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月夜海は、誰が為に想ふ。  作者: 朝霧唯凪
第一章 : 巫、現世に在り
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33、花に誓いて

広い屋敷には分家の者たちが集まり、酒を酌み交わしながら談笑している。

その賑わいから離れるように、朧は一人、縁側に腰を下ろして庭の花梨の木をぼんやりと眺めていた。

自分でも、なぜそうしたのかは分からない。ただ、枝先に実る花梨に手を伸ばしてみたくなった。

けれど、幼い朧に木登りのような器用さはなかった。


「わっ.....!」


バランスを崩した朧は、そのまま情けなく地面へと落ちた。そんな朧を見て遠くで嘲笑う、大人の声が聞こえる。朧が俯いて唇を噛み締めた時─


「大丈夫、ですか……?」

 

鈴のような愛くるしい声が朧の耳に届いた。顔を上げた先にいたのは、一人の小柄な少女だった。長い黒髪に白い肌、春の陽だまりのように柔らかな雰囲気を纏い、不安そうな大きな瞳で朧を見つめている。


「……今の、見た?」


恐る恐る聞く朧に、少女は慌てて首を横に振る。


「い、今来たから見て、ません!」

「良かった……ありがとう」


朧は差し出された少女の手を取って立ち上がる。


「初めて会ったね。君どこの子?」


そう聞くと、恥ずかしがり屋なのだろうか。モジモジとし始めた。


「え、えっと、私は如月月華って言います……」

「俺は十六夜朧。よろしく」


手を差し出すと、彼女は頬を染めて嬉しそうに握ってくれた。


「あの……」


またモジモジとし始める。


「さっきので……ほっぺた、怪我した……?」

「え……?」


朧は咄嗟に頬へ手を当てた。

そこには、昨日父に殴られたの傷があった。途端に、彼女の表情が曇る。


「……変なこと聞いてごめん、なさい」


月華は自分の袖をぎゅっと握りしめた。


「私も……そういう傷、よくあるから」

「え……」


朧は恐る恐る尋ねる。


「……親から殴られてるの?」


彼女は困ったように微笑む。それが本当であることを物語っていた。


「でも、慣れたから、大丈夫。結婚して家を出るまで耐えたらいいだけ」


彼女はそう言って、寂しげに笑う。朧は俯いた。


自分だって、ずっと我慢している。

父に殴られても。祖母に殺されそうになっても。異能がないと馬鹿にされても。


ずっと、耐えるしかないと思っていた。

でも。


「……俺も」

「え?」


朧は顔を上げた。


「俺も、同じだよ」


月華が目を見開く。


「俺も父さんに殴られるし、出来損ないって言われる」

「………」

「だから、月華さんだけじゃないよ」


自分でも、何を言っているのか分からなかった。

ただ、彼女に一人で耐えてほしくなかった。


「一緒に耐えよう」

「……え?」

「俺も頑張るから」


朧は小さな拳を握った。


「いつか、俺たちが大人になったら……」


そこで言葉が止まる。


どうすれば彼女を助けられるのかなんて、分からない。

でも、何か言わなければと思った。


──何もできない自分でも、誰かのためにできることがあるのなら。


「……俺が、迎えに行くよ」

「…………」

「月華さんが家を出る日」


朧は真っ直ぐに彼女を見た。


「俺が迎えに行く」


月華の瞳が揺れる。


「……どうして?」

「どうしてって……」


朧は困ったように眉を下げた。


「だって、月華さんが一人で頑張るのは嫌だから」


その言葉に、月華は目を伏せた。


「でも私……妾の子なんです」

「うん」

「家でも使用人みたいなものだから……」


彼女の声は震えていた。


「だから……こんな私で……本当にいいんですか?」

「うん」

「私あまり家事が得意じゃなくて……器用でもないし……」

「大丈夫だよ」


朧には、本当に分からなかった。


妾の子だから何なのか。家事が苦手だから何なのか。器用じゃないから何なのか。


そんなことは、どうでもよかった。


「俺も出来ないことばっかりだから。だから、一緒にやればいいよ」

「…………」

「二人なら、何とかなるんじゃないかな」


あまりにも無邪気な言葉だった。けれど。月華は、泣きそうになった。

そんなことを言ってくれる人は、今まで誰もいなかったから。


「……本当に?」

「うん」

「本当に、迎えに来てくれますか?」

「もちろん」


朧は迷わず頷いた。


「絶対に迎えに行く。俺が月華さんを守るよ」

「……約束してくれますか?」

「うん」


朧が小指を差し出す。月華は少し驚いたあと、そっと自分の小指を絡めた。


「約束です」


小さな指と指が、固く結ばれる。


白梅の香りが、春の風に乗って二人の間を通り過ぎていった。


その日。

誰にも必要とされていないと思っていた少年は、初めて「この人のそばにいたい」と思える相手に出会った。

そして、誰にも大切にされないと思っていた少女は、初めて「自分を迎えに来てくれる」と信じられる人に出会った。

 

白梅の香りが風に溶ける。その甘く淡い香りは、幼い朧の胸に、月華の笑顔とともに静かに刻まれた。

二人は照れたように笑い合う。


春の日に交わしたその約束は、白梅の香りとともに、朧の心に咲き続けた。

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