真っ直ぐ前を向き、はっきりと頷く。
「はい」
『王族としての義務から逃げるためではないのだな』
「違います」
『恋に浮かれているだけでもない、と?』
「そ、それは……!」
一瞬だけ顔が赤くなる。
だが、アイリスはすぐに首を振った。
「違い……ません。たしかに、ビルセイヤさんに憧れてます。でも、それだけじゃないです」
深く息を吸う。
「私は、私の意思で強くなりたい。大切な人たちを守れる自分になりたい。そのために世界樹の力が必要なら――私は逃げません」
沈黙。
次の瞬間、空間全体が翡翠色に染まった。
『第一の試練、“心”――合格だ』
その声と同時に、世界が崩れ始める。
シーサスの街並みも、王城の庭も、何もかもが光の粒となって消えていく。
「きゃっ……!」
足元がふっと浮く。
視界が白く染まり――
◇◇◇
「アイリス!」
気が付くと、ビルセイヤの声が聞こえた。
目を開ければ、そこは元の白い空間。
セシリア、ツバサ、エミリア、そしてビルセイヤが心配そうな顔でこちらを見ている。
「ビルセイヤさん……」
「大丈夫か?」
ビルセイヤが手を差し伸べる。
「何があった?」
アイリスはその手を借りて立ち上がった。
まだ少し足元はふらつく。けれど、不思議と心は軽かった。
「……私、ちゃんと答えられたと思います」
そう言って、アイリスは小さく笑う。
その笑顔を見て、ビルセイヤも少しだけ表情を緩めた。
すると、白い空間の奥でアークレイドの思念が頷く。
『よく越えたな、継承候補』
その声には、先ほどまでよりも僅かながら柔らかさがあった。
『だが、これで終わりではない』
白い空間の奥に、今度は巨大な石造りの闘技場が姿を現す。
翡翠色の蔦に覆われた、古代の戦場のような場所だ。
『第二の試練――“力”を始める』
アークレイドの言葉と共に、闘技場の中央へ何かが降り立った。
それは人影だった。
いや、ただの人ではない。
白銀の鎧を纏い、長槍を手にした、騎士のような存在。
その身から放たれる圧力は、ただ者ではないと一目で分かる。
『次は、お前が世界樹の力に値するだけの“力”を持つかを測る』
アイリスは息を呑んだ。
ようやく越えたと思った第一の試練。その先に待っていたのは、見るからに苛烈な戦いの試練だった。
第二章 第九十九話
第一の試練・心
――続く。




