37、冬枯れの花
それから数週間が経った。
意識していたわけではない。
けれど、いつの間にか二人の間には少しだけ距離ができていた。
小夜は、以前なら自然に隣に座っていた。 何かあればすぐに朧を頼っていた。
けれど今は、無意識に一歩引いてしまう。
─これ以上、朧の優しさに甘えてはいけない。
しかし、そう思いながらも完全に離れることなんてできなかった。
* * *
本殿の前を掃除していた小夜は、拝殿近くに立つ、買い物帰りの朧の姿を見つけた。
─あ、朧だ。
声を掛けようと、足を向けた時。
「……母さん」
聞き慣れない声に、小夜は足を止めた。
─朧のお母さん……?
「ここまで来られても困ります」
困ったような、それでも少し疲れたような朧の声。
小夜は反射的に拝殿の影へ隠れた。
「困るって何よ」
女性の声が返ってくる。
「近くに来たから寄っただけじゃない」
「今更何を」
朧の声は静かだった。
「俺が当主を継がないと決めたことは、変わりません。縁を切ったのはそっちでしょう」
─当主を継がない?縁を切った?
朧が結界の奉納のために、月に一回十六夜家に帰っているのは知っていた。しかし、当主に関する話など、何一つ聞いていない。
「あの時はああ言ってしまったけど、考え直して欲しいの。当主の座はあなたしかいないのよ。月華さんとの婚姻もいいの?あんな女性もう現れないわよ」
聞き覚えのない名前に小夜は固まった。
─婚姻……?
その一言だけで、胸がひどくざわついた。
──「守るべきものがあるでしょうに」
──「仕事だからあなたの側にいるだけです」
剱持に言われた言葉が、不意によみがえる。
あの時は否定したかった。けれど今、その言葉が現実味を帯びて胸へ落ちてくる。
朧には帰る場所がある。
家族がいて、当主として生きる未来があった。
その先には、誰かと共に歩む人生まで。
その未来を、自分が奪ってしまったのかもしれない。
「ちゃんと言いましたよね。あの奉納で最後にする。朔に当主を譲るって。俺は最期まで鎮守人として生きていくんです。月華さんとも……ちゃんと話して決めたことです」
小夜は、無意識のうちに手を握りしめていた。
「それに、母さんも見ましたよね。この腕。禍に触れたから周囲から呪いだ、とか言われてるんですよ。そんな噂がある俺がついたら、家紋に泥を塗るも一緒でしょう」
「そんなの関係ないわ。ずっと巫様に縛られることになるのよ?好きなこともできない、好きな人とも結婚できない。それに夜狗の襲撃もあるんでしょう」
その言葉を朧は黙って聞いていた。
「あなたがわざわざ犠牲になる必要はないわ。私はあなたが心配なのよ」
「心配って……」
呆れたような朧の声が聞こえた。
「小さい頃、見捨ててたくせに今はそういうこと言うんですか」
「……それは」
「俺がどれだけ苦しかったか、母さんには分からないでしょう」
「……悪いと思ってる」
「そうですか」
朧が立ち去ろうとする。母は慌てて「朧!」と、声を掛けた。
「あなたどうしてそんなに鎮守人にこだわるの?」
「はい?」
「あんなに……あんなに鎮守人になるの嫌がってたじゃない」
ヒュ、と小夜の喉から乾いた音が聞こえた。
「……何年前の話してるんですか」
「お父さんに初めて反発するくらい嫌がってたでしょ。なのにどうして?情でやってるならやめなさい」
「……情?」
朧の声が一段と低くなった。
「いつも外野にいて何も知らないくせに簡単に言わないでください」
「私はあなたの味方でいたつもりだったのよ!だから一年経ったら鎮守人をやめなさい、ってあれほど……」
「……簡単にやめられる話だとでも思ってるんですか?」
「私が神祇統監機構に取り合うわ」
「は……?」
「上層部に伝えれば辞退できるんでしょ?朧は一年間頑張ったんだもの。認めてくれるはずよ」
その無責任な言葉が朧の心を駆り立てた。
「母さんはいつも事が決まった後に口を挟んできますよね」
「そんな……私は」
「鎮守人やってるのも、父さんがその話を受け入れたからでしょう!母さんたちが反対してくれてたら変わっていたかもしれない!」
悲痛な朧の声が聞こえる。そんな声を小夜は初めて聞いた。小夜の心臓は嫌な音を立てていた。
「任命されてなかったら実働部隊に行くこともなかった。そうしたら橘だってあんなことには……!」
いつも穏やかで、どんな時も冷静だった朧が自分の感情を抑えきれずにいる。胸が締め付けられる。
─聞いてはいけない。
小夜はそっと耳を抑えた。
─これ以上は、聞いてはいけない。
足音を立てないように巫殿に向かって歩き出す。
─朧は鎮守人になるのが嫌だった。
母親の鋭い叫びと、朧の悲痛な声が、呪詛のように脳内でぐるぐると渦巻いている。
脳裏に浮かぶのは、これまでの朧の優しい微笑み、自分を守ってくれた温かい手。その全てが、小夜の心をずたずたに切り裂いていく。
『大丈夫です、小夜様』
あの言葉も、あの笑顔も。
本当は、優しさではなく責任感から生まれたものだったのかもしれない。
そう思った瞬間、小夜の胸が締め付けられた。
─私が、朧の未来を奪ってしまった。
朧には、別の人生があったのかもしれない。 家族と向き合い、自由に生きる未来が。
それなのに、自分がいることで彼は鎮守人として生き続けている。
そんな考えが、頭から離れなかった。
涙が出そうになるのを、唇を噛んで耐える。
朧は情けをかけて優しくしてくれていただけ。 剱持の言葉は、間違っていなかった。
─離れなきゃ。
これ以上、彼を頼ってはいけない。 彼の優しさに甘えてはいけない。
─今日で終わりにしよう。
小夜は、自分の心を殺して大人になることを決めた。
──たとえ、それがどれほど苦しくても。




