15、神にあらず(後編)
「御影隊長……」
思わずこぼれた声と共に、朧の肩から不自然な力が抜けていった。
「もう隊長呼びはやめてくれ」
男はそう言って微かに微笑んだ。
最後に会ったのは三年前。それ以来、一度も言葉を交わすことはなかった。
朧が見上げたその男は、朧が自然と見上げるほどに背が高かった。無駄のないスッとした立ち姿は、それだけで目を引くような華がある。どこか涼しげで知的な顔立ちは、整っていて、大人らしい落ち着いた雰囲気を纏っていた。
「久しぶりだな、朧」
四年前。全てが瓦礫と炎に消えたあの日。地獄を共に生き延び、三年前、壊れかけていた自分に「命令」という名の救いを与えてくれた人。
その声を聞いた瞬間、黒瀬に向けられていたどろどろとした怒りが、跡形もなくしぼんでいくのを朧は感じた。
朧は息をつく。
「ええ、本当に……」
「お前ちょっと老けたか」
そう言われて、朧は何とも言えない表情になる。確かに同年代の人よりは老けている自覚はある。だが、他人に言われるのは別だ。
不服げな朧を見て、御影はくくっと肩を揺らした。
「冗談だ。あ、荷物持つよ。巫殿まで送る」
「ありがとうございます」
荷物を受け渡して石段を登り始めた。
実働部隊にいた頃、多くのことを教えてくれたのが御影だった。今の朧があるのは、間違いなく彼のおかげと言っていい。
だが、再会の喜びと同時に、朧の胸には「あの日」の記憶が蘇っていた。
「それにしても、お前が元気そうで良かったよ。小夜様のおかげか?」
「……ええ」
朧は頷くと、御影を見上げた。
「隊長は……御影さんは、まだ実働部隊に?」
咄嗟に言い直すと、御影は不意を突かれたように瞬きをし、それから可笑しそうに肩を揺らした。
「やっぱいいよ、無理に直さなくて。お前に『さん』付けで呼ばれるのは、どうも気恥ずしい」
冗談めかしてそう言うと、彼は石段の先を見据えるように視線を上げた。表情が少し切なくなる。
「前線はキツかったかな。後遺症が残ってるんだ。今は指揮の方に回ってる」
顔が暗くなる朧を見て、御影は優しく声をかけた。
「大丈夫だ。日常生活には問題はない。ただ前線で無茶はもうできないってだけだ。……あの地獄から生き残れたんだ、これくらいは安いもんだろう」
「……そうですか」
朧が言葉を落とすと、御影は石段を一段踏み上がった。
「まぁ、前線には出られないだけだ。勘は鈍ってないよ」
さらりとした口調だったが、その言葉には根拠があるのだと分かる落ち着きがあった。
御影は実働部隊時代、いくつものテロ行為、特殊事案を単独で処理してきた。
真正面から戦えば勝てる相手ではない、と誰もが認めるタイプの人間だった。
「今は黒瀬さんの護衛として派遣されてきたけど、小夜様とお前の護衛でもある。今でも現場に出れば、無茶する部下を止めるくらいはできるさ」
軽く笑うその横顔には、戦えなくなった人間特有の翳りはほとんどない。むしろ、前よりも周囲を見る目だけが鋭くなっているようだった。
「……心強いです」
「けど、あんま期待するなよ。小夜様を近くで守ってやれるのはお前だけなんだから」
「はい」
石段を登り切り、本殿を通り過ぎると遠くに巫殿の灯りが見えてきた。背中の小夜がもぞりと動いた。
「あ、小夜様。起きましたか」
「うん……あれ」
小夜は横に立っている男性を見て目を瞬かせた。御影は視線に気がついて微笑みかける。
「小夜様、お初にお目にかかります。御影と申します」
「この方が実働部隊の時の俺の上司です」
「あぁ、朧の」
急に嬉しそうになる小夜に、朧は慌てた。
「小夜様、変なこと聞かないでくださいよ」
「変なことなんか聞かないよ。御影さん、実働部隊の時の朧のエピソードなんかないか?」
「あ、こら!」
御影は、かつては「実働の怪物」と騒がれていた部下が、今や一人の少女に振り回され、必死に彼女を守ろうとしている姿を眺めた。その光景は、あの日々を知る彼にとって、何物にも代えがたい救いのように映る。
「そうですね……」
御影はわざとらしく顎に手を当て、朧を横目で見やった。その瞳には、懐かしさと、少しの寂しさが混ざり合っている。
「当時の朧は、同期たちととにかく無茶ばかりしていました。作戦を無視して突っ込むのは日常茶飯事。おかげで私は、上の人間に頭を下げるのが日課のようなものでしたよ」
「えっ、朧が!?」
驚く小夜の横で、朧はいたたまれなさに顔を伏せた。
「……もう、その話はやめてください」
─「やっぱ俺の相棒はお前しかいねぇから」
耳の奥で、懐かしい声が鮮明に蘇る。競うように無茶をして、任務が終われば御影にこっぴどく絞られた、あの熱に浮かされたような日々。
「ははっ、また今度たっぷりとお教えしますよ。彼らがどれだけ私の胃を痛めてくれたか」
御影が慈しむように言うと、小夜は「楽しみだな」と満足げに笑った。
「隊長まで……」
朧はがっくりと肩を落とし、溜息をついた。だが、その溜息は重苦しいものではなく、胸の奥に澱んでいた熱を逃がすような、穏やかな響きを含んでいた。
巫殿に着くと、御影が荷物を手渡してくれた。
「朧、また今度時間ある時にゆっくり話そう」
「ええ、ここまでありがとうございます」
「小夜様もまた」
「うん」
去っていく御影の背中を見送る。その足取りはどこまでも静かで、かつて多くの修羅場を越えてきた男の矜持を感じさせた。だが、その背中が闇に溶けて見えなくなるまで、朧は微動だにせず、ただ一点を見つめ続けていた。
「……朧?」
小夜の控えめな声に、朧は弾かれたように肩を震わせた。
「あ……すみません、ぼうっとしてしまって。入りましょう」
取り繕うように笑うが、その瞳の奥にはまだ消えない影が揺れている。
二人は巫殿に入った。静かさが余計に感じられる。
「ご飯作るので部屋でお休みになっててください」
「ソファでいいよ」
「あそこ寝心地悪くないですか……?」
「いいの」
朧は苦笑すると、ソファに小夜を下ろす。
「出来たら起こしますね」
「うん」
小夜は横になると、目をつぶった。毛布をかけてやり、キッチンに立つと火をつけた鍋を見つめながら、ふと先ほどの黒瀬の言葉を思い出した。
─神、か。
小さく息を吐く。その言葉はいつだって、彼女から自由を奪い、血の通った一人の人間であることを忘れさせる。
誰がそう呼ぼうと、自分だけは同調しない。
朧はそう心に決めて包丁を動かし続けた。




