33、花に誓いて
広い屋敷には分家の者たちが集まり、酒を酌み交わしながら談笑している。
その賑わいから離れるように、朧は一人、縁側に腰を下ろして庭の花梨の木をぼんやりと眺めていた。
自分でも、なぜそうしたのかは分からない。ただ、枝先に実る花梨に手を伸ばしてみたくなった。
けれど、幼い朧に木登りのような器用さはなかった。
「わっ.....!」
バランスを崩した朧は、そのまま情けなく地面へと落ちた。そんな朧を見て遠くで嘲笑う、大人の声が聞こえる。朧が俯いて唇を噛み締めた時─
「大丈夫、ですか……?」
鈴のような愛くるしい声が朧の耳に届いた。顔を上げた先にいたのは、一人の小柄な少女だった。長い黒髪に白い肌、春の陽だまりのように柔らかな雰囲気を纏い、不安そうな大きな瞳で朧を見つめている。
「……今の、見た?」
恐る恐る聞く朧に、少女は慌てて首を横に振る。
「い、今来たから見て、ません!」
「良かった……ありがとう」
朧は差し出された少女の手を取って立ち上がる。
「初めて会ったね。君どこの子?」
そう聞くと、恥ずかしがり屋なのだろうか。モジモジとし始めた。
「え、えっと、私は如月月華って言います……」
「俺は十六夜朧。よろしく」
手を差し出すと、彼女は頬を染めて嬉しそうに握ってくれた。
「あの……」
またモジモジとし始める。
「さっきので……ほっぺた、怪我した……?」
「え……?」
朧は咄嗟に頬へ手を当てた。
そこには、昨日父に殴られたの傷があった。途端に、彼女の表情が曇る。
「……変なこと聞いてごめん、なさい」
月華は自分の袖をぎゅっと握りしめた。
「私も……そういう傷、よくあるから」
「え……」
朧は恐る恐る尋ねる。
「……親から殴られてるの?」
彼女は困ったように微笑む。それが本当であることを物語っていた。
「でも、慣れたから、大丈夫。結婚して家を出るまで耐えたらいいだけ」
彼女はそう言って、寂しげに笑う。朧は俯いた。
自分だって、ずっと我慢している。
父に殴られても。祖母に殺されそうになっても。異能がないと馬鹿にされても。
ずっと、耐えるしかないと思っていた。
でも。
「……俺も」
「え?」
朧は顔を上げた。
「俺も、同じだよ」
月華が目を見開く。
「俺も父さんに殴られるし、出来損ないって言われる」
「………」
「だから、月華さんだけじゃないよ」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
ただ、彼女に一人で耐えてほしくなかった。
「一緒に耐えよう」
「……え?」
「俺も頑張るから」
朧は小さな拳を握った。
「いつか、俺たちが大人になったら……」
そこで言葉が止まる。
どうすれば彼女を助けられるのかなんて、分からない。
でも、何か言わなければと思った。
──何もできない自分でも、誰かのためにできることがあるのなら。
「……俺が、迎えに行くよ」
「…………」
「月華さんが家を出る日」
朧は真っ直ぐに彼女を見た。
「俺が迎えに行く」
月華の瞳が揺れる。
「……どうして?」
「どうしてって……」
朧は困ったように眉を下げた。
「だって、月華さんが一人で頑張るのは嫌だから」
その言葉に、月華は目を伏せた。
「でも私……妾の子なんです」
「うん」
「家でも使用人みたいなものだから……」
彼女の声は震えていた。
「だから……こんな私で……本当にいいんですか?」
「うん」
「私あまり家事が得意じゃなくて……器用でもないし……」
「大丈夫だよ」
朧には、本当に分からなかった。
妾の子だから何なのか。家事が苦手だから何なのか。器用じゃないから何なのか。
そんなことは、どうでもよかった。
「俺も出来ないことばっかりだから。だから、一緒にやればいいよ」
「…………」
「二人なら、何とかなるんじゃないかな」
あまりにも無邪気な言葉だった。けれど。月華は、泣きそうになった。
そんなことを言ってくれる人は、今まで誰もいなかったから。
「……本当に?」
「うん」
「本当に、迎えに来てくれますか?」
「もちろん」
朧は迷わず頷いた。
「絶対に迎えに行く。俺が月華さんを守るよ」
「……約束してくれますか?」
「うん」
朧が小指を差し出す。月華は少し驚いたあと、そっと自分の小指を絡めた。
「約束です」
小さな指と指が、固く結ばれる。
白梅の香りが、春の風に乗って二人の間を通り過ぎていった。
その日。
誰にも必要とされていないと思っていた少年は、初めて「この人のそばにいたい」と思える相手に出会った。
そして、誰にも大切にされないと思っていた少女は、初めて「自分を迎えに来てくれる」と信じられる人に出会った。
白梅の香りが風に溶ける。その甘く淡い香りは、幼い朧の胸に、月華の笑顔とともに静かに刻まれた。
二人は照れたように笑い合う。
春の日に交わしたその約束は、白梅の香りとともに、朧の心に咲き続けた。




