34、貴方がくれたもの
二人の出会いから数年が経った。十六夜家によくしてくれる如月家との縁談はすぐに父に認められ、着々と祝儀の準備が進んでいた。
異能は未だに持たず、冷たい目で見られる日々は変わらない。それでも毎日朝早くから夜遅くまで道場で稽古を重ね、朧の剣術と体術は目覚ましい成長を遂げた。
その実力だけは父も認めざるを得ず、以前のように理不尽な暴力を振るわれることは少なくなっていた。
* * *
「また十六夜の勝ちだな」
道場の師範が言い、何人かが朧を睨む。この道場に通い始めてから十数年。朧は負けなしだった。
「……異能ないくせに何威張ってんだよ」
そんな、陰口が聞こえてくる。慣れている朧は気にすることなく、荷物を持って家に帰った。
しっかりとした門を開けると、誰かが中から駆け寄ってくる。
「朧さん、おかえりなさい」
出迎えてくれたのは月華だった。彼女は、嫁入り修行のために一ヶ月前から十六夜家に滞在していた。
「ただいま、月華さん」
「お稽古お疲れ様です。今日も勝ったんですか?」
「ええ、まぁ」
そう言うと、月華ははにかんだ。
「本当に朧さんは強いですね。何連勝するんでしょう」
「まだまだですよ。師範には勝てませんし」
「追いつくのも時間の問題ですよ」
そんな話をしながら廊下を歩く。
「それより月華さん。修行は辛くないですか?母さんはちゃんと教えてくれていますか?」
「大丈夫です。私が学びたくて、ここに滞在させてもらってるんですよ。大奥様も優しく接してくださってありがたいです。あっ、今日の前菜私が作ったんです。お口に合えばいいんですけど……」
「なら良かった……月華さんが作ったものは全部美味いですよ」
そう言うと、月華はいっそう嬉しそうに微笑む。その笑顔を見て朧は胸が痛んだ。
あの約束から年月が経ち、朧は密かにある思いを抱えていた。
─本当に俺で良かったんだろうか……。
綺麗で、優しくて、誰よりも人の痛みに気付ける月華。もっと彼女に似合う人がいたのでは。そう考えるようになってしまった。
「朧さん?どうかしました?」
「……いえ、何でもないです」
「もうご飯できてますから、お部屋に持っていきますね」
「ありがとうございます」
幼い頃の約束から始まった縁談。 けれど、それは彼女が望んだものなのだろうか。考えれば考えるほど、不安になる。
自室で服を着替えていると、襖の向こう側から「朧さん」と、月華の声が聞こえた。急いで服を整えて、「はい」と返事をする。すっと障子が開き、月華が顔を出した。
「夜食を持ってきました」
机の上にお盆を置いてもらう。
「ゆっくり召し上がってくださいね」
「ありがとうございます」
月華は微笑むと、部屋から出ていこうとする。少し逡巡した後、「月華さん」と朧は呼び止めた。彼女は「はい」と振り返る。
「……俺との結婚、本当に良かったんですか?」
突然そう言われて、月華は目を大きくした。
「あの時は俺も小さくて何も考えずに言ってしまったけど……月華さんに似合う人が他にもいるんじゃないかって。俺は、月華さんの幸せを奪っているんじゃな いかって思うんです……」
部屋に沈黙が降りた。月華は黙って朧の前に座る。
「朧さん」
名前を呼ばれて朧は顔を上げた。
「……朧さんは、いつもそうやって自分のことより誰かのことを考えてくれるんですね」
月華は続ける。
「私は、あなたとの結婚を後悔した日なんて一度もありませんよ」
彼女の顔は寂しげだった。
「私はずっと如月家で使用人として過ごしていて、誰も大切に扱ってくれる人なんていなかった。何も持っていなかった私を、初めて一人の人間として見てくれたのが朧さんだったんです」
月華はそう言った。
朧は、その言葉の奥にあるものをまだ知らなかった。
彼女が、幼い頃から屋敷の隅で生きていたことも。
「本妻の子ではない」というだけで、家族として扱われなかったことも。
与えられた部屋は、人が暮らすための場所ではなかった。使われなくなった道具が置かれた、暗く狭い物置。
食事は皆が終わった後。 着るものは誰かのお下がり。
それでも月華は、不満を口にしたことはなかった。
─望んではいけない。 求めてはいけない。
幼い頃から、そう覚えてしまっていたから。
だからこそ、あの日。
血筋でも、立場でもなく。
ただ「月華」として手を差し伸べてくれた朧は、初めて自分を見つけてくれた人だった。
「あの日、あなたが私を救ってくれたんですよ」「……そう、ですか」
─そんなふうに思ってくれていたのか。
嬉しかった。あの日、自分が何気なく伸ばした手を、月華はずっと覚えていてくれたのだ。
「……ありがとうございます」
月華は首を傾げる。
「どうしてお礼を言うんですか?」
「ただ……嬉しかったので」
そう言うと、月華は照れたように優しく笑った。
「お料理冷めてしまいますね。どうぞ召し上がってください」
「……えぇ、頂きます。ありがとうございます」
パタンと、襖が閉まった。
異能がないことで、何度も自分には価値がないと思っていた。
けれど、そんな自分を必要としてくれる人がいる。
その事実が、朧の胸を温かく満たした。
「いただきます」
手を合わせて前菜を口に運ぶ。
「美味い……」
零れた呟きには、深い安堵が混じっていた。なんてことのない日常。けれど、朧にとってそれは何よりも尊いもの。
こんな些細な日々がかけがえのないものになっていくことを、朧はまだ知らなかった。
そして、この一年後。朧の運命は、ひとつの出会いによって静かに動き始める。




