36、言の葉散りて
次に朧が目を覚ました時、そこは見慣れた自室だった。障子からは朝の光が差し込んでいる。
身体が妙に重い。
眠ったはずなのに、疲れが抜けていないような感覚がある。体を起こしてぼうっとする頭を働かせる。
確か禍に襲われていたはずだ。さっきのことは夢だったのだろうか、と思ったところ右腕がわずかに痛んだ。見ると、白い布が巻かれている。そこへ襖が開き、朔が姿を現した。
「兄さん、起きたんですか」
「……何が、起こってた」
朔はため息をついた。
「夜中に禍の気配を感じて庭に出たら、兄さんが禍に取り込まれそうになってました。とりあえず俺が祓いましたけど……腕の跡は消えませんでした」
朧は巻かれた右腕の布を外す。
手の甲から肘へ向かって、黒い蔦のような痕が伸びていた。生き物のように絡みつきながら、皮膚の奥へ沈んでいる。
「その腕、他の人が触ると穢れがうつるそうです。それ巻いといて下さいよ」
「……悪いな。助かった」
そう言うと、朔は「あのですね」と呆れたように言う。
「どうせ禍を倒せないなんて、兄さん自身が一番分かってるでしょう」
朧は視線を落とす。
「そんな一生残る傷を負って……俺を呼べばよかったじゃないですか」
「……」
正論だった。何も反論できない。
「どうしていつも兄さんには、誰かを頼るっていう選択肢がないんですか?」
「……悪い」
「謝れって言ってる訳じゃないんですよ。当主の件ももう決断はできましたか?」
そう言われて、朧は俯いた。
当主を継いで、"門"を安定させなければならない。十六夜家を背負わなければならない。
月華との約束も、小夜を守るという誓いも、どちらも投げ出すことはできない。
─どちらかを選べば、どちらかを傷つける。
そう思っていた。けれど──。
─もう大切なものを失いたくない。
朧はゆっくりと目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、いつもと変わらない笑顔を向ける少女の姿だった。
背負うものが増えることの重さを知りながら、それでも手を伸ばしてしまった。
長い間、逃げ続けてきた答えが、ようやく胸の奥に落ちていく。
「朔」
そう呼ぶと、彼は「はい」と返す。
「母さんを呼んでくれ」
その声に、もう迷いはなかった。
* * *
朧が帰ってきたのは、一週間後のことだった。午前中、巫殿で過ごしていた小夜は、扉が開く音にバッと顔を上げた。
「ただいま、小夜様」
疲れた顔をした朧が姿を見せる。
「おかえり、朧」
久しぶりに会う朧が嬉しくて、小夜は笑いかける。朧は小夜を見て、ほっと息をついた。
「留守にしてすみません。何ともなかったですか?」
「うん」
「良かった……お昼ご飯作るので待っててください」
「自分でやるよ。朧は休んできた方がいい」
相当疲れているのだろう。朧は素直に受け入れる。
「すみません、三十分だけ寝てきます」
「もっと寝なさい。お昼ご飯出来たら呼ぶから」
「本当にすみません。何かあったら叩き起してください」
「そんなことしないよ。いいから寝なって」
申し訳なさそうにする朧を自室に追いやると、小夜は冷蔵庫を開ける。
「……何なら作れるかな」
中を見渡しながら、小さく呟く。 料理はまだ得意ではない。それでも、朧には温かいものを食べてほしかった。
小夜はゆっくりと昼食の支度を始めた。
* * *
「朧」
昼ごはんの支度ができ、十二時になると、小夜は扉越しに朧を呼ぶ。
「ご飯できたよ」
しかし、返事は返ってこない。ゆっくりと扉を開けると、朧はベッドでぐっすりと眠っていた。小夜が近くに来ても身動ぎ一つしない。
「朧」
伸ばしかけた手を、途中で止めた。無闇に触ってはいけない。
「朧、ご飯できたよ」
何度目かの呼びかけで、朧はようやく目を覚ました。
「……小夜様」
「おはよう。よく眠れたか?」
「……ええ、すみません」
「大丈、夫……」
朧の右袖からちらりと白いものが見えて、小夜は言葉を止める。
「……小夜様?」
「何でもない、先行ってる」
小夜が炊きたてのご飯と味噌汁、少し形の崩れた卵焼きを机に並べていると、朧がやってきた。
「本当にありがとうございます」
「いいんだ」
二人で座って手を合わせる。いつもの食卓が久しぶりに戻ってきたようだった。
「小夜様、美味しいです」
形の崩れた卵焼きを頬張りながら、朧は言う。
「やっぱ朧みたいに綺麗な形にはならなかった……」
「美味しいから形なんていいんですよ」
「見た目も大事だろ」
「そんなに気にしなくても……コツさえ掴めたら上手く作れますよ」
「うん……」
ふと沈黙が落ちた。
「……なぁ、朧」
「はい」
「その腕どうしたんだ?」
さっき寝室で見えた朧の腕。そこには白い包帯が巻かれていた。
朧は視線を落とすと、シャツの裾を正す。
「……ちょっと色々ありまして」
「色々って……あっちで何かあったんじゃないのか?」
「でも解決したことですから大丈夫ですよ」
その言葉に小夜は胸の奥が痛んだ。
─まただ。
朧はいつもそうやって一人で抱え込もうとする。自分に何も背負わせてくれない。
「そんなに私は頼れない主か?」
「いえ、そんな訳では……。ただ、俺が巻き込みたくないだけなんです」
小夜は口を噤む。
「……そうか」
それだけ返すと、小夜は昼ごはんを食べ始める。
──小夜の胸に枯れ葉がまた一枚、積み重なった。




