第九十四話 王太子への一撃
三日後。
アルティア王城訓練場には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。
今日は、アイリス王女の試験の日である。
王女自ら「冒険者になりたい」と宣言し、その覚悟を示すために受ける試練。試験官を務めるのは、アルティア王国第一王子にして王太子――ウィル・アルティアだ。
条件はただ一つ。
ウィルに有効打を一撃入れること。
訓練場の観覧席には、ライオット国王、第一王妃ミリア、第二王妃シズク、第一王女シリスまで顔を揃えていた。
完全に家族総出である。
「どうしてこうなったんだろうな……」
訓練場の端で、ツバサがぼやいた。
「王女の試験だからじゃない?」
セシリアが苦笑する。
「むしろ国王陛下たちが来ない方がおかしいでしょ」
「それはそうなんだけどよ……」
ツバサは肩を竦めながら、訓練場の中央へ視線を向けた。
そこには、木剣を両手で握り締めたアイリスが立っている。
白を基調とした軽装の訓練服。長い金髪は邪魔にならないよう後ろでまとめられていた。普段の華やかな王女姿とは違う。だが、その表情はこれまで見たどの時よりも真剣だった。
「本当にやるんですね……」
エミリアが小さく呟く。
エルフの彼女は弓の名手であり、精霊魔法の使い手でもあるが、こうした真正面からの試合には別種の緊張があるのだろう。
「ええ」
ビルセイヤは短く答えた。
アイリスの瞳には、もう迷いがない。あれは半端な覚悟ではない。ただの憧れや勢いだけでここに立っているわけではないと分かる。
その向かい側には、ウィルが同じく木剣を手に立っていた。
王族用の訓練着に身を包み、肩の力を抜いている。だが隙はない。静かな湖面のように見えて、その実、ほんの僅かな動きも見逃さない剣士の構えだった。
「ルールは昨日伝えた通りだ」
ウィルが静かに言う。
「時間制限は十分。私に有効打を一撃入れれば、お前の勝ちだ。逆に一本も入れられなければ失格」
「分かっています」
アイリスは真っ直ぐ兄を見返した。
「それと、私は手加減しない」
ウィルの声色が少しだけ低くなる。
「王女として扱うつもりも、妹として甘やかすつもりもない。冒険者になりたいと言ったのはお前自身だ。なら私は、一人の挑戦者として相手をする」
その言葉に、観覧席でライオット国王が苦い顔をした。
「……やはり中止にできんか?」
「今さらですわ、お父様」
シリスが楽しそうに微笑む。
「アイリスはあの顔になったら止まりませんもの」
「うう……」
国王は頭を抱えた。
娘に甘い父親としては、目の前で愛娘が打ち据えられる未来しか見えないのだろう。
だがシズク王妃は静かに娘を見つめていた。心配はしている。それでも、信じてもいた。ミリア王妃もまた、何も言わずに試合の行方を見守っている。
「始めるぞ」
審判役の騎士が一歩前に出る。
「――始め!」
その瞬間、アイリスが地を蹴った。
真っ直ぐに踏み込み、上段から木剣を振り下ろす。
速い。
王女の剣としては十分に速い一撃だった。短い期間とはいえ、確かに鍛錬を積んできたのだと分かる踏み込みだった。
だが。
カンッ、と軽い音が響く。
ウィルは半歩ずれるだけでそれを外し、木剣の腹でアイリスの剣を受け流した。
「くっ……!」
アイリスはすぐさま横薙ぎへ繋げる。さらに突き、そこから斜め斬り。連続攻撃。
決して悪くない。むしろ短期間でここまで形になっていること自体、かなりの努力を積んだ証拠だった。
しかし、相手が悪い。
ウィルはほとんど足を動かさず、最低限の動きだけで全てを捌いていく。
受ける。流す。外す。
それだけで、アイリスの攻撃は一つも届かない。
「速いけど……浅いな」
ツバサが腕を組みながら言った。
「振りが素直すぎる。あれじゃ読まれる」
「でも、かなり練習したのは分かるわ」
セシリアの声は優しかった。
「少なくとも、遊び半分で立ってる剣じゃない」
ビルセイヤも同意する。
アイリスは本気だ。それは剣を見れば分かる。
王女という肩書きに甘えるつもりはない。だからこそ、何度弾かれても前へ出る。
「まだですっ!」
アイリスが踏み込む。
今度は低い姿勢から足を狙う斬撃。さらに身体強化を使って一気に距離を詰め、左手に持ち替えた短い訓練棒を繰り出した。
「二刀流!?」
エミリアが驚く。
「棒術も混ぜたか」
ツバサが目を細める。
「発想は悪くねえ」
アイリスの特技は軽い剣術と棒術。そこに無属性の身体強化を重ね、一気に手数で押し切るつもりなのだろう。
だが、ウィルはそれすら見切っていた。
足払い気味の低い一撃を軽く跳んでかわし、着地と同時に木剣の切っ先をアイリスの喉元へぴたりと止める。
「一本」
ウィルが淡々と告げた。
「実戦なら今ので終わりだ」
「……っ」
アイリスの唇が悔しそうに噛みしめられる。
だが、泣かない。俯きもしない。
木剣を握り直し、再び構えを取る。
「まだ終わっていません」
「当然だ」
ウィルの口元が僅かに上がる。
「そうでなくては困る」
再び激突。
二度、三度とアイリスは攻め込むが、そのたびに防がれる。肩で息をし始め、額から汗が流れ落ちる。十分という時間が、これほど長いものかと感じるほどだった。
観覧席では、ライオット国王が今にも立ち上がりそうな顔をしている。
「もう十分ではないか!?」
「お父様、座ってください」
ミリア王妃がぴしゃりと止めた。
「アイリスが自分で望んだ試験です。ここで止めれば、あの子が一番悔やみますよ」
国王はぐっと言葉を詰まらせた。
シズク王妃も静かに頷く。
「……あの子を信じましょう、陛下」
訓練場では、なおも剣戟が続いていた。
だが、誰の目にも分かる。このままでは届かない。実力差は明らかだった。
それでもアイリスは前に出る。
何度弾かれても、何度崩されても、立ち上がる。
そして九分が過ぎた頃。
ついにウィルの木剣がアイリスの手元を強く打ち、木剣が宙を舞った。
「あっ……!」
木剣が地面へ転がる。
同時にアイリスも膝をついた。呼吸は荒く、腕は震えている。もう立つのも辛いはずだ。
ウィルは木剣を下ろした。
「そこまでだ」
静かな宣告だった。
「今のお前では、冒険者として外へ出すことはできない」
厳しい言葉。
だが事実でもある。
訓練場に沈黙が落ちた。
アイリスは俯いたまま動かない。肩が小さく震えている。
ライオット国王が立ち上がりかけた、その時だった。
アイリスが、ゆっくりと顔を上げる。
悔しさに目を潤ませていた。それでも、その瞳の奥に宿る火は消えていない。
「……もう一回」
掠れた声。だが、確かに聞こえた。
「もう一回、お願いします」
ウィルが眉を上げる。
「木剣を落とした。勝負はついたぞ」
「分かってます」
アイリスは震える足で立ち上がった。
転がった木剣を拾い、もう一度構える。
「でも……私は、ここで終わりたくありません」
「一回負けたくらいで諦めるなら、最初から冒険者になりたいなんて言いません」
その言葉に、場の空気が変わった。
セシリアが目を細める。
ツバサは口元を吊り上げた。
エミリアは胸の前で手を握り締める。
ビルセイヤは静かに息を吐いた。
――いい目だ。
強さはまだ足りない。技術も、経験も、覚悟の実戦的な形も。
だが、この折れなさは本物だ。
ウィルはしばらく黙っていたが、やがて木剣を肩に担いだ。
「……十分だ」
「兄様?」
「試験はここで終わりにする」
アイリスが息を呑む。
不合格。その言葉を覚悟したのだろう。
だが、ウィルの次の一言は予想外だった。
「条件付きで合格だ」
「え……?」
アイリスだけでなく、観覧席の全員が目を見開いた。
「今のお前を一人前の冒険者として認めるわけじゃない。だが、覚悟だけは本物だ。それに、負けても立ち上がれるなら見込みはある」
ウィルは木剣を下ろし、真っ直ぐ妹を見た。
「これから三か月、王城で基礎訓練を積め。剣術、体術、体力、魔法。全部だ」
「その上で、ビルセイヤたちが認めるなら、仮冒険者として同行を許可する」
アイリスの瞳が大きく見開かれる。
「ほ、本当ですか……!?」
「ただし」
ウィルの視線が鋭くなる。
「遊び半分なら即刻中止だ。泣き言を言っても中止。自分の身は自分で守る覚悟がないなら中止だ」
「はいっ!」
アイリスは涙目のまま、これ以上ないほど大きな声で返事をした。
その瞬間、観覧席から安堵の息が漏れる。
ライオット国王は胸を撫で下ろし、シズク王妃は目元を押さえ、シリスは楽しそうに拍手していた。ミリア王妃も小さく微笑んでいる。
「よかったわね、アイリス」
セシリアが微笑む。
「でも、これからが本番よ?」
「はい!」
アイリスは満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、いつもの無邪気な王女のものに見えて――けれど、その奥には確かな決意が宿っていた。
そして誰も気付かない。
喜びに震えるアイリスの胸元で、翡翠色のペンダントが再び淡く輝いたことに。
それはまるで――
新たな継承者の第一歩を、静かに祝福しているかのようだった。
第二章 第九十四話
王太子への一撃
――続く。




