12、神にあらず
心配していた結界への影響もなく、一同は山の中に足を踏み入れた。
いつものように頂上を目指して足を進めていく。心なしか小夜の顔が強ばっているような気がする。
「小夜様」
朧は耳打ちした。
「顔色優れませんけど、大丈夫ですか」
「どうかされましたか?」
その様子を見ていた黒瀬が割り込んでくる。朧は笑顔を貼り付けたまま、黒瀬を振り返った。
「いえ、小夜様の顔色が優れなかったので」
「おや、まだ登山の序盤ですが大丈夫そうですか」
心配して言ってくれてるのだろうが、嫌味に聞こえて朧は軽く顔を顰めてしまった。朧を見て小夜は微笑みかける。
「朧、大丈夫だ」
「ならいいですけど……」
朧は小さく息を吐くと、黒瀬の視線から外すように小夜の近くに寄った。
山道は徐々に傾斜を増し、体力を奪っていく。朧はチラリと後ろを見た。鍛えている護衛陣はまだしも、いつも屋内にいる黒瀬にはキツイようだ。荒い息を上げながら足を踏み出している。
「……少し休憩するか?」
見かねた小夜が黒瀬に声を掛けた。黒瀬は「え……?」と顔を上げる。
「小夜様、それは……」
視察といって勝手についてきたのはあっち側だ。気にかける必要はない。
「朧、五分くらいなら休憩できるよな」
そう言われて端末を確認する。
「ええ、まあ……」
歯切れ悪く言うが、小夜は「よし」と頷いた。
「五分だけ休憩しよう」
「いえいえありがたいんですけれども、気にせず登ってください」
慌てて黒瀬が言うが、小夜は近くの大きな石の上に腰を下ろした。
「私も疲れたから休もう」
小夜の優しさで、休憩を取ることにした。朧は小夜の側に立って水を手渡す。
「小夜様、ついてきたのはあちら側なんですから気にかける必要はないんですよ」
小声で言うと、小夜は水を一口含んで一息ついた。
「私もよく休憩しながら登ってたから、気持ちが分かるんだ。朧だって一年前は私に休憩ばっか勧めてきただろ」
「いやそうですけど……」
─それは小夜様だから……。
そう言っても上手く返されてしまうだろう。渋々朧は口を噤んだ。小夜はそんな朧をちらりと見上げる。
「……何だよ、その顔」
「いえ、別に」
「納得してないだろ」
図星を突かれ、朧はわずかに視線を逸らした。
「……あなたは優しすぎるんですよ」
「優しいのは朧の方だろ。登ってる最中ずっと黒瀬さんのこと気に掛けてた。私はそれを見てああ言ったんだよ」
気にかけてはいないものの、道中気にしていたのは事実だ。
「……敵わないな」
つい漏れ出た本音に、小夜はふっと笑みをこぼした。
きっちり五分の休憩を終え、登山を再開した。傾斜をどんどん登り、次第に道が開けてくる。
「後少しだよ」
小夜が声を掛け、一同はようやく頂上に辿り着いた。休憩を挟んだため、息を整える時間はない。朧は荷物の中からすぐに神楽鈴を取り出した。それを見て、岩の上に座り込んでいた黒瀬が目を丸くする。
「もう執り行うのですか」
「ええ、時間ですので」
「朧、やるよ」
小夜は水を一口だけ飲むと、神楽鈴を受け取った。慌てたように、黒瀬たち視察部隊が紙とペンを取り出す。
そして、いつものように神祇が始まった。小夜はゆっくりとした動きで神楽鈴を空に向けて一度だけ鳴らす。しゃらんと辺りに鈴の音が響き渡り、空気が変わった。
─ああ、今日も始まった。
糸が切れた人形のように、ふわりと小夜の体が傾く。それを見つめる朧の瞳に「その時」が映った。瞬きをした次の瞬間には、彼女の背は先ほどまでの少女のものではない。神気すら感じさせる凛とした佇まいに、場は凍りついた。
静寂を破るのは、黒瀬が走らせるペンの音だけだ。視察部隊の面々は、その変貌の目撃者となったことに、ただただ言葉を失い吐息を漏らした。
「掛けまくも畏き天つ神に白す─」
“彼の者“が彼女の唇を使って囁いた。声がほんの僅かに重なって聞こえる。声は、身体は、もう小夜のものでは無い。"彼の者"は、神楽鈴を持って舞い始める。
─現し世の縁を解きて天つ風
─迷える御霊をここに集わん
─罪も穢れも悉く祓い浄めて
─常世の国へ安らけく送り奉らん
山頂で鈴が鳴った。天御影の街明かりが滲み、その向こう側に小さな光の粒が灯り始める。導かれるように街を抜け出した魂たちが、重力から解き放たれたようにふわりと浮き上がり、ゆるやかな弧を描いて山頂を目指していった。
幻想的な光景に視察部隊がざわめく。黒瀬も無意識にペンを動かす手を止め、呆然とその光景を見つめていた。彼らと共に、朧もその光景を目に焼きつける。
─小夜様……。
小夜の印が風を抱いて優雅に舞うたび、震える空気に呼応して、魂たちはひときわ強く、鮮やかに色づいた。それはまるで光の乱舞のよう。幾重にも重なり合う輝きは、柔らかな帳となって山頂を包み込んでいった。
「常世の国へ、いざ還れ─」
祝詞と共に天へ伸びゆく光の帯は、静かなる意志を持って夜空を浸食していく。山頂を起点とした青白い光の列が、溶けるように天へと還っていった。
小夜を中心に光と影が交錯し、一帯は異界へと姿を変える。深い藍に染まった夜の帳の中で、街の灯と魂の光が混ざり合い、この世ならぬ美しさが静かに、けれど圧倒的に広がっていた。
「……」
神祇が終わった。今見たものが信じられずに、誰もがまだ空を見上げたまま。黒瀬も記録どころでなかった。
「小夜様!」
その中で朧だけが小夜に駆け寄った。倒れ込む小夜を受け止める。小夜はうっすらと目を開けた。
「お務めご苦労様です。無事に終わりましたよ」
「……そうか」
ホッとしたように笑うと、小夜は目を閉じた。朧は小夜を抱え込む。そんな中、気付けば黒瀬が後ろに立っていた。
「神祇の後は気絶してしまうんですか」
小夜の顔をマジマジと見つめる。朧は眉をひそめて小夜を抱えて立ち上がった。
「あまりジロジロ見ないでいただけますか」
「失礼。突然気を失ったものですから驚きまして。神祇の副作用ですかね」
「ええ」
朧は小夜をおぶって荷物を前に抱える。支度の早さに黒瀬は驚いた。
「もう下山するんですか」
「神祇は終えたので」
短く答えると、朧は小夜を抱えて先に降り始める。今は疲弊した小夜を早く休ませる必要があった。灯具をつけると足元に気をつけながらも颯爽と降りていく。黒瀬たちも荷物を背負うと、慌てて後を追った。
麓にたどり着くと、いつものように桐生たちが待っていた。
「お疲れ様です」
朧が車の鍵を開けると、すぐに助手席の扉を開けてくれた。お礼を言って小夜を乗せる。黒瀬たちも乗り込み、朧は発車させた。
高速に乗り、朧は無言で車を走らせる。追い越し車線を流れる景色が、小夜の横顔をまたたく間に通り過ぎていく。窓の外を流れる光に照らされた彼女の横顔は、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
─一刻も早く、小夜様を休ませなくては。
朧は心の中でそう呟くと、アクセルを踏む足にわずかな力を込めた。
やがて高速を降り、車は何事もなく常世神社にたどり着いた。
「小夜様、着きましたよ」
「……うん」
助手席から小夜を抱える。続けて止まった車から続々と視察部隊が降りてきた。黒瀬がにこやかな笑顔を浮かべて近付いてくる。
「いやいや見事な神祇でしたね。まさに神というか。人の技とは思えない。毎日あのような光景を見られるなんて鎮守人の特権ですね」
─何が神だ。
小夜の心身を削る苦労を傍で見続けてきた朧にとって、彼女を人外の存在のように扱うその言葉は、看過できるものではなかった。
「……特権なんかじゃありませんよ」
─毎日の神祇がどれほどしんどいものが知らないくせに。
「彼女が何を削り、何に耐えてあそこに立っているか。それを間近で見続けることが特権だというのなら、俺と黒瀬さんとでは随分と認識が違うようです」
淡々とした口調ながら、その瞳には凍てつくような冷ややかさが宿っている。
「彼女は神などではない。……ただ、必死に務めを果たそうとしているだけの人です。神扱いはやめていただきたい」
朧が言い返すと思わなかったのだろう。黒瀬は目を瞬かせた。そして、プッと吹き出す。
「何が面白いんですか」
もはや苛立ちを隠さずに朧は言った。黒瀬は「失礼」と居住まいを正した。
「巫様を大切に想われているんですね。前任とは違うようだ」
「は?」
「ですが、あまり情を入れすぎてはいけませんよ。いざという時に判断を謝ってしまいますから」
そう言うと、黒瀬は石段を登っていった。数人がその後に続く。
─偉そうに言いやがって……。
黒瀬の後ろ姿を睨みつける朧の胸のうちは、煮えくり返るような不快感で満ちていた。小夜を「道具」か何かのように扱う物言いが、どうしても許せなかった。指先に力が入り、小夜を支える腕がわずかに震える。そこで、誰かが後ろに立っていることに気が付いた。朧がその男に目を移すと、相手も静かにこちらを見た。
「御影隊長……」
思わずこぼれた声と共に、朧の肩から不自然な力が抜けていった。
「もう隊長呼びはやめてくれ」
男はそう言って微かに微笑んだ。
最後に会ったのは三年前。それ以来、一度も言葉を交わすことはなかった。
朧が見上げたその男は、朧が自然と見上げるほどに背が高かった。無駄のないスッとした立ち姿は、それだけで目を引くような華がある。どこか涼しげで知的な顔立ちは、見惚れるほど整っていて、大人らしい落ち着いた雰囲気を纏っていた。
「久しぶりだな、朧」
四年前。全てが瓦礫と炎に消えたあの日。地獄を共に生き延び、三年前、壊れかけていた自分に「命令」という名の救いを与えてくれた人。
高い位置から向けられた視線には、かつての仲間に向けた優しさが、わずかな微笑みとなって宿っている。その声を聞いた瞬間、黒瀬に向けられていたどろどろとした怒りが、跡形もなくしぼんでいくのを朧は感じた。
彼の纏う穏やかで清廉な空気は、一瞬にしてその場を支配し、朧の荒んだ心を落ち着かせてしまう。
朧は息をついた。
「ええ、本当に……」
「お前ちょっと老けたか」
そう言われて、朧は何とも言えない表情になる。確かに同年代の人よりは老けている自覚はある。だが、他人に言われるのは別だ。
不服げな朧を見て、御影はくくっと肩を揺らした。
「冗談だ。あ、荷物持つよ。巫殿まで送る」
「ありがとうございます」
荷物を受け渡して石段を登り始めた。
実働部隊にいた頃、多くのことを教えてくれたのが御影だった。今の朧があるのは、間違いなく彼のおかげと言っていい。だが、再会の懐かしさが込み上げるのと同時に、朧の胸の奥は、鋭い刃で抉られるような痛みに支配されていた。
隣を歩く御影が一段、石段を登る。そのわずかな動作にさえ、朧は「あの日」の影を見てしまう。
この人の隣に立つことは、あの四年前の惨劇から、否応なしに引き戻されることと同義だった。どれほど遠くへ逃げたつもりでも、御影の穏やかな声を聞くだけで、蓋をしたはずの記憶がジリジリと熱を持って疼き出す。
「それにしても鎮守人になってからもう一年か。早いな」
「……ええ。あの時はすみませんでした。一度も挨拶に伺えないまま、こちらに来ることになって」
何のことか分かったのだろう。御影は「あぁ……」と声を漏らした。
「いきなり決まったことだったんだろう。仕方なかった」
御影は「それに」と言葉を紡いだ。
「俺はお前が元気そうで良かったよ。小夜様のおかげか?」
「……ええ」
朧は頷くと、御影を見上げた。
「隊長は……御影さんは、まだ実働部隊に?」
咄嗟に言い直すと、御影は不意を突かれたように瞬きをし、それから可笑しそうに肩を揺らした。
「やっぱいいよ、無理に直さなくて。お前に『さん』付けで呼ばれるのは、どうも気恥ずしい」
冗談めかしてそう言うと、彼は石段の先を見据えるように視線を上げた。表情が少し切なくなる。
「前線はキツかったかな。後遺症が残ってるんだ。今は指揮の方に回ってる」
顔が暗くなる朧を見て、御影は優しく声をかけた。
「大丈夫だ。日常生活には問題はない。ただ前線で無茶はもうできないってだけだ。……あの地獄から生き残れたんだ、これくらいは安いもんだろう」
「……そうですか」
朧が言葉を落とすと、御影は石段を一段踏み上がった。
「まぁ、前線には出られないだけだ。勘は鈍ってないよ」
さらりとした口調だったが、その言葉には根拠があるのだと分かる落ち着きがあった。
御影は実働部隊時代、いくつものテロ行為、特殊事案を単独で処理してきた人物だった。
とりわけ有名なのは、治安統制局近くで発生した襲撃事件─数十名規模の武装集団が同時に動いた現場に、応援を待たず一人で介入し、制圧まで持っていった件だ。
後から到着した部隊は、ほぼ片付いた現場と、倒れ伏す敵勢だけを見たという。
真正面から戦えば勝てる相手ではない、と誰もが認めるタイプの人間だった。
「今は黒瀬さんの護衛として派遣されてきたけど、小夜様とお前の護衛でもある。今でも現場に出れば、無茶する部下を止めるくらいはできるさ」
軽く笑うその横顔には、戦えなくなった人間特有の翳りはほとんどない。むしろ、前よりも周囲を見る目だけが鋭くなっているようだった。
「……心強いです」
「けど、あんま期待するなよ。小夜様を近くで守ってやれるのはお前だけなんだから」
「はい」
石段を登り切り、本殿を通り過ぎると遠くに巫殿の灯りが見えてきた。背中の小夜がもぞりと動いた。
「あ、小夜様。起きましたか」
「うん……あれ」
小夜は横に立っている男性を見て目を瞬かせた。御影は視線に気がついて微笑みかける。
「小夜様、お初にお目にかかります。御影と申します」
「この方が実働部隊の時の俺の上司です」
「あぁ、朧の」
急に嬉しそうになる小夜に、朧は慌てた。
「小夜様、変なこと聞かないでくださいよ」
「変なことなんか聞かないよ。御影さん、実働部隊の時の朧のエピソードなんかないか?」
「あ、こら!」
御影は、かつては「実働の怪物」と騒がれていた部下が、今や一人の少女に振り回され、必死に彼女を守ろうとしている姿を眺めた。その光景は、あの日々を知る彼にとって、何物にも代えがたい救いのように映る。
「そうですね……」
御影はわざとらしく顎に手を当て、朧を横目で見やった。その瞳には、懐かしさと、少しの寂しさが混ざり合っている。
「当時の朧は、同期たちととにかく無茶ばかりしていました。作戦を無視して突っ込むのは日常茶飯事。おかげで私は、上の人間に頭を下げるのが日課のようなものでしたよ」
「えっ、朧が!?」
驚く小夜の横で、朧はいたたまれなさに顔を伏せた。
「……もう、その話はやめてください」
─「やっぱ俺の相棒はお前しかいねぇから」
耳の奥で、懐かしい声が鮮明に蘇る。競うように無茶をして、任務が終われば御影にこっぴどく絞られた、あの熱に浮かされたような日々。
「ははっ、また今度たっぷりとお教えしますよ。彼らがどれだけ私の胃を痛めてくれたか」
御影が慈しむように言うと、小夜は「楽しみだな」と満足げに笑った。
「隊長まで……」
朧はがっくりと肩を落とし、溜息をついた。だが、その溜息は重苦しいものではなく、胸の奥に澱んでいた熱を逃がすような、穏やかな響きを含んでいた。
巫殿に着くと、御影が荷物を手渡してくれた。
「朧、また今度時間ある時にゆっくり話そう」
「ええ、ここまでありがとうございます」
「小夜様もまた」
「うん」
去っていく御影の背中を見送る。その足取りはどこまでも静かで、かつて多くの修羅場を越えてきた男の矜持を感じさせた。だが、その背中が闇に溶けて見えなくなるまで、朧は微動だにせず、ただ一点を見つめ続けていた。
「……朧?」
小夜の控えめな声に、朧は弾かれたように肩を震わせた。
「あ……すみません、ぼうっとしてしまって。入りましょう」
取り繕うように笑うが、その瞳の奥にはまだ消えない影が揺れている。
二人は巫殿に入った。静かさが余計に感じられる。
「ご飯作るので部屋でお休みになっててください」
「ソファでいいよ」
「あそこ寝心地悪くないですか……?」
「いいの」
朧は苦笑すると、ソファに小夜を下ろす。
「出来たら起こしますね」
「うん」
小夜は横になると、目をつぶった。毛布をかけてやり、キッチンに立つと火をつけた鍋を見つめながら、ふと先ほどの黒瀬の言葉を思い出した。
─神、か。
小さく息を吐く。その言葉はいつだって、彼女から自由を奪い、血の通った一人の人間であることを忘れさせる。
誰がそう呼ぼうと、自分だけは同調しない。
朧はそう心に決めて包丁を動かし続けた。




