40、遠い春の影
朧が不在の時、小夜は境内を手持ち無沙汰に散歩していた。
境内から見える街並みをぼんやりと眺めていた時、石段を女性が登ってくるのが目に入った。
─誰だろう。
拝殿から見ていると、女性は小夜に気が付いた。お辞儀をされて、慌てて小夜も返す。
女性は上品な着物を着ており、儚げな面持ちをしていた。
「こんにちは」
「あ……こんにちは」
「ここに十六夜朧さんという方はいらっしゃいますか?」
─朧……?
「いるけど……?」
「あの……」
そう言ってから女性は俯いた。
「……いえ、朧さんに渡して貰えませんか?」
一通の手紙が差し出される。
「もう帰ってくると思うけど、会わなくていいのか?」
「……彼が困ると思うので」
女性はそう言って、どこか寂しそうに微笑んだ。
小夜は手紙を受け取る。
「……朧の知り合い?」
「ええ、でも……私が勝手に好きだっただけなんです」
─鎮守人になる前の朧を知っている人。
小夜の胸がざわついた。
彼女の痛切な表情を見て、小夜はなんと返せばいいのか分からず、ただ手紙を見下ろす。
「あなたはここの巫女さんですか?」
「え、あ……まあ」
何故かは分からない。けど、この女性に正体を明かしてはいけないような気がした。
「朧さんはちゃんと任を果たされていますか?」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、小夜は俯いた。
「あぁ……よくやってくれてるよ」
「……そうですか」
ふわりと風が吹いて、女性の髪の毛を揺らした。白梅の香りが鼻をくすぐる。
やはり、朧が戻ってくるまで待つつもりなのだろうか。小夜がそう考えていると、女性は泣きそうな顔になった。
「……鎮守人になること、あんなに嫌がってたのに」
「……え」
心の内が漏れてしまったのだろう。女性も言った瞬間、自分で気付いたように口を噤んだ。
「あ……ごめんなさい」
慌てたように視線を逸らす。
「今のは忘れてください。あなたに言うことじゃなかった……本当にごめんなさい」
そういった声は先程よりもずっと弱々しかった。
「手紙のこと、よろしくお願いします……」
頭を下げると、逃げるように彼女は去っていった。
─鎮守人になることを嫌がっていた、か。
母親だけではなく、彼女までそう言うのなら、本当に昔の朧はそうだったのだろう。
─もしかして彼女は朧の……。
小夜は手紙をぎゅっと握りしめる。
そこには、自分が知らない「自由だった頃の朧」を知る人の、切ない想いが詰まっている。
風が吹き抜け、境内の木々がざわめいた。もうすぐ、朧が帰ってくる時間だった。
* * *
野暮用から戻った朧は、境内に小夜がいることに気付いた。
「小夜様」
拝殿のベンチに座る小夜に声をかける。
「あ……朧おかえり」
「ただいま」
そこで朧は、彼女が白い便箋を手に持っていることに気が付いた。
「その手紙どうしたんですか」
小夜は呆けているのか反応しない。
「小夜様?」
「あ……ごめん。これ朧宛だよ」
「俺ですか?」
朧は受け取ると、便箋を確認する。名前は書かれていなかった。
中を取り出し、差出人の名前を見た途端、朧の目は見開かれた。
─月華さん……。
読み進めるにつれ、朧の端正な横顔から血の気が引いていく。便箋を持つ指先が、微かに震えた。
「……朧?」
小夜は不安気に朧の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫か?」
「あ……すみません」
朧は手紙を閉じた。
「何かあったんだろう。会わなくていいのか?」
朧は明らかに動揺していた。
「いえ……」
「……さっき女性が渡しに来たよ。朧の大切な人なんじゃないのか」
─やっぱりここに来ていたのか……。
手紙を読んで朧の心は揺れていた。
「俺の大切な人は小夜様ですから……」
小夜は唇を噛み締めた。
「……そういうこと、簡単に言うなよ」
悲痛な声で小夜は呟く。
「え……」
「いや……ごめん」
小夜は誤魔化すように笑う。
「お前は、昔からそうやって誰かを守ってきたんだろうな」
「小夜様、あの……」
「さっき来た人、すごく辛そうだった」
「……」
「お前のこと、本当に大切だったんだろう」
─月華さんが……。
小夜は震える指をぎゅっと握った。しばらく沈黙が落ちた後、小夜は優しい声音で朧に語りかけた。
「なぁ、朧」
「……はい」
「お前……鎮守人やめていいよ」
「……は?」
呆けた声が出た。
「いきなり何を言い出すんですか。やめませんよ」
「もう一年余り経った。朧は本当によく任を果たしてくれたよ。朧には他に守るべき人がいるだろう」
小夜は朧に微笑みかけた。
「私はもう大丈夫だから」
朧は「小夜様……」と視線を落とした。
「俺はもうあなたに仕えると決めたんですよ。なぜそのようなこと仰るんですか……」
「もう人の人生を縛り付けるのはこりごりなんだよ……」
今にも泣き出しそうな小夜の声に、朧は息を呑む。
「……私は、お前の人生を奪いたくない」
絞り出すような声だった。朧は眉を寄せる。
「どうしてそうなるんですか」
「だって……」
小夜は唇を噛んだ。
「お前には、お前の人生があっただろ」
「ありますよ。今も」
「違う!」
思わず声が強くなる。小夜ははっとして口元を押さえた。
「……ごめん」
小夜は俯いた。
「私は、穢れだ。ずっとそう言われてきた。そんな私の為に、お前が全部捨てる必要なんか……」
「捨ててません」
今度は朧が遮った。珍しく感情の乗った声だった。
「俺は自分で選んだんです」
「でも鎮守人になるの嫌だったんだろ」
その瞬間、朧の表情が固まる。
「……小夜様」
低い声だった。朧は数秒黙ったあと、苦しそうに息を吐く。
「あなたは、俺があなたの側にいることを後悔してるように見えるんですか」
朧は拳を握り締めた。
─どうして伝わらない。
最初は確かに嫌だった。国からの任命で当然断られるはずもなく、渋々ここに来た。
けれど今は、命令でも義務でもない。
守りたいと思ったから、側にいると決めたのだ。
それなのに小夜は、ずっと自分だけで苦しみ、自分だけで結論を出そうとする。
まるで、朧の想いなど最初から存在しないかのように。
「……俺は」
掠れた声だった。
「あなたを守ることを、後悔したことなんて一度もありません」
「でも私は……」
─何で分かってくれないんだ。
「……どうして勝手に俺の気持ちを決めるんですか!」
抑えていた感情が我慢できなくなった。初めて聞く朧の声音に小夜は体を震わせる。
「俺は自分で選んだんです。あなたの側にいたいと思ったから、ここにいる。なのにあなたは、俺が不幸だったみたいに言う」
「そんなつもりじゃ……」
小夜の瞳から涙が落ちた。
「じゃあ、どういうおつもりなんですか!」
朧自身も、声を荒げたことに気付いたように息を止めた。
境内に沈黙が降りる。朧は顔を伏せた。
「……すみません」
朧は俯いたまま、小夜の横を通り過ぎた。
「少し……一人にしてください」
「……朧」
小夜は震える声で名前を呼ぶ。しかし、彼はもう振り返らなかった。
朧は巫殿に向かって歩く。何かあったのかと、本殿から桐生たちが駆け寄ってきた。
「すみません……小夜様を頼みます」
それだけ言うと、朧は便箋を握りしめて巫殿へと入った。




