31、忘れじの花
次の日、奉納を控えた朧は、邸内社の様子を見るために朝早くから庭へ足を運んでいた。
邸内社をじっと見ていた朧は、ある異変に気が付いた。
─おかしいな……。
邸内社の横にある要石。その向きが逆になっていた。
勝手に向きが変わることなど有り得ない。明らかに人の手が入っている。
朧は直そうとそっと要石に手を置いた。その瞬間、ビチッと赤い紋様が浮かび上がり、手が跳ね返される。
朧は目を見開いた。
「動かない……」
術で固定されている。いたずらではない。誰かが意図的に要石の向きを変えたのだ。
「……何のために」
朧は赤い紋様を睨みつける。
要石が逆向きにされたことで、結界の流れが正常に機能していない。
このままでは、奉納を行っても結界を完全に安定させることはできないだろう。
だが、無理に術を解けば、逆に結界そのものが崩れる可能性がある。
「……厄介なことを」
朧は要石から手を離した。直すには、相応の手順が必要だ。少なくとも、今すぐどうにかできるものではない。
─奉納までに、何とかしなければ……。
朧がため息をついた時、後ろから砂利を踏む音が聞こえた。
「……兄さん?」
朧はバッと振り返る。眠たげな顔をした朔が立っていた。
「庭に人影が見えると思ったら……こんな朝早くから何してるんです?」
「邸内社の様子を見ておこうと」
「何か変なとこでもありました?」
「いや……」
歯切れ悪くなってしまった。朔はその様子を鋭く見据える。細められた双眸が要石へと向けられた。
「要石ですか?」
「あ、おい」
朔は朧の制止も聞かずに、ズンズンと要石に近付く。ジッと要石を見つめた後、彼は肩を竦めた。
「いやぁ、いつも見てないから分からないですね」
「……そうだろうな」
「何だろう。向きが逆とかですか?」
朔が好奇心からか、要石にそっと手を伸ばした。その直後、同じようにバチッと激しい火花が散り、彼の手が弾かれる。
朔は痛がるどころか「……なるほど」と不敵な笑みを浮かべた。
「術がかけられてますね。何で言ってくれなかったんです?」
「……騒ぎにしたくなかったんだ」
「騒ぎにしたくなかったって……心当たりはあります?」
そう問われて朧は口を噤む。
「まぁ、うちをよく思ってない人ですよね。分家の方とか」
「……朔」
「事実でしょう。あいつらならやりかねない」
余程のことがあったのだろう。朔はチッと舌打ちをついた。いつもは見せないその態度に驚きつつも、朧は返す。
「まだ決まったわけじゃないだろう」
「それ以外に俺は思いつきませんけどね」
「……」
朧とて同じ疑念を抱いていたからこそ、強く否定することはできなかった。
「それにしても、こんなことするなんていい度胸してますね」
「……なんとかなりそうか?」
「……時間はかかりますけど」
「助かる」
朔ははぁ、とため息をついた。
「このまま奉納したらどんな影響があるか分からない。俺がなんとかするんで奉納延期させてください」
「分かった、頼む」
朔はすぐに要石の修復に取り掛かり始める。朧は己の無力さを胸に、その場を後にした。
* * *
その日の夜。一日を終えて朧は床につく。
やはりすぐには修復は難しいらしく、いつ終わるか目処がつかない。と朔が愚痴を零していた。
─何も起こらないといいんだが。
朔は異能に優れている。
大丈夫、きっとなんとかしてくれるだろう。そう自分に言い聞かせた朧は目をつぶった。
* * *
時刻は二時を回った頃。ふと、朧は目を覚ました。
邸内社の方から、何かが聞こえた気がした。
ズリ……
気のせいではない。確かに、どこからか嫌な音が聞こえてくる。
アァ……
─何だこの声は……?
オイデ……コッチニオイデ。
頭の芯を揺さぶるような歪んだ囁きが聞こえた瞬間、バッと朧は起き上がった。冷気が肌を刺すが、気にする暇はない。
─もしかして。
急いで上着を羽織ると、庭へと出る。
「やっぱり……」
庭の隅にある邸内社の足元から、闇そのものがドロドロと溢れ出し、おぞましい黒い影となって地を這っていた。
異形のモノが、ねっとりとした呻き声を上げながら現世へと這い出ようと身をよじっている。
─要石のせいか……。
『アァ……』
今から奉納して間に合うだろうか。要石の影響が奉納にどう及ぶかは分からない。しかし、今は一刻を争う事態。すぐに結界で"門"を封じなければならない。
朧が清水を取りに戻ろうと踵を返したその瞬間、黒い影─禍が朧に気付いた。口らしきものがニタァと裂ける。
─しまった。
朧の体が強ばったその一瞬で、黒い影が地を這うように伸び、朧の右腕を掴んだ。
「……っ!?」
腕を掴まれた瞬間、全身が八つ裂きにされるような激痛が走った。ミシミシと腕の骨が軋むような音が響く。
「くそっ……」
腕を掴む影を振りほどこうとするが、反対に影は朧の腕に絡みついていく。
『オイデェ…ココハクルシイヨ…』
脳内に直接響くような、甘ったるくもおぞましい声。
必死に抵抗するものの、対抗出来る力を朧は持っていない。ズリ、ズリと段々と邸内社の方へ引きずられていく。
─このままでは常世に連れていかれてしまう。
ふわりと、黒い影が朧の体を包み込んだ。あまりにも濃い瘴気に目眩がする。
耳元で『ダイジョウブ』と囁かれた。
『ツライキオク、ケシテ、アゲルヨ…』
─やめろ……。
視界が霞がかってくる。
─小夜様……。
神社で穏やかに笑う小夜の姿が浮かぶ。
だが、その笑顔はゆっくりと霞み、別の少女の面影へと重なっていく。
長い黒髪。どこか寂しげな瞳。困ったように微笑む少女。
そして、堰を切ったように溢れ出す記憶。
意識は、そのまま遠い過去へと沈んでいった。




