23、心の在処
「ひっ!」
始まって数十分、暗闇から聞こえた呻き声に小夜が体を震わせた。
─まだそんな怖くないシーンだが……。
そう言ったら何か言われそうで、朧は口を噤む。
映画の内容は、大学生が古い洋館に迷い込む在り来りな設定。けれど演出は容赦なかった。
BGMのない静寂のなか、夜に「ズリズリ」と何かが這う音が響き、それに引きずられるように一人ずつ姿を消していく。
最初は余裕そうだった小夜も、その生々しい恐怖に少しずつ身体を強張らせていった。
「今何か動いたよな!」
「動いてませんよ」
「ぎゃ!」
小夜の肩がビクリと跳ねた。朧はその様子を見て目を瞬かせる。
─ホラー苦手なのか……?
一人、また一人と無残に犠牲者が出始め、物語は終盤へと差し掛かる。不気味なほどリアルな血の滴る音と、逃げ惑う叫び声が部屋に響く。
『みんなどこ行ったの……?』
画面の中で、生き残った主人公が恐る恐る背後を振り返る。懐中電灯の光が、何もない暗闇を照らし出した。
何もいない。そう思った、次の瞬間。
ドンッ!!
突然、背後から影が現れた。
「うわっ!!」
小夜が反射的に朧の腕を掴んだ。部屋にきゃあああ!と、主人公の悲鳴が響き渡る。
「……小夜様」
朧はギュッと掴まれた腕を見て呆れた。
「小夜様の方が怖がりですよね」
「……今のはびっくりしただけだ」
言い訳をする小夜だったが、その後も画面の向こうで大きな音が響くたびに、びくりと肩を跳ねさせて朧の背中に隠れた。
結局、映画が終わる頃には、小夜は朧の身体の陰からほとんど顔を出していなかった。
画面にエンドロールが流れ始めると、小夜はわざとらしくパッと離れて胸を張る。
「あ、終わった。わー面白かったな」
棒読みで言う小夜を朧はジロリと見る。
「最後、俺の体に隠れて見てなかったでしょ」
「そうだったか?」
「ちゃんと内容理解できました?」
「まあ……てか朧怖がりって言ってただろ!何で怖がらないんだよ!」
─怖がりとは言ってないんだけどな……。
何故か怒られてしまった。
「いや、作り物と考えると怖くなかったというか」
「はあ?」
「それに小夜様の反応を見る方が楽しかったのが本音ですね」
「……朧のいじわる」
小夜は何も言えずに膨れた。そんな小夜の様子に朧が小さく笑うと、ふと部屋の置き時計のカチコチという音が耳に届く。
「それより、もうこんな時間ですよ。遅いですから、片付けて寝ますよ」
時計の針は十二時前を指していた。
「あ、ほんとだ……」
小さくあくびをする小夜を見て、朧が手際よくプレーヤーからディスクを取り出し、部屋の片付けを始める。
小夜は寝る支度をすると、すぐに自分のベッドに潜り込む。ドッと疲れが襲ってきた。
「小夜様、おやすみなさい」
「おやすみ、朧」
パチン、と部屋の電気が消されて部屋が真っ暗になる。
─楽しかったなぁ。
朧が部屋のドアを閉めると、小夜は枕に顔を埋めてニンマリと笑う。胸の奥に残る温かい余韻に包まれながら、小夜は目をつぶった。
──それから、一時間ほどが経った頃。
明日の支度をすべて終え、朧がようやく自分のベッドに入ろうとした時だった。部屋のドアがコンコン、と控えめにノックされる。この時間に小夜が起きているはずはない。朧は一瞬、警戒して身構えた。
「……朧」
しかし、聞こえてきたのは小夜の声だった。ホッと息をつくと、朧はドアを開ける。
「どうされました?」
なぜか枕を抱えた小夜が立っていた。急に差し込む光に目を細めている。
「寝れない……」
その言葉に朧は呆れた。
「だから言ったじゃないですか、寝る前に見るもんじゃないって」
「ホラー映画を見るのは寝る前って決まってるだろ」
「……決まってません」
「一緒に寝ていい?」
「……は」
一瞬何を言われたか理解できず、朧は固まる。相手は年頃の少女。
─これ色々まずくないか……?
「……俺が寝るまで横にいますから、それで良いでしょ」
「じゃあ、私が寝不足になって神祇に影響出てもいいんだな」
そんな風に神祇を引き合いに出してまで一緒に寝たがる小夜に、朧はため息をつく。どうやら小夜には、こちらを異性として意識している気配など微塵もないらしい。本当に、ただ単に暗闇が怖いだけなのだ。
─どうしてそこまで無防備でいられるのか……。
これ以上押し問答を続けても小夜が冷えるだけだと察し、朧は諦めてドアを開け放した。
「分かりました。けど、俺は床で寝ますからね」
「主をベッドに寝かせて自分は床とか、従者失格だぞ。ちゃんとベッドで寝なさい」
「……不条理すぎませんか」
言いたい放題の小夜は、さっさと朧のベッドへと潜り込んでいく。残された朧は、自分の寝床を見つめながら内心で激しい葛藤を繰り広げた。
「朧、寝ないのか?」
布団から顔だけを覗かせた小夜が、不思議そうにこちらを見上げている。その純粋な瞳に、朧の硬い決意が音を立てて崩れ去った。
─もう、どうとでもなれ。
「寝ます。狭いので、夜中に潰されても文句を言わないでくださいよ」
「私は壁と同化して寝るから大丈夫だ」
どこか投げやりになりながら、朧はベッドの端へ滑り込む。すると、隣からふにゃりと小夜が嬉しそうに笑った。
「えへ、あったかい」
「そりゃ俺も人間ですからね」
朧はそう返すと、小夜に背を向けて目をつぶる。
「小夜様、おやすみなさい」
「おやすみ、朧」
暗闇の中、時計の秒針の音だけが響く。少しした後「……朧」と声がした。
「……起きてるか?」
「……起きてます」
「……」
また少しして小夜が身動ぎした。
「……朧」
「起きてますよ」
「……生きてるか?」
「生きてます。俺の生存確認するのやめてもらえますか。早く寝なさい」
「……お前、ちょっと体でかくないか……」
ベッドの半分を取ってるのに文句を言う小夜に、朧は呆れた。
「……文句があるなら床に行きますが」
「ダメだ、動くな。壁が動くと布団がずれて寒い」
「俺は壁じゃありません。ほら、喋ってないで早く寝る」
「……朧」
「寝なさい」
早く寝てくれという願いを込めて、朧が少し強めに布団を引き込むと、後ろから「あ、ずるい」と小さな声がした。
数分後、話しかけてくる小夜に無言を決め込むと、ようやく寝息が聞こえてきた。
─やっと寝てくれた……。
さっきまで騒いでいたのが嘘みたいに、小夜は穏やかに眠っている。
─楽しかったな……。
雨の日に映画を見て、鍋を囲んで、くだらないことで笑う。そんな大切で愛おしい日々がいつの間にか自分を動かす一番の理由になっていることに、気付く。
─何だ……。
突然、少しだけ胸の奥がざわついた。
命を削って神祇を行う彼女を支えること、その身にこれ以上の傷がつきませんようにと願うこと。自分のすべてを賭けてでも、この平穏を守りたいという強すぎるほどの想い。
これを、ただの「忠義」と呼んでいいのだろうか。いや、と朧はその感情ごと、静かに飲み込んだ。
─余計なことは考えなくていい。
「……おやすみなさい、小夜様」
この先どんなことが待っていようとも、この騒がしくも愛おしい、大切な日常だけは守り抜こう。そう静かに心に誓いながら、朧はそっと目を閉じた。




