14、神にあらず
心配していた結界への影響もなく、一同は山の中に足を踏み入れた。
いつものように頂上を目指して足を進めていく。心なしか小夜の顔が強ばっているような気がする。
「小夜様」
朧は耳打ちした。
「顔色優れませんけど、大丈夫ですか」
「どうかされましたか?」
その様子を見ていた黒瀬が割り込んでくる。朧は笑顔を貼り付けたまま、黒瀬を振り返った。
「いえ、小夜様の顔色が優れなかったので」
「おや、まだ登山の序盤ですが大丈夫そうですか」
心配して言ってくれてるのだろうが、嫌味に聞こえて朧は軽く顔を顰めてしまった。朧を見て小夜は微笑みかける。
「朧、大丈夫だ」
「ならいいですけど……」
朧は小さく息を吐くと、黒瀬の視線から外すように小夜の近くに寄った。
山道は徐々に傾斜を増していく。
朧が振り返ると、護衛陣に比べ黒瀬の息は明らかに乱れていた。
「……少し休憩するか?」
見かねた小夜が黒瀬に声を掛けた。黒瀬は「え……?」と顔を上げる。
「小夜様、それは……」
視察といって勝手についてきたのはあっち側だ。気にかける必要はない。
「朧、五分くらいなら休憩できるよな」
そう言われて端末を確認する。
「ええ、まあ……」
歯切れ悪く言うが、小夜は「よし」と頷いた。
「五分だけ休憩しよう」
「いえいえありがたいんですけれども、気にせず登ってください」
慌てて黒瀬が言うが、小夜は近くの大きな石の上に腰を下ろした。
「私も疲れたから休もう」
小夜の優しさで、休憩を取ることにした。朧は小夜の側に立って水を手渡す。
「小夜様、ついてきたのはあちら側なんですから気にかける必要はないんですよ」
小声で言うと、小夜は水を一口含んで一息ついた。
「私もよく休憩しながら登ってたから、気持ちが分かるんだ。朧だって一年前は私に休憩ばっか勧めてきただろ」
「いやそうですけど……」
─それは小夜様だから……。
そう言っても上手く返されてしまうだろう。渋々朧は口を噤んだ。小夜はそんな朧をちらりと見上げる。
「……何だよ、その顔」
「いえ、別に」
「納得してないだろ」
図星を突かれ、朧はわずかに視線を逸らした。
「……あなたは優しすぎるんですよ」
「優しいのは朧の方だろ。登ってる最中ずっと黒瀬さんのこと気に掛けてた。私はそれを見てああ言ったんだよ」
気にかけてはいないものの、道中気にしていたのは事実だ。
「……敵わないな」
つい漏れ出た本音に、小夜はふっと笑みをこぼした。
きっちり五分の休憩を終え、登山を再開した。傾斜をどんどん登り、次第に道が開けてくる。
「後少しだよ」
小夜が声を掛け、一同はようやく頂上に辿り着いた。休憩を挟んだため、息を整える時間はない。朧は荷物の中からすぐに神楽鈴を取り出した。それを見て、岩の上に座り込んでいた黒瀬が目を丸くする。
「もう執り行うのですか」
「ええ、時間ですので」
「朧、やるよ」
小夜は水を一口だけ飲むと、神楽鈴を受け取った。慌てたように、黒瀬たち視察部隊が紙とペンを取り出す。
そして、いつものように神祇が始まった。小夜はゆっくりとした動きで神楽鈴を空に向けて一度だけ鳴らす。しゃらんと辺りに鈴の音が響き渡り、空気が変わった。
─ああ、今日も始まった。
糸が切れた人形のように、ふわりと小夜の体が傾く。それを見つめる朧の瞳に「その時」が映った。
瞬きをした次の瞬間には、彼女の背は先ほどまでの少女のものではない。神気すら感じさせる凛とした佇まいに、場は凍りついた。
「掛けまくも畏き天つ神に白す─」
“彼の者“が彼女の唇を使って囁いた。声がほんの僅かに重なって聞こえる。声も身体も、もう小夜のものではない。"彼の者"は、神楽鈴を持って舞い始める。
山頂で鈴が鳴った。天御影の街明かりの向こうに、小さな光の粒が灯り始める。
導かれるように集まった魂たちは、夜空へと昇っていった。
黒瀬たちは言葉を失い、その光景を見つめている。朧もまた、何度見ても慣れることのない光景を目に焼き付けた。
「常世の国へ、いざ還れ─」
祝詞と共に天へ伸びゆく光の帯が、夜空を浸食していく。青白い光の列が、溶けるように天へと還っていった。
「……」
神祇が終わった。今見たものが信じられずに、誰もがまだ空を見上げたまま。黒瀬も記録どころでなかった。
「小夜様!」
その中で朧だけが小夜に駆け寄った。倒れ込む小夜を受け止める。小夜はうっすらと目を開けた。
「お務めご苦労様です。無事に終わりましたよ」
「……そうか」
ホッとしたように笑うと、小夜は目を閉じた。朧は小夜を抱え込む。そんな中、気付けば黒瀬が後ろに立っていた。
「神祇の後は気絶してしまうんですか」
小夜の顔をマジマジと見つめる。朧は眉をひそめて小夜を抱えて立ち上がった。
「あまりジロジロ見ないでいただけますか」
「失礼。突然気を失ったものですから驚きまして。神祇の副作用ですかね」
「ええ」
朧は小夜をおぶって荷物を前に抱える。支度の早さに黒瀬は驚いた。
「もう下山するんですか」
「神祇は終えたので」
朧は灯具をつけ、足元に気をつけながらも颯爽と山を下っていく。黒瀬たちも荷物を背負うと、慌てて後を追った。
* * *
「小夜様、着きましたよ」
「……うん」
何事もなく、常世神社に着いた朧は、助手席から小夜を抱える。続けて止まった車から続々と視察部隊が降りてきた。黒瀬がにこやかな笑顔を浮かべて近付いてくる。
「いやいや見事な神祇でしたね。まさに神というか。人の技とは思えない。毎日あのような光景を見られるなんて鎮守人の特権ですね」
─何が神だ。
小夜の苦労を傍で見続けてきた朧にとって、彼女を人外の存在のように扱うその言葉は、看過できるものではなかった。
「……特権なんかじゃありませんよ」
─毎日の神祇がどれほどしんどいものが知らないくせに。
「彼女が何を削り、何に耐えてあそこに立っているか。それを間近で見続けることが特権だというのなら、俺と黒瀬さんとでは随分と認識が違うようです」
淡々とした口調ながら、その瞳には凍てつくような冷ややかさが宿っている。
「彼女は神などではない。……ただ、必死に務めを果たそうとしているだけの人です。神扱いはやめていただきたい」
朧が言い返すと思わなかったのだろう。黒瀬は目を瞬かせた。そして、プッと吹き出す。
「何が面白いんですか」
もはや苛立ちを隠さずに朧は言った。黒瀬は「失礼」と居住まいを正した。
「巫様を大切に想われているんですね。前任とは違うようだ」
「は?」
「ですが、あまり情を入れすぎてはいけませんよ。いざという時に判断を謝ってしまいますから」
そう言うと、黒瀬は石段を登っていった。数人がその後に続く。
─偉そうに言いやがって……。
黒瀬の後ろ姿を睨みつける朧の胸のうちは、煮えくり返るような不快感で満ちていた。小夜を「道具」か何かのように扱う物言いが、どうしても許せなかった。
指先に力が入り、小夜を支える腕がわずかに震える。そこで、誰かが後ろに立っていることに気が付いた。朧がその男に目を移すと、相手も静かにこちらを見た。




