3、箱庭の平穏
「小夜様、起きてください」
自分を呼ぶ声で小夜はうっすらと目を開けた。カーテンから日光が差し込み、部屋全体を明るくてらしている。
「……うーん」
「朝ですよ。あ、こら」
小夜は布団に潜り込む。布団が暖かいのがいけない。このままだと一日中寝れそうだ。
「後五時間……」
「何言ってるんですか。俺そろそろ行きますよ」
「え……」
小夜は布団から顔を覗かせた。
「どこ行くんだ?」
「ちゃんと言いましたよ。昨晩の件で治安統制局に呼び出されてるんです」
「え、呼び出し?」
確かに昨日言われたようなような気もする。
「何でわざわざ行く必要あるんだよ。電話で話せ、電話で」
朧は呆れた表情を浮かべた。
「俺行きます」
「あ、ちょっと……」
布団から体を離した小夜は、あまりの寒さに悲鳴を上げた。
「寒いよう……」
「今日は家庭教師が来る日でしょう。早く準備しないと来ちゃいますよ」
「うん……」
「すぐ戻ってきますけど、何かあったらすぐ本殿の護衛に言うんですよ」
「うん……」
聞いてるのか。と言いたくなったが、これ以上遅くなってはいけない。朧は「行ってきます」と部屋を後にすると、時間差で「行ってらっしゃい」と眠たげな声が聞こえてきた。
朧は駐車場に向かい、車に乗り込む。昨晩送られてきたメールを思い出すと、ため息をつかずにはいられなかった。ラジオをつけると、エンジンをかけて駐車場から出る。通勤ラッシュに混じり、中央治安統制局へと車を走らせた。
「本部で管理官がお待ちです」
受付で用件を告げると受付嬢はそう答え、すぐ仕事に戻ってしまった。重い体を動かしてエレベーターに乗って本部に向かう。
五階でエレベーターを降りると、そこには静まり返った廊下と、威圧感を放つ黒い扉があった。朧は一度深く息を吸い、硬い音を立ててドアをノックする。
「入れ」
短く、重苦しい声が響いた。
室内には、デスクで端末を操作する眼鏡の男、九條管理官が座っていた。彼は朧が目の前に立っても視線を上げず、キーボードを叩く音だけが室内に響く。
「九條管理官、遅くなりすみません」
「……座れ。と言いたいところだが、君に割く時間はあまりない」
九條はようやく顔を上げると、冷徹な眼差しで朧を射抜いた。手元の資料をパラリと放り出す。
「昨晩の夜狗の件だ。報告書を読んだが……ひどいものだな。現場の統制が全く取れていない。特に、護衛に負傷者が出ているのは大きな失点だ。私の管理責任を問われる身にもなってほしいものだ」
九條はわざとらしく深い溜息をつき、椅子の背にもたれかかった。
「君は判断は速いが、やり方が荒い。もう少し現場の安全……いや、穏便な解決を優先しなさい。君が派手に立ち回るおかげで、こちらの事後処理がどれだけ増えるか分かっているのか?」
「……ですが」
いつも言いなりの朧が口を開くと思わなかったのだろう。九條は眉をひそめた。
「現場の護衛部隊が対応不能だったため、あの判断を執りました。状況に鑑みれば、あれ以外に手はありませんでした。」
「手がなかった、か。君の報告書にはいつもその言葉が出てくるな。まるで自分だけが正解を知っていると言わんばかりだ」
九條は鼻で笑い、デスクを指先でトントンと叩いた。
「現場の護衛が無能だった、そう言いたいのか? それとも、自分の判断ミスを認められないほどプライドが高いのか。どちらにせよ、組織人としてはあまりに幼稚だな」
朧は突きつけられた言葉を素直に受け入れた。ギュッと拳を握りしめる。九條は椅子の背にもたれかかり、値踏みするように朧を見つめた。
「……君も早く鎮守人なんて辞めたらどうだ。身のためを思うなら、災いの近くになどいない方がいい。君が泥をかぶったところで、あのモノが救われるわけでもあるまいに」
九條の言葉に、朧は顔を上げた。
拳を握り込み、静かに、だが拒絶の意思を込めて言い返す。
「……今の言葉、撤回してください」
「何だと?」
「小夜様は災いでもモノでもありません。一人の人間です。管理官といえど、その呼び方は容認できません。撤回を」
九條は鼻で笑い、不機嫌そうに視線を書類に戻した。
「……ふん。情が移りすぎだな。もういい、下がれ」
まだ言い返したいことはあったが、立場を悪くするだけだ。理性がブレーキをかけた。
「失礼しました」
そう言って、頭を下げる。九條はすでに興味を失ったように、再び手元の端末へと視線を戻している。
「次からはもう少しスマートにやってもらいたい。期待しているよ」
投げかけられた白々しい激励を無視して、朧は重いドアを開けて外に出た。
廊下の静寂が耳に痛い。深呼吸を一つして、強張った肩の力を抜こうとしたが、奥歯の奥に苦い後味だけが残った。
一階に降りて、駐車場へと向かう。そんな時、「朧さーん!」と、声が聞こえた。振り向くと、実働部隊の戦闘服を身につけた男性が駆け寄ってきた。
「あぁ、久遠」
彼は朧が実働部隊だった時の部下だった。変わらずに挨拶してくれる。久遠は屈託ない笑顔で浮かべた。
「お久しぶりです。いらっしゃってたんですね」
「まぁな。出動してたのか」
「ええ、大したことありませんでしたけど」
朧は彼の胸に光る、金のバッジを見ながら言う。それは全軍でも数人しか選任を許されない、組織の最高戦力たる“特務適格者”のみに与えられる誉れ高き証明だった。その上、彼は現場指揮権すらも掌握していた。
「あのさ。お前偉くなったんだから、さん付けしなくていいんだよ」
「何言ってるんですか。俺はいつまでも朧さんの部下ですよ」
すると、遠くから久遠の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、俺行かなきゃです。ではまた!」
「あぁ」
久遠の後ろ姿を見送ると、車に乗り込む。ハンドルに腕を置き、ため息をついた。管理官の言葉を思い出すと、また苛立ちが募ってくる。
─朝から気分が悪い。
朧はエンジンをかけると、車を走らせた。
常世神社に戻る頃には昼になっていた。
─家庭教師はもう帰ってしまったか。
石段をのぼり、鳥居をくぐると巫女たちが境内の掃除をしていた。巫女は朧に気付くと、もう一人の手を引っ張った。
「あ、戻るよ」
「え、何?」
「穢れるから」
そして避けるように逃げていく。穢れ扱いなど慣れている朧は、気にせずに巫殿に戻った。中に入ると、香ばしい匂いが漂ってくる。
「ただいま戻りました」
何か作っているのだろうか。キッチンを覗き込むと、小夜がエプロンをつけて立っていた。
「小夜様?」
「あ、朧。お帰り」
「何作ってるんですか」
「見て見て」
朧は手元をのぞき込む。黄色いホットケーキがフライパンに乗っていた。
「ホットケーキですか」
「うん、一緒に食べよう」
「ありがとうございます」
手を洗い、戻ってきた時にはテーブルの上にホットケーキが並べられていた。
「お昼、任せちゃってすみません」
「いいのいいの」
小夜の向かい側に座ると、二人で手を合わせる。
「いただきます」
ホットケーキを口に運ぶ。
「おいしいです」
そう言うと、小夜はニコッと笑った。
「よかった」
「今日もお勉強の方は問題ありませんでした?」
「あ、聞いてよ。宿題いっぱい出されてさ」
朧は小夜の愚痴を聞いてやる。
常世の巫は、神祇以外は外へ出ることを許されていない。それは敵から守るためであり、同時に役目から逃げられないようにするためでもある。
─この年頃は外で遊びたいだろうに。
朧は、巫を閉じ込めるために存在するこの掟が嫌いだった。
「朧、聞いてる?」
「ええ、聞いてますよ」
「朧はどうだった?何か言われた?」
「ええっと……」
口ごもる朧を見て、小夜の眉が下がった。
「怒られたのか……?」
「ええ、まあ。でも大丈夫ですよ」
「ああするしかなかっただろ。上はグチグチうるさいな」
「上は過程よりも表面上の体裁を気にしますからね」
「くだらないな」
小夜が賛同してくれて気持ちが落ち着く。
「それより小夜様、今夜も雪が降るようです。昨日寒がってましたし、もう一着コート着ていきますか?」
すると、小夜は呆れたように笑った。
「私を雪だるまにするつもりか?」
朧は一瞬考えてから、真顔のまま答える。
「……凍えられるよりはいいかと」
「その発想がもう保護者なんだよなぁ」
小夜は笑いながらホットケーキを一口食べる。
─彼女が外の醜さに気付きませんように。
朧は、小夜の笑顔を見ながらそう願った。




