6、安寧は泡沫のごとく
シャワーを浴びた小夜は、寝る支度をして部屋へと向かう。朧は小夜がベッドに入ったのを見て部屋の電気を消した。
「明日は十時前には出ますので、それまでには起きといてください」
「明日起こして」
「たまには自分で起きてくださいよ」
そう言うと、小夜は不満気な顔をした。
「それより明日神祇一緒に行けなくてすみません。あなたの鎮守人なのに」
「だから気にするなって言ってるだろ。大丈夫だよ、剱持さんいい人だし……」
朧は小夜の顔が曇ったのに気付かなかった。
「なら安心しました。ちゃんと挨拶するんですよ」
「……分かってるよ。お前は私のお父さんか」
「はいはい、おやすみなさい」
「おやすみ」
パタンとドアが閉められ、真っ暗になる。丸一日、あの男と過ごさなければならないと思うと憂鬱になった。
─大丈夫、一日だけ。一日だけ耐えればいいんだ。
そう自分に言い聞かせると、小夜は目を閉じた。
静かにドアを閉め、そのまま数分、朧はその場に佇み続けた。扉の向こうから規則正しい寝息が聞こえてくると、ようやく肺の底から息を吐き出す。
途端に澱みのような記憶が這い上がってくる。数時間前、母と交わした会話。逃れられない現実が、再び彼の肩にずしりと重くのしかかった。それに─。
朧はドアから静かに身を離し、胸元から携帯を取り出した。画面には、神祇統監機構からの着信履歴がいくつも並んでいる。
神祇統監機構は朧が所属している部署であり、神祇領域の管理・視察を担う上層機関だ。特に常世の巫に関しては、その存在・規律・運用の全権を掌握している。すなわち、巫に関する“決定権”そのものを握る組織。
巫の苦しみも知らずに、偉そうに上から指示を出してくる輩。朧は神祇統監機構が嫌いだった。
─面倒事に巻き込まないで欲しい。
自室に戻ると、ため息をついて朧は折り返した。数回の呼出音の後に女性の声がした。
『はい、こちら神祇統監機構です』
「十六夜です。先程お電話頂いたんですが」
「少しお待ちください」と言って保留音が流れる。しばらくして男性の声が聞こえた。
『十六夜さんですか』
「ええ、どうかしましたか」
『私、調整官の永見と申します。』
─調整官。
朧の願いは早々に散っていった。
『以前より機構内で議題に上がっていた件ですが、来週から視察のため、上層部の方が神祇へ同行することが正式決定となりました』
「……は?」
思いがけない報告に声が漏れ出る。
「そんな話聞いてませんが」
『鷹宮さんから機構に顔を出さないからだ、と伝言を預かっております』
─鷹宮。
仏頂面の上司の顔が浮かんだ。確かに機構に行くのは避けていた。しかし、これとは話が別だ。
「ちょっと待ってください。そもそも同行って必要あります?護衛も事足りてますよ」
『人事の問題ではなく、最近国内における禍の発生件数が増加傾向にありますので、現地視察による確認を実施するとの事です』
禍は魂が暴走して怨霊となったものだ。本来なら魂は月夜海へと送られ、そこで鎮められることで発生は抑えられている。
─小夜様がちゃんと役目を果たせてないって言いたいのか。
淡々と言う声に苛立ちを感じながら朧は言う。
「あのですね。霊山がどんな場所なのか分かってるんですか?護衛でさえ足を踏み入れてはいけないと決まってるんですよ。それに神祇は見世物じゃない」
『ええ、存じております』
「とりあえず上の方出してもらえます?話にならない」
『ええと……ただ今外しておりまして』
─嘘つきやがって。
朧が怒ることを分かって調整官に電話を任せたのだろう。苛立たしげに舌打ちをついた。
『とりあえず来週からですね、十名ほど本殿へと向かいますのでご理解の程よろしくお願い致します』
「……本殿?」
怒気を孕んだ声で聞き返すと、永見は『ええ』と答えた。
『今回の視察は短期ではなく、生活圏を含めた長期なものとなります。現地にて宿泊・常駐のうえ、日常動線も含めた確認を行う方針です』
携帯を握る手に力がこもる。
「……住み込み、ってことですか」
『はい。その認識で問題ありません』
今からでも機構に乗り込みたいが、明日は十六夜家に帰らないといけない。
眉頭を抑えて声を絞り出す。
「それは決定事項なんですか」
『そうですね。全会一致で賛成となりましたので』
─何が全会一致だ。
「また……また連絡します」
『分かりました。失礼致します』
そこで電話は切れた。十六夜家の件だけでも大変なのにさらに厄介事が来た。胃がキリキリと痛む。
─住み込みで視察とかもはや監視だろ。
本来の視察目的は何かは分からない。けれど、小夜を危険に晒すようなことがあればその時まで。
朧は胃薬を口に放り込むと、ベッドに横になった。
枕元で鳴り響くアラームを指先で探り当て、朧は重い瞼を開いた。
止めた画面に表示された時刻は午前七時。しばらく眠れず、眠りにつけたのは三時を過ぎた頃だったか。わずか数時間の浅い眠りでは、昨日の疲労が鉛のように体に居座っている。
朧はひんやりと冷えた床に足を下ろし、その冷気で無理やり思考を動かした。壁に掛かったスーツに袖を通し、鏡の前で身だしなみを整えると台所へ向かう。
胃痛で食欲はなく、薬とともに水を飲み込んだ。小夜の朝食も準備し、支度を終えると、朧は書類仕事に取り掛かる。昨日の神祇の報告書も書かなければならない。重い頭を働かせ、手を動かし続けた。
ふと顔を上げると、時刻は九時半になっていた。そろそろ家を出なければならない。
─起こしに行くか。
立ち上がり、小夜の部屋へと向かう。扉を開けると、彼女は布団の中にうずくまって寝ていた。
「小夜様」
名前を呼ぶと彼女は身動ぎした。
「小夜様、おはようございます」
「ん……おはよ」
布団の中から眠たげな声が聞こえてくる。
「そろそろ俺行きますよ」
「うん……気を付けて行ってらっしゃい」
すぐに寝息が聞こえてきた。朧は思わず微笑むと、部屋を後にした。
荷物を全て持ち、巫殿を出てドアに鍵をかける。向こう側から人影が歩いてくるのが見えた。
「おはようございます、朧さん」
タイトなスーツに身を包んだ三十代くらいの男性が、朧に向けて頭を下げた。
「あぁ、剱持さん。おはようございます。」
剱持は、ニコッと微笑んだ。
朧がいない時は、鎮守人の経験がある剱持が神祇統監機構から派遣されてくる。仕事ができ、自分の留守の間に来てくれる彼のことを、朧はありがたく思っていた。
「小夜様はまだ寝てらっしゃいますか」
「ええ。先程声は掛けたんですけど、寝てしまいました」
「そうですか。小夜様は私にお任せ下さい」
「すみません、よろしくお願いします」
朧は頭を下げると、剣持の横を通った。朧の後ろ姿を無言で見送った剱持は、巫殿のドアを開けると中へ入っていった。
─剱持さんがいるなら大丈夫だな。
鳥居をくぐった朧は、最寄りの駅へと向かう。
特急列車に乗り込むと、窓の景色を眺めた。田んぼと民家が所狭しと並んでおり、遠くの山は霧で霞んでいる。変わらない街並みを眺めていると、ようやく列車が動き出した。みるみる外の景色が流れていく。
─帰ってくるのは明日だな。
しばらくの間役目から解き放たれる安堵と、小夜への申し訳なさで胸が痛んだ。




