5、氷下の火種
「小夜様、小夜様」
腕の中でぐったりとしている小夜を見て、朧は胸が張り裂けそうになりながらも声をかける。数回呼びかけてようやく小夜は目を覚ました。
「……終わったか」
「ええ、お務めご苦労様でした」
辺りはすっかり暗くなり、足元はよく見えない。朧は灯具をつけた。荷物を持って小夜を背負うと、微かに声が聞こえてきた。
「朧……いつもごめんな」
「……いいえ、大丈夫ですよ」
朧の言葉に返事はなく、耳を澄ますと背中からすーすーと規則正しい寝息が聞こえてくる。
「こちら十六夜。今から下山します」
無線で伝えると、『了解』と返ってきた。朧は小夜を背負い直すと、微かな灯を元に霊山を下り始めた。
車に戻ると、見張りをしていた桐生と篠原が安心したように出迎えてくれた。
「何もありませんでしたか?」
「ええ」
手が塞がっていることに気付いて、桐生が車のドアを開けてくれる。前任との対応の違いに朧は胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
助手席に小夜を乗せると、運転席に乗り込む。護衛二人もすぐに車に乗り込んだ。
一時間ほど走ると、雪の降る常世神社へ辿り着いた。
ドアを開けると、冷たい外気が流れ込む。朧は慣れた手つきで小夜を抱き上げ、そのまま背負い直した。
「あっ、十六夜様お疲れ様でした」
朧がすぐに巫殿に向かうのを見て、車から降りた篠原たちが慌てたように挨拶をしに来た。
「ああ、お疲れ様でした。明日は俺いないんですけど、小夜様をお願いします」
「もちろんです!」
覇気がある返事に朧は微笑むと、巫殿へと戻った。
靴を脱がせ、眠ったままの小夜を部屋へ運ぶ。布団に下ろしても、目を覚ます気配はない。
─やはり疲れてるか。
規則正しい寝息を確かめてから、朧はそっと立ち上がった。軽い夜食を作りに台所へと降りる。台所に立った朧は、小夜の大好物であるカレーの支度に取り掛かる。
─静かだな。
本来巫殿には侍女や、護衛が住み込みで働く決まりだが、名乗り出るものがいないらしく、小夜と朧の2人しか住んでいない。巫殿は静まり返っており、トントンと朧が野菜を切る音だけが響く。
そんな中、胸元に入れていた携帯が鳴った。朧は手を洗うと携帯を取り出す。画面に表示されている名前を見て、指が止まった。十六夜貴美子、朧の母からだった。少し逡巡した後、朧は通話ボタンを押す。
「……はい」
『朧、今よろしい?』
携帯の向こうから落ち着いた女性の声が聞こえる。
「ええ、まあ」
『今、月華さんがいらっしゃってるの』
「……」
"月華"という名前を聞いて、朧は息を呑んだ。
『縁談は破談になった訳ではないわ。今春までには決めてほしい』
「……今は任の途中です。それに……破談になったつもりでいました。月華さんもそうお思いなのでは?」
そう言うと、電話の向こう側でため息をつかれた。
『そんな訳ないでしょう。十六夜家にお似合いなのは、あのお嬢さんだけよ。彼女もあなたとの縁談を望んでいる』
一息ついて『朧』と名前を呼ばれた。諭すように言われる。
『あなた鎮圧人辞める気ないの?一年経ったし、辞退すれば代わりの人が来るんでしょう。最初はあんなに渋ってたじゃないの』
「それは……」
事実だったため、朧は何も答えられなかった。
『当主のこともまだ決まっていないし……1週間くらいこっちに滞在できないのかしら?』
「……任がありますので」
電話の向こうでまた大きなため息か聞こえた。
『とりあえず明日、奉納の時に話すから考えておいて。頼りにしてるわよ』
「……」
プツッと切られた。朧はしばらく、暗い画面を見つめたまま動かなかった。母の言葉はいつも命令ではなく、期待。だからこそ逆らえない。
名門、十六夜家。結界師の一族であり、古くより神事を司り、天御影の祭祀を裏から支えてきた由緒正しい家。朧はその嫡男だった。如月月華は分家のお嬢様。十六夜家にとっても申し分ない女性。そして10年前、朧とある約束をした女性だ。
─ごめん、月華さん。
約束のことを思うと、申し訳なさと苦しさで息が詰まりそうだった。
鍋の中でカレーが煮立っている。それを険しい表情で見つめていると、
「朧……?」
いつの間にか小夜が目を覚まし、台所を覗き込んでいた。
「小夜様、起きられたんですね」
「うん、大丈夫か朧」
「……何がです?」
「難しそうな顔してたから。いいか朧。私のことで悩んでいるようだったらやめてい……」
「やめません」
朧はきっぱりと言い放った。
「あなたという方は、何ですぐそんなこと言うんですか」
「朧に苦しんでほしくないんだよ。護衛の方に麓まで送って貰ったら一人で登れるし」
「登れる登れないの問題じゃないんですよ。神祇の後倒れるでしょ。俺がいなかったらどうするんですか」
そう朧が尋ねると、小夜はパチパチと目を瞬いた。
「山頂で一夜過ごせばいいだろ」
やったことがあるような言いぶりに、朧は手を止めた。
「小夜様。まさかやったことが……?」
冗談だろうと思ったが、小夜は当然のように頷いた。霊山は神がかっていることもあり、この世ではないものも潜んでいる。そんな中一人で過ごすなど、考えられない。恐ろしさに背筋に冷たいものが走った。
「何だよ……今日はカレーか。ありがとう」
「小夜様。どのくらいの期間、鎮守人がいなかったんですか」
「いや鎮守人はいたぞ。てかこの話はもういいだろ。ほらすごい煮立ってる」
小夜は朧の手元を指さす。
「朧。もう食べてもいいか?」
皿を手に持った小夜は朧を見つめる。
─ああ。
小夜の瞳を見ると、朧は6年前の鎮守人選任の顔合わせを思い出す。ビー玉が入ったような虚ろの瞳は当時の朧を震撼させた。この少女は一体どんな人生を─。
想像すると嫌な気持ちになり、朧は小夜から目を逸らした。
「朧?もうつぐからな。」
「……ええ」
嬉しそうにカレーをつぐ小夜を見ると、朧はもう何も言えなくなってしまった。
「はい、これ朧のな」
「ありがとうございます」
受け取ると、ダイニングテーブルに置く。小夜も自分の分のカレーを持ってきた。
「よし、食べるか」
二人で手を合わせて口に入れる。途端に小夜は笑顔になった。
「美味しいですか?」
「うん、毎日ありがとうな」
ご機嫌でカレーを食べる小夜を見て、朧は悩んでいることがバカバカしくなってきた。またテーブルに置いていた携帯が鳴るが、朧は無視する。
「朧、携帯鳴ってるけど……?」
「ああ、後でかけ直すので大丈夫です」
「そうなのか……」
数秒後、呼出音は途切れた。朧は携帯を一瞥してから言う。
「小夜様、先シャワー浴びてきてください」
「ううん。まだ食べ終わらないし、朧こそ先浴びてきて」
確かに小夜の分はまだ半分近く残っている。
「じゃあ、すぐ浴びてきますね」
「ゆっくりでいいよ」
朧は最後の一口を食べると、皿を運んで風呂場へと向かった。シャワーの音を聞きながら小夜は最後の一口を放り込む。途端に再度朧の携帯が鳴った。
「……誰だよ」
携帯を裏返して画面を覗き込むと、書かれている名前に小夜は目をひそめた。そこには神祇統監機構とある。
─神祇統監機構……。
確か神祇の運用状況を確認するための組織だった気がする。神祇の確認と言っても直接関わったことはなく、組織が個人に直接連絡してくることは基本的にない。それに報告や連絡があったとしても本殿や上層部経由で行われるはずだ。
─何で統監機構から電話がかかってくるんだ?
呼出音が鳴り止んだ。首を捻っていると、風呂場の扉を開ける音がした。小夜は慌てて画面をひっくり返す。
─神祇統監機構か。
なぜか嫌な予感がした。




