24、神降ろしの哭
そうして平穏で幸せな日々が過ぎていった。
「小夜様」
近くで声がして、小夜は目を覚ました。荷物を持った朧が立っている。朧は眠たそうな小夜の顔を見て微笑む。
「俺、そろそろ行きますね」
「……あぁ、そっか」
今日は月に一回、朧が十六夜家に帰る日だった。
「今日の神祇ご一緒できず、すみません」
「いいよ。私こそごめんな。こんな役目に巻き込んで」
その言葉を聞いて、朧は眉を下げた。
「またそんな事言って……」
「そんな事じゃないよ……」
寝起きの掠れた声で、小夜は言う。
「お前の将来も決める大事なことだろ。鎮守人を続けたらずっとここにいなきゃいけないんだぞ。命の危険だってあるし、結婚だってできない」
「それは承知の上です……。小夜様、俺は……」
朧は言いかけて、何かを堪えるようにして口を噤んだ。
「なんだよ」
「……とにかく、今の生活に不満なんか感じていません。鎮守人はやめませんよ」
小夜に口を挟まれないように、朧は早口で言う。
「明日の朝帰ってきますから、ちゃんと剱持さんと神祇行くんですよ。じゃあ、行ってきます」
「あ……行ってらっしゃい」
パタン、と部屋の扉が閉められた。玄関から引き戸を閉める音が聞こえ、部屋に静寂が訪れる。
─怒らせちゃったかな。
小夜は天井を見つめて、ぼーっとしていたが、再度聞こえた引き戸を開ける音に慌てて起き上がった。
─来た……。
ベッドから下りると、部屋から出る。ちょうど男が歩いてくる所だった。
「……お、おはようございます」
剱持は、小夜の挨拶を無視して居間へと向かう。
─朝ご飯食べなきゃ……。
小夜は剱持の後に続いた。
小夜が居間に向かうと、剱持は書類仕事をしていた。息苦しい空気の中、小夜は朝食をとる。
「食べ終わったら外でも行ってきたらどうですか?」
こちらを一切見ずに、剱持が言う。声音には感情が乗っていない。だからこそ、小夜と同じ空間に一秒たりともいたくないという強固な拒絶が透けて見えた。
「……はい」
小夜は残りの朝ご飯を食べ終わると、外へと向かった。
* * *
昼までは外で時間を潰し、夕方仮眠すると、すぐに神祇の時間はやってくる。
乱暴にドアを開ける音で、小夜は仮眠から目を覚ました。不愉快そうな表情をした剱持が立っている。
「時間ですよ」
「……今行きます」
重い体をあげると、小夜は剱持と共に巫殿を後にした。待機している護衛陣に挨拶もなく、剱持は先に車に乗る。
「今日もよろしくな」
小夜が頭を下げると、剱持の態度に戸惑っていた護衛陣もぺこりと頭を下げてくれた。
小夜は助手席に乗り込む。すぐに車は動き出した。
重い空気の中、一同は霊山に到着する。小夜は自分で車から下りた。護衛陣が後ろにつくと、何も言わないまま剱持は歩き出す。小夜たちはその後についていった。
─きつい……。
何週間か経った今でも、小夜は険しい迂回ルートを歩かなければならない。ゴツゴツとした岩肌、容赦ない傾斜に、小夜の息はすぐに上がっていく。
しかし、それを気にする様子もなく、剱持は平地を歩くかのように軽々と登っていく。その背中は、小夜を突き放すようにどんどん遠ざかる。
「巫様、大丈夫ですか……?」
冴島が小声で尋ねてくる。
─ここで弱音を見せてはいけない。
小夜は無理やり微笑んで見せた。
中腹になると、より傾斜がきつくなっていく。しかし、剱持の速さは落ちることはない。
「……十六夜さんも災難ですよね」
突然、剱持が冷たく呟いた。小夜はその言葉にパッと顔を上げる。
「……え?」
「彼にも守るべきものがあるでしょうに」
─守るべき、もの……。
小夜は心の中で反芻する。
家族か、それとも大切な人か。
─もしかしたら朧には、相手がいるのかもしれない。
「随分仲良くされているようですが、勘違いしない方がいいですよ」
剱持は決してこちらを見ようとはしない。
「あの人は仕事だからあなたの側にいるだけです。仕事でなければ、あなたに関わろうとはしないでしょう」
─そんなこと、分かってる……。
朧の優しさが嘘に思えてしまうような、呪いのような言葉が小夜の胸を深く抉る。
剱持はそれ以上何も喋らなかった。ズンズンと、ひたすらに登っていく。
小夜が必死に追いつこうと足を踏み込んだ時だ。ずり、と足が滑った。
─まずい……っ。
バランスを崩し、小夜の体は地面に叩きつけられる。
「巫様!」
慌てて冴島たちが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
「う、うん……」
声を掛けてくれたものの、やはり"穢れ"と呼ばれる小夜に触れることへの躊躇いがあるのだろうか。手を貸そうとはしなかった。
自力で立ち上がろうとした小夜は、頭上から突き刺さる、凍てつくような視線に気づいた。
顔を上げた小夜は、冷たく見下ろす剱持と目が合った。
その表情には、怒りすら浮かんでいない。ただ、ひたすらに「無」だった。まるで、道端に転がる泥切れか、不潔なゴミでも見るかのような、徹底的な侮蔑と冷徹さがそこにはあった。
「何やってるんですか」
「す、すみません……」
小夜が震える声で謝罪の言葉を口にしても、剱持は眉一つ動かさない。彼はため息すらつかず、ただ冷ややかに吐き捨てた。
「早く立ってもらえます?」
慌てて立ち上がろうとする小夜の膝は、疲労でガクガクと震えている。
そんな小夜を置いていくように、剱持は一言もかけることなく、すぐに背を向けて歩き出した。その足取りは容赦なく速く、転んだ小夜を気遣う素振りなど微塵もない。
「巫様、無理をなさらずに……」
小夜は血の滲む手を地面につき、這い上がるようにして立ち上がった。
冴島が痛ましそうな声を掛けてくれるが、小夜の心はすでに、剱持が放った絶対的な拒絶の寒さに凍りついていた。
* * *
無事頂上につくと、小夜は必死に息を整える。小夜に触れたくないと言わんばかりに、神楽鈴が入った荷物が小夜の足元に置かれた。
自分で神楽鈴を取り出し、冷たい持ち手を握る。
─大丈夫、すぐ終わる。
震える手を押さえ、小夜は神楽鈴を空へと向けた。深呼吸をすると、神楽鈴を一度鳴らす。
─来た。
一瞬で、心臓が凍りつくような異物が小夜の体内に侵入してくる。「やめて」という叫びが喉の奥で押し潰され、視界がぐにゃりと反転した。
小夜の意志を完全に無視して、その体は勝手に、恐ろしくも美しい神がかりの舞を踊り始める。自分の肉体が、自分のものではない何かに擦り切れるまで酷使されている─その恐怖の中で、小夜の意識は深い闇へと沈んでいった。
* * *
次に目が覚めた時、小夜は冷たい地面に倒れていた。受け止めてくれる人はやはりおらず、全身が痛い。
そんな小夜を剱持は黙って見下ろしていた。
─眠っちゃだめ……。
そう思うものの、神力を使い果たした小夜の体は限界だった。小夜の意識が薄れていく。
視界の端で、誰かの靴がゆっくりと近づいてくる。
剱持だった。
倒れた小夜を見下ろしたまま、しばらく何も言わない。その沈黙が、息苦しいほど重く流れる。
─朧……。
心の中で、一番呼びたい名前を呼ぶ。けれど、脳裏に過るのは剱持の「あの人は仕事だからいるだけ」という冷酷な言葉だった。助けてくれる人なんて、もうこの世界には誰もいないのかもしれない。
視界が完全に真っ暗になるその刹那。
上空から降ってきたのは、氷のように冷たい男の呟きだった。
「……人殺しが」
──少女の心に、また一つヒビが入った。




