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月夜海は、誰が為に想ふ。  作者: 朝霧唯凪
第一章 : 巫、現世に在り
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25、常世の綻び

"……人殺しが"


その言葉にハッと小夜は目を覚ました。自分の部屋の天井が目に入る。早朝に霊山から下りてきたばかりで、体にはまだ疲労が残っていた。


─人殺し……?


誰が言った言葉だろう。


─私に向けられた言葉なのか……?


胸の奥だけがざわつき、理由も分からないまま息苦しさだけが残っている。

人殺し─その言葉だけが、心の底へ重く沈んでいく。

小夜には過去の記憶がない。だからこそ、その考えを振り払うことができなかった。


─もし、あの言葉が私に向けられたものだったら。

─もし、私が何かを忘れているだけだとしたら。


記憶がない以上、何も否定できない。 だからこそ、怖かった。


─何で覚えていないんだろう。


考えても仕方のないことだ。小夜は息をつくと、時計を確認する。

時間は九時過ぎ。朧が帰ってきている時間だ。部屋を出ようとした小夜だったが、足を止めた。

彼は仕事だから側にいるだけ、という剱持の声が蘇る。


─いつも通りに……。


そう自分に言い聞かせると、小夜は部屋を出た。

朧は居間でコーヒーを飲みながら書類仕事をしていた。小夜の足音に気づくと、彼はすぐに顔を上げて柔らかな微笑みを浮かべる。


「小夜様、おはようございます」

「おはよう……」

「昨日の神祇は何もなかったですか?」

「……うん、何もなかった」


少し変な間が空いてしまった。途端に、朧が心配げな顔になる。


「お、朧こそ何ともなかったか?」

「ええ、俺は特に。……小夜様、何かあったでしょう」


変化に敏感な朧。こういう時に困る。


「本当に何もないんだよ……。大丈夫」


そう言われると、朧もこれ以上踏み込めなかった。


「なら良かったです。朝ご飯準備しますね」

「ありがとう」


小夜はお礼を言うと、それ以上何も言わずに椅子に座った。


─何かおかしいよな……。


朝ご飯の支度をしながら、朧は小夜の様子をチラリと見る。昨日の朝までは普通だったはずだ。しかし、剱持の報告では変わったところは見られない。

小夜はこちらを見ようとはせず、ぼうっと外を眺めている。


「小夜様、できましたよ」


パンを皿にのせ、小夜に手渡す。小夜の手のひらを見た朧は、目を細めた。


「その怪我どうしたんですか?」

「えっ」


途端に、小夜は慌てたように手のひらを隠した。


「あぁ、これは昨日こけちゃって……」

「こけた?」


小夜はコクンと頷く。


─報告には上がっていなかったはずだが。


「あ、パンありがとな。いただきます」


余程聞かれたくないのか、小夜は朧の手から皿を受け取ると、黙って口に入れ始めた。


─やっぱり昨日何かあったのか……。


幸い、今日はこれから神祇統監機構へ書類を提出しに行く用事がある。その際、機構にいるはずの剱持に直接確かめればいい──朧はそう心に決め、逸る気持ちを抑えた。


* * *

「小夜様、神祇統監機構に用があるので出掛けてきますね」

「うん」


出かける支度を済ませ、もぐもぐとパンを咀嚼している小夜に声を掛けると朧は巫殿を出た。本殿にいる研修隊員に留守を頼み、車に乗る。エンジンをかけると、車は走り出した。


神祇統監機構に到着し、事務室での用件を済ませた朧は、そのまま受付へと足を向ける。


「すみません、今日は剱持さんはいらっしゃいますか?」

「剱持ですね、しばらくお待ちください」


受付嬢はしばらくパソコンをいじると、顔を上げた。


「先程戻っていますよ。執務室にいると思います」


朧はお礼を言うと、エレベーターで七階の執務室に向かう。ちょうどエレベーターのドアが開いたところを剱持が通りかかった。


「あ、剱持さん」


慌てて呼びかけると、剱持は振り向いた。その顔には、いつも通りの人当たりの良い笑みが浮かんでいる。

 

「これは十六夜さん、どうされました?」

「突然すみません。昨日の神祇で確認したいことがありまして」


朧の言葉に、剱持の笑みがほんの一瞬だけ薄くなる。


「……そうですか。こちらへ」


応接室へ案内された。「どうぞ、座ってください」と剱持に言われ、朧はソファに腰を下ろす。


「それで、昨日の神祇のことでしたよね」

「ええ、昨日小夜様が転倒した件なんですが、報告に上がっていませんでしたよね?」


剱持は目を瞬かせると、「あぁ」と声を漏らした。申し訳なさそうに、朧に向かって頭を下げる。


「それは失礼いたしました。私が軽い転倒として済ませてしまったもので」


普段から小夜の護衛を引き受けてもらっている身として、彼を責めるような空気にはしたくなかった。


「こちらこそすみません。いつも小夜様に付き添っていただいているのに細かいことを」

「いえいえ、気になさらないでください」


剱持の相変わらずの丁寧な応対に、朧も波風を立てるつもりは毛頭なかった。


─いつも小夜様を守ってくれて、本当にありがたいと思っている。……だが。


朧は笑顔を崩さないまま、目の前の男の瞳を見る。

剱持は今日も笑みを崩さず、その穏やかな表情の奥だけはどうしても読み切れない。

その底知れなさを、朧は少し警戒していた。


「ですが、些細なことでも俺に報告していただけると、ありがたいです」

「ええ、以後気を付けます」


剱持が微笑みながらそう言い、話は一段落したと思われた。しかし、朧は「それから……」と続ける。


「今朝から小夜様の様子が変なんです。他に変わったことはありませんでしたか?」

「様子が変、ですか?」

「ええ、誰かに何か言われたりとか。そういうのはありませんでした?」


剱持は、「私の見ている範囲では」と頷く。朧は「そうですか」と返した。


「なら良かったです。すみません、変なことを聞いて」

「いえ、小夜様のことをよく考えていらっしゃるのだなと。頭が下がる思いです」


そこで会話が途切れ、応接室に冷たい沈黙が落ちた。窓から差し込む陽光が、剱持の顔の半分を深い影で覆っている。

彼が何を考えているのか、その表情からは一切窺い知れない。

剱持は再度口を開く。「ただ……」と言葉を区切った。朧の顔をじっと見つめる。


「今の彼女しか知らないのなら、十六夜さんは幸せ者ですね」


朧は眉をひそめた。

お互いに良好な関係を保っていたはずの空気に、ふっと奇妙な違和感が混ざる。


「それはどういう……」


朧が問い返そうとした瞬間、剱持は何事もなかったかのように立ち上がった。


「すみません、仕事に戻らせていただきますね。先に失礼いたします」


いつも通りに礼儀正しく、しかし核心には決して触れさせないまま、剱持は部屋を出て行く。

残された朧は、閉じられた扉を見つめる。


─やっぱりあの男の考えていることは、分からない。


朧の胸には、小さな違和感だけが残っていた。

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