4、神蝕
夕方となり、朧は仮眠をとっている小夜の部屋に入る。
「小夜様、そろそろ起きてください」
「……んー」
「時間ですよ」
「……うん」
「うん、じゃなくて」
朧は布団を剥がした。途端に小夜は悲鳴を上げる。
「寒い!」
「16時ですよ。支度してください」
「行きたくない……」
朧は丸くなる小夜の手を引っ張った。
「ほら、コート羽織ってください。靴下も履いて」
小夜は寝起きがいいとは言えなかった。仕方なくコートを着せ、マフラーを巻いてやる。
「寒くないですか?」
「……うん」
朧は鞄を肩にかけると子供のような小夜の手を引いて、巫殿を出た。外はすでに雪が降っており、所々積もっている。朧は駐車場に向かうと、助手席に小夜を乗せ、シートベルトを閉めた。
「朧様」
後ろから声を掛けられ、朧は振り返る。そこに立っていたのは、二十代後半ほどに見えるスーツ姿の若い男が二人。いかにも場慣れしていない「若手」といった風貌だ。
「中央治安統制局から新しく配属されました。桐生と申します」
「篠原と申します」
「あ、護衛の方ですか。よろしくお願いします」
すぐに人員を回してくれたらしい。そこは素直にありがたいと思った。
若手ゆえの頼りなさはあるものの、その身のこなしにはどこか芯の通った鋭さがある。上層部の嫌がらせではなく、実力のある者を現場に送り込んでくれたのだと分かり、朧の心にわずかな安堵が芽生えた。
運転席に乗り込むと、護衛二人も車に乗り込んだ。朧の車が動くと、続いて出発した。
「今回の護衛の方は、いい人そうだな」
様子を見ていた小夜が呟く。
「そうですね。安心しました」
30分ほど一般道を通り、高速に乗る。
「そういえば明日だったか」
唐突に話を振られ、朧は一瞬言葉に詰まった。ようやく何のことかを理解する。
「あぁ、そうですね。毎月すみません」
「気にするな。というか、朧の本業はそっちだろう。いつだってやめても……」
「やめません」
「少しは考えろよ。こんな生活がずっと続くんだぞ?」
月に一回。朧は十六夜家に帰らなければならなかった。十六夜家は結界を扱う一門だ。神の世と人の世を隔てる“門”を閉じる役目を国から任されている。
半年前、当主だった父が病で亡くなってからは、仮の当主として朧がその役を継いだ。"門"の安定のために毎月奉納に行かなければならず、その日は朧は小夜の側にはいられない。
「お母様にもやめるよう言われてるんじゃないか」
そしてこの話になると、小夜はいつもやめてもいいと話してくる。
「鎮守人なんて一年やり切ったらやめていいんだしさ」
朧は、俯いて表情を暗くする小夜に言った。
「分かってませんね。俺がお側にいたいんですよ」
「そうなのか……」
「ええ。小夜様は俺が鎮守人なのが嫌なんですか?」
「……嫌じゃないよ」
「ならこのままでいいじゃないですか。はい、この話はおしまい」
まだ言いたいことがたくさんあったが、仕方なく小夜は口をつぐんだ。
「それより寝なくて大丈夫なんですか」
高速に乗ってすぐに寝るのがいつものことだった。今日はパッチリと目が開いている。
「さっきいっぱい寝たから大丈夫」
「なら大丈夫そうですね」
何事もなく高速を降り、しばらく走ると車はそのまま霊山の麓へと向かった。車を止めると、後ろに付いていた護衛の車も続けて止まるのが見えた。
外に出ると相変わらず雪が降っており、辺り一面にうっすらと積もっている。助手席から小夜が降りてきた。
「うう、やっぱ冷えるな」
「ええ」
「あ、お前のコートはいらないぞ」
先回りした言葉に、思わず朧は笑ってしまった。
「分かっていますよ」
そう言って、朧は霊山へと視線を向けた。
「では行きましょうか」
「うん」
「あ、あの……!」
いきなり後ろから声がかかった。車の横に桐生と篠原が立っている。
「お気を付けて!」
朧は微笑むと、小夜と歩き出した。
霊山に足を踏み入れると、まだ誰にも踏まれていない雪に跡が残る。
「足元気をつけてくださいね」
「朧もな」
雪を踏みしめながら上へ上へと登っていく。いつものように小夜はバテてしまった。
「うう……しんどい、辛い」
雪が積もっていることもあり、いつもより歩きづらく、足に負担がかかる。小夜は先を歩く朧を羨ましげに見た。
「境内走ったら体力つくかな」
「そんな事しなくていいんですよ」
「朧より長く登ってるはずなのに……」
「だから俺は鍛えてるんです」
「治安統制局で働いてたんだっけ」
少し俯いて「……ええ」と朧は頷いた。
「どんなことしてたんだ?」
「俺がいたのは実働部隊なんでテロ行為等の鎮圧とかですかね」
「夜狗とか?」
「そうですね」
「大変そうだなぁ」
その言葉に朧は微笑んだ。
「まあ、大変でしたけど鍛えられるいい機会でしたし、それに……」
「それに?」
朧はギュッと手を握りしめると、「いえ」と首を振った。
「そうか」
話をしながら登っていく。ようやく中腹まで登ってきた。小夜は、荒い息をつきながら木に手をつく。
「はあ、そろそろ限界……」
「小夜様、俺……」
「大丈夫、上まで自分で行く」
帰りにおぶってもらうのに、行きまで迷惑をかけたくない。小夜は朧の言葉を遮った。
「じゃあ、頑張りましょう。あと少しですよ」
「ん」
頷いて小夜が足を踏み出した時だった。足元が、ずるりと滑った。
「あっ……」
踏みしめた雪が崩れ、そのまま斜面を滑り落ちる。とっさに何かを掴もうとするが、手は空を切った。
「小夜様!」
伸びてきた手が腕を掴んだ。次の瞬間、強い力で引き寄せられる。そのまま二人の体が崩れ、雪の上に倒れ込んだ。
「……っ」
強い衝撃は来なかった。
「小夜様、大丈夫ですか」
すぐ近くで声がした。気付けば、朧が下になっていて、小夜はその上に覆いかぶさる形で止まっている。
「ご、ごめん朧」
慌てて上からのくと、朧は体を起こした。黒のコートが雪で白くなっている。
「お怪我はありませんか」
「あぁ、朧も怪我してないか?」
「ええ」
朧は立ち上がると、小夜の手を引っ張って立ち上がらせる。
「足元気を付けてって言われてたのにごめん。油断してた」
「気にしないでください。歩けそうですか」
「うん、大丈夫」
ここで立ち止まっている暇はない。さっきよりも足元に気をつけながら、重い体に鞭打ってまた上へと登っていく。
歩き続けること30分。ようやく視界が開け、岩肌の露出した頂上に辿り着いた。
「着いた……」
「お疲れ様でした。時間通りですよ。」
振り返れば、朧がすぐ後ろに涼しげな表情で立っていた。
「……あぁ」
息を整えながら、いつものように岩に腰を下ろす。朧がペットボトルに入った水を渡してくれた。
「朧、今、何時だ?」
「17時54分です。まだ時間はありますよ」
「そうか……」
いつの間にか雪は止んでいた。小夜は俯いて手元のペットボトルに視線を落とす。
─もう少ししたらまた……。
それを思うだけで、胸の奥が重くなる。呼吸が浅くなっていることに気づいて、わずかに息を整えた。
「小夜様」
不意に朧が名を呼んだ。
「……何だ」
「間もなく18時です。あの……顔色が優れませんけど、大丈夫ですか?」
一瞬だけ返す言葉にとまどう。心配そうに見つめてくる朧から視線を逸らし、
「大丈夫だ」
少しだけ間を置いてから、そう言った。朧が何か言いかけた気配がしたが、結局何も言わなかった。小夜は天御影の街並みを眺める。
「では小夜様、今日もよろしくお願いします」
「うん」
朧は恭しく神楽鈴を手渡した。小夜は受け取り、いつものように空に向ける。震える右手を、左手で押さえて落ち着かせた。
─いつも通りにやればいい。
息を吸うと、小夜は神楽鈴を一度振った。雨音の中、しゃらんと鈴の音が響き渡り、空気が変わる。
─来た。
異物が侵入してくる、不快な感覚。
「やめて」と叫ぶ間もなく、小夜という器がミシッと悲鳴を上げた。
視界が反転し、次の瞬間にはすべてが唐突な「無」へと変わった。
意識が肉体からぷつりと切り離され、自分ではない「ナニカ」が勝手に小夜を使い始める。
視界の端で、自分の腕が、意志とは無関係に優雅に舞うのが見えた。神楽鈴の音も、跳ねる泥も、すべてが他人事のように遠い。
─また、空っぽになった
自分という空洞を、他者の意志が満たしていく。抗う気力さえ、もう残っていなかった。
神祇の時、いつも小夜は心の中でいけないことを思ってしまう。
今日も小夜は暗い闇に呪詛を叩きつけた。
─神様なんて消えてしまえ、と。




