21、さくらの夢路
麓に息を切らせて駆け込んできた朧の、尋常ではない様子に桐生たちは眉をひそめた。
「どうされました?」
「すみません、小夜様が体調を崩してしまって」
「小夜様が?すぐに戻りましょう!」
篠原が車のドアを開けてくれ、朧は小夜を助手席に乗せる。すぐに全員が車に乗り込み、発車した。
朧は運転しながら、チラリと小夜を見る。顔は火照り、苦しそうに呼吸している。身体に負担がかかる神祇で、体調が余計に悪化したのだろう。
早く戻ることだけを考えて、朧はハンドルを握りしめた。
何事もなく常世神社にたどり着くと、朧はすぐに小夜を抱える。
「お疲れ様でした!」
車から降りた護衛陣に頭を下げると、駆け足で巫殿に向かう。巫殿に入ると、小夜の部屋に行き、ベッドに寝かせた。
取り出してきた冷却シートを貼ってやると、かすかに表情が和らぐ。
「ふぅ……」
ようやく朧は息をついた。まだ安心は出来ないが、今できることはやった。
─今日はうどんにするか。
朧はもう一度小夜の容態を確認すると、足音を忍ばせて部屋を出た。
* * *
─ごめんなさい。
どこか遠くで声がする。
─ごめんなさい。ごめんなさい。
誰かが泣いている。
誰、と小夜は顔を上げる。目に飛び込んできたのは暗闇に咲く綺麗なさくらの木だった。花びらを舞い散らせ、淡く光っている。
─上手くできなくてごめんなさい。
何だろう、この感覚は。
小夜がそっと足を一歩踏み出した瞬間、耳元でパチャリと澄んだ水の音が響いた。下に視線を移すと、足元には鏡のような水面がどこまでも広がっている。
奇妙な光景に戸惑いながらも、小夜が吸い寄せられるようにさくらの木へ歩みを進めようとした、その時。
─まだ来ちゃダメだよ。
遮るように響いたのは、どこか幼く、切ない拒絶の声だった。
この声は何…?
小夜が辺りを見渡した、その時─。
─ごめんなさい。もうやめて……!
悲鳴に似た泣き声が響き渡り、パリンと何かが壊れる音が聞こえた。
──よく頑張ったね。
その声が落ちた瞬間、世界がふっと歪んだ。さくらの木がふわり、と揺れる。
さっきまで淡く光っていた花びらが、一斉に色を失っていく。
水面に映っていたはずの景色も、輪郭を失っていった。
……え。
小夜は息を呑む。
足元の水が、ゆっくりと濁っていく。まるで何かが沈んでいくように。
待って…
声は届かない。
さっきまで聞こえていた泣き声は、もうどこにもない。
代わりに残ったのは、静かすぎる“空白”だけだった。
──今までありがとう。
その言葉だけが、妙に優しく響く。優しいのに─。
どうしてこんなに胸が痛いのか。
あなたは……誰?
問いかけた瞬間、水面に小さな波紋が広がった。
そして——ぱき、と。
今度ははっきりと、何かが割れる音がした。視界の端で、さくらの木にひびが入る。ひび割れは一瞬で広がり、世界そのものを裂いていく。
やめて……!
叫んだ声は、自分のものなのに、自分のものじゃないみたいだった。
全てが割れていく。壊れていく。
──もう誰かを想わなくていいんだよ。
──想ったって、また失うだけだから。
“誰かの記憶”ごと、剥がれ落ちていくように。
──怖かったね。
"誰か"が優しく囁いた。
──あぁ、大丈夫。もう何も怖くないよ。
* * *
「はっ……」
小夜は目を覚ました。頬が涙で濡れており、全身じんわりと嫌な汗をかいている。
自分のベッドで寝ていることが分かり、ホッと息をついた。
─何で泣いてるんだ……?
小夜は涙で濡れた頬を拭う。
何か不思議で怖い夢を見ていた気がするが、思い出そうとしても霧がかかったようで、はっきりとは思い出せない。ただ、相当怖かったのか手が小さく震えていた。
─落ち着け、ただの夢だ。
自分の手を押さえ込んで震えを止め、小夜はふと額に触れた。ひんやりとした冷却シートが貼られている。
─熱出てたのか。
神祇中にしんどかったのはそのせいか。と息をつくと、小夜は体を起こした。
棚に置かれている時計を確認する。ずっと寝ていたのだろう。時計の針は零時過ぎを回っていた。まだ身体のだるさは残るものの、歩けないほどではない。
ベッドから降り、静かに部屋のドアを開ける。廊下の向こうの居間には明かりがついていた
「朧……?」
小声で名前を呼んでみるが、返事はない。居間に顔を覗かせると、朧は机に突っ伏したまま、規則正しい寝息を立てていた。手元には、うす高く積まれた書類。恐らく書類仕事をしている間に寝落ちしてしまったのだろう。
いつも隙のない従者の、滅多に見られない無防備な姿に、小夜はクスリと笑う。
起こさないようにそっと毛布を掛けてやろうと近づいたが、人の気配を察した朧がゆっくり身体を起こした。まだ眠気の残る目で、驚いたように小夜を見上げる。
「……小夜様」
「悪い、起こした」
「いえ……すみません。寝てしまってて」
眠そうな目で言う朧に、小夜はつい笑ってしまった。
「いいよ、朧も疲れてるんだから……」
朧の疲弊した顔を見ると、自分の役目に巻き込んでしまっていることが申し訳なくなる。
「それより小夜様、体調は大丈夫ですか?」
「あぁ、まだ身体は重いけど、しんどさはましになったよ。ありがとな」
「いえ、良かったです……」
朧はホッと息をつくが、心配そうに小夜の顔をじっと見つめた。
「な、なんだ」
「……泣いてたんですか?」
「え……?」
「目が腫れてます。何かあったんじゃないんですか」
この優しい従者は、いつもすぐに異変に気付いてくれる。しかし、その濁りのない優しさが、たまに怖くなる時がある。自分のせいで彼をこの場所に、この過酷な役目に縛りつけてしまっているという、強い罪悪感が胸を突くのだ。
小夜はそんな心のざわつきを隠すように、笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ。夢を見てだけだから」
「夢……」
「それより何か食べるものはあるか?」
小夜は、話題を変える。これ以上夢の話をしたらより不安になりそうだった。
朧は一瞬だけ心配そうに小夜を見つめたが、それ以上は言及せず「ありますよ」と静かに立ち上がった。
「うどんでいいですか?」
「うん」
「すぐ作りますから」
「ありがとう」
台所から、カチカチとコンロの点火する音が聞こえ、それからしばらくして、お湯の沸く音とともに出汁の優しい香りが室内に満ち始める。
居間の椅子に深く腰掛け、小夜はぼんやりと朧の姿を眺めていた。
鍋の様子を見つめる朧が、ふとこちらを見てぽつりと言った。
「明日も雨みたいですね」
「明日は、映画借りてきてくれるんだろ」
朧が呆れたように言う。
「体調が良かったらですよ」
「……もう良くなったよ」
「嘘つかないでください……」
小夜は不満気に口を膨らませた。
「あんなに体熱かったんですよ。俺がどれだけ心配したか」
「……心配かけて悪かったな」
朧は息をつくと、湯気の立つどんぶりをそっと差し出した。
「どうぞ」
「……ありがと」
小夜は受け取って、ふう、と一度息を吹きかける。 だしの匂いがふわりと広がって、さっきまで胸に残っていたざわつきが少しだけ薄れていった。
「あちっ」
顔をしかめる小夜を見て、朧は水を渡してくれた。
「出来たてなんだから、気を付けてください」
「うう、ありがとう」
小夜は必死に冷ましてうどんをすする。
「うまい」
「ただのうどんですよ」
小夜の言葉に、朧は苦笑した。
窓の外では、雨が静かに降り始めている。
夢のことは、もう思い出せない。 でも今は、そのままでいい気がした。




