38、冬霞
─何も知らないくせに……。
母親と言い合いになり、苛立ったまま巫殿に戻った朧は、小夜の姿が見えないことに気付いた。
「小夜様」
部屋を覗くと、小夜は夕方からの神祇に備えて寝ていた。姿が見えたことに安心すると、朧は部屋を出る。
静まりかえった巫殿の中でソファに腰を下ろすと、先程の記憶が蘇ってきた。
母の言葉が頭から離れない。言い過ぎたことは分かっている。
けれど、自分の気持ちを何も知らないまま、口を出されたことが気に食わなかった。
そう考えていると、不意に身体の奥へ重い疲労が広がった。
「……」
最近、どうにも調子が悪い。眠っても疲れが抜けず、頭がぼんやりすることも増えている。
最初は、任務や十六夜家のことで疲れているだけだと思っていた。 それでも、数日経っても身体の重さは消えない。
朧は無意識に右腕へ視線を落とした。
白い布の下。
そこには、あの日禍に触れられた痕が残っている。
─まさか……。
一瞬、そんな考えが浮かぶ。だが、すぐに首を振った。
あの程度の穢れで、自分が影響を受けるはずがない。
そう思い込むように、朧は視線を逸らす。
今は考えることが多すぎる。
穢れのことまで気にしている余裕はない。
朧は気を紛らわせるように立ち上がり、机へ向かった。
* * *
午後四時。神祇のために、家を出る時間になった。
小夜を起こしに行こうと立ち上がった朧は、ノックをして部屋の扉を開ける。「わっ」と声がして見ると、小夜の体が倒れそうになっていた。
「すみません、小夜様」
「……ありがとう」
慌てて彼女の手首を掴むと、小夜はやんわりと朧の手を拒否した。その反応に、朧は目を見張る。そんな朧に気にする様子もなく、小夜は先に部屋を出ていく。
「朧、行くぞ」
「え……」
朧は戸惑う。
─俺、何かしたか……?
急な拒み。今までこんなことなかった。
「あっ、あの小夜様……」
困惑した朧を、小夜は振り返って見る。
「どうした?」
「……いえ」
しかし、何も聞けるはずもなく。朧は小夜と巫殿を後にした。
* * *
「ちょっと朧さん……」
後ろから冴島が小声で言う。
「あんなに仲良かったのに、一体何があったんですか?」
そう言われて、先々前を歩く小夜を見る。今日の小夜はただ淡々としていた。
普段なら自然に朧へ向けられていた視線が、今日は向けられない。
朧が危険を察して手を伸ばしても、小夜は一歩先に自分で動いてしまう。
朧は困った顔をした。
「俺も分かりませんよ……」
他人から見ても、今日の小夜はおかしい。
朝は普通だったはず。おかしくなったのは神祇の前からだ。
思い返してみても、小夜に何かした記憶はない。くそ、と朧は拳を握りしめた。
「小夜様、待ってください」
足早に歩く小夜の背を追い、朧は駆け寄った。
* * *
「終わりましたね……」
近くで冴島が呟いた。
神祇を終え、小夜の体がふらりと傾く。
「小夜様!」
いつものように慌てて駆け寄る。体を受け止めると、小夜は自力で立ち上がろうとした。
「大丈夫……」
「ですが……」
「今日は……自分で歩いて帰るよ」
「何言って……」
前なら、素直に頼ってくれていた。
体を預けて、少し休めばまた笑ってくれた。
それなのに今は──。
「……小夜様」
呼び止めると、小夜が振り返る。
「……俺は、何かしましたか」
一瞬、小夜の瞳が揺れた。
「何でだ……?」
「……」
朧は何も言えなかった。 何を聞けばいいのかも、何を伝えればいいのかも分からない。
ただ、自分の知らないところで何かを壊してしまった気がした。
小夜は息をついた。
「朧は……朧は何も悪くないよ。ただ……もう少し自分のことは自分でできるようになろうと思ったんだ」
「は……」
言っている意味がよく分からなかった。小夜はフラフラと、先に歩いていってしまう。
「朧さん、行きますよ」
「あ……はい」
冴島たちに急かされ、放心状態で朧は頷いた。小夜の背中を見つめる。
いつもなら、すぐ隣にあったはずの距離。
いつもなら、当たり前のように触れられたはずの温もり。
それが今は、手を伸ばしても届かないもののように感じた。
─何でだ。
─俺は、何を間違えたんだ。
問いかけても、答えは返ってこない。
ただ、小夜の背中だけが少しずつ遠ざかっていった。




