第8話「青に引いた基線」
ポロチケウの断崖を離れた翌朝、空はまだ明るかった。
けれど、まちるは空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
雲の流れが速い。
海から上がる風に、昨日より湿り気が混じっている。
山の端にかかった薄い灰色が、少しずつ濃くなっていた。
「……杞憂で終わればいいが」
まちるが低く言うと、肩の上のハクが鼻をひくつかせた。
白いエゾリスの小さな耳が、風の向きを探るようにぴくりと動く。
「ハクさんも、天候を確認していますか」
エアノーレが真面目に言った。
「たぶん、木の実の匂いを探してるだけだ」
「そうですか」
「そうだ」
まちるは三脚の背負い紐を締め直した。
今日は、札幌本道の道路予定線に沿って、沢筋と斜面の具合を確認することになっている。
見当山から見た大きな線を、地上で確かめる仕事だ。
道は、地図の上だけでは通らない。
人が歩く。
馬が進む。
荷車が沈まない。
雨で崩れず、冬に埋もれすぎない。
そのために、まちるたち水準測量班は、地面の高低と水の逃げ道を見なければならなかった。
荷をまとめていると、背後から明るい声が飛んできた。
「やあ、測女組。おはよう」
小坂新八が、測旗を肩に担いでやってきた。
丸みのある体つきに、人懐っこい笑み。
山に入る前だというのに、なぜか懐が少し膨らんでいる。
その少し後ろでは、細身の男が経緯儀の箱を確認していた。
八代源吾である。
八代は小坂とは対照的に、朝から余計な言葉を一つも使わない。
ただ、箱の留め具と革紐を確かめ、山の方を見ていた。
まちるは片眉を上げた。
「おう、小坂。おはよう。で、ソクジョって何だ」
「測量女子、略して測女です。雨宮さんと標尺娘さんで、ちょうど二人組でしょう」
「妙な言葉を作るな」
「現場では呼びやすさが大事ですからねえ」
「呼ばれる側の都合も考えろ」
「標尺娘……」
エアノーレが小さく復唱する。
「お、反応した」
「それは、わたくしの分類ですか」
「まあ、そんなところです。悪くないでしょう」
まちるは横から言った。
「悪い。却下だ」
「えぇ、呼びやすくて、けっこう気に入ってるんですが」
「勝手に気に入るな」
エアノーレは真面目に首を傾げた。
「まちる。わたくしは、標尺娘として登録されるのですか」
「されない」
「では、一時的呼称ですか」
「それもいらない」
小坂はにこにこと笑いながら、懐から小さな紙包みを取り出した。
「まあまあ。朝から険悪にならないよう、甘いものでもどうです」
「また何か持ってるのか」
「今日は金平糖です。山道作業には甘みも必要ですからねえ」
小坂が紙包みを開くと、中には白く小さな金平糖がいくつか入っていた。
「雨宮さんも、標尺娘さんも、ひとつどうぞ」
「測量に必要なものかよ、これ」
「気持ちの測量には必要ですよ」
「妙なことを言うな」
まちるは呆れながらも、一粒つまんだ。
だが、口にしてまんざらでもない様子だった。
エアノーレは、差し出された金平糖をしばらく見つめていた。
朝の光を受けた白い粒は、小さな星のかけらのように淡く光っている。
「これは、食料ですか」
「おや、初めてですか。お菓子です。甘いやつです」
「お菓子」
エアノーレは指先で金平糖を受け取った。
すぐには口に入れず、手のひらの上で少しだけ転がす。
「……星屑のようです」
まちるは横からちらりと見た。
「詩人みたいなこと言うな」
「詩ではありません。形状の感想です」
「余計に詩っぽい」
小坂は楽しそうに笑った。
「気に入ってもらえたなら何よりです」
「気に入ったのか?」
まちるが聞くと、エアノーレは一拍置いて答えた。
「……嫌いではありません」
「食べる前からか」
「はい。少なくとも形状の段階では、ですが」
「標尺娘さん、甘いものはいける口ですか」
「そこはまだ判定中です」
「お菓子にまで判定要る?」
まちるが言うと、エアノーレはようやく金平糖を口に入れた。
少しだけ目を瞬かせる。
「……甘いです」
「そりゃそうだ」
まちるの肩で、ハクが鼻をひくつかせた。
小坂は「あ」と言って、別の小袋を取り出した。
「ハク殿には、こちらを」
小袋の中には、小さなオニグルミがいくつか入っていた。
まちるは少し目を丸くした。
「ハクにもか? 悪いな」
「いえいえ。ハク殿なら喜ぶかと思いまして」
「お前、用意がいいな」
「差し入れは、相手に合わせるのが肝心です」
「妙なところで気が利く」
ハクは小さな前足でオニグルミを受け取ると、胸元に抱え込んだ。
小坂は嬉しそうに笑った。
「おお、採用された」
「餌付けするなよ」
「友情です」
「餌付けと友情を混ぜるな」
その後ろで、八代がようやく一言だけ言った。
「支度をしろ」
小坂は測旗を担ぎ直した。
「はいはい。源さんが急かしてるんで、三角の方は先に出ます」
「八代さんは一言しか言ってないだろ」
「一言で十分伝わるんですよ」
八代は否定も肯定もしなかった。
ただ、まちるの背中の三脚へ一度だけ目を向ける。
「今日は沢筋が怪しい」
短く、それだけ言った。
まちるは表情を少し引き締めた。
「そっちも気をつけろよ」
「そちらもな」
八代は経緯儀の箱を担ぎ直し、小坂は測旗を肩で揺らした。
「では測女組、後ほど」
「だからその呼び方をやめろ」
小坂は笑いながら、八代の後を追っていった。
エアノーレは、その背中を見送りながら小さく言った。
「標尺娘……」
「気にするな」
「はい。ですが、呼称としては覚えやすいです。……嫌いではありません」
まちるは思わず横を見る。
「え。もしかして気に入ったの」
「正式分類には適しません。ですが、通称としては許容範囲です」
「気に入ってるじゃないか」
「許容範囲です」
「それを気に入ってるって言うんだよ」
エアノーレは、もう一度だけ小坂の背中を見た。
「小坂さんは、よく食料を分配するのですね」
「あれは食料というより、おやつだな」
「おやつ」
「いいよ、覚えなくて」
「いいえ。重要項目かもしれません」
「おかしなやつ……」
言ってから、まちるは自分の言葉に引っかかった。
お菓子なやつ。
「……言葉遊びかよ」
ひとりでそう呟き、まちるはそれをごまかすように空を見上げた。
雲は、少し低くなっていた。
午前のうちは、まだ作業は順調だった。
水準測量班は道路予定線へ入り、沢の深さや斜面の角度を確かめていく。
まちるは水準儀を据え、エアノーレは標尺を持つ。
ときには標尺を立て、ときには荷を持ち、斜面の端で足場を確認する。
「そこ、半歩右」
「はい」
「標尺を少し戻せ。傾いてる」
「修正します」
「その沢、雨が降れば水が増えるな」
エアノーレは沢底を見た。
「今は浅く見えますが、削れ方が深いです」
「そうだ。水が走る道がある」
まちるは測量帳に短く書きつけた。
沢筋。
増水注意。
橋か迂回。
地盤やや緩い。
エアノーレが、まちるの帳面をのぞき込む。
「水が走る道、という表現は記録用語ですか」
「いや、私の言い方だ」
「分かりやすいです」
「そうか」
「ただし、水が走るという比喩は、生物的です」
「細かいな」
「水は足を持ちません」
「持ってたら怖いだろ」
エアノーレは真顔で少し考えた。
「確かに」
「そこで考え込むな」
まちるは短く笑い、帳面を閉じた。
その間にも、空は少しずつ暗くなっていた。
風が山側から回る。
草の揺れ方が変わる。
遠くの斜面に、薄い雨の筋が見えた。
「来るな」
まちるが言った。
「雨ですか」
「ああ。思ったより早い」
エアノーレは空を見た。
「撤収判断ですか」
「たぶん、久世さんが出す」
まちるがそう言った直後、甲高い笛の音が山道に響いた。
一度。
間を置いて、二度。
それは、各班へ一時撤収を知らせる合図だった。
続いて、少し離れた場所から久世の声が飛ぶ。
「各班、一時撤収! 沢沿いから離れろ。器械を濡らすな。足元の緩い場所は通るな!」
近くの班員が、その声をさらに先へ送る。
「一時撤収! 器械をしまえ!」
測量班の動きが、一斉に変わった。
標尺が畳まれ、帳面がしまわれる。
水準儀には布がかけられ、箱へ戻される。
人夫たちが杭や縄をまとめ、濡れはじめた荷を肩にかけた。
まちるも水準儀の箱を閉じ、三脚の紐を締め直した。
「ほら、撤収だ。標尺を持て」
「はい」
エアノーレは標尺を抱え直し、まちるの横についた。
「三角の班も戻っていますか」
「戻ってるはずだ」
まちるは山側を見た。
遠くで、八代と小坂の姿が見えた。
二人は、見通し点へ向かう途中の斜面で、測旗と経緯儀の箱をまとめているところだった。
作業の切れが悪かったのだろう。
あと少しで区切れる。
そう判断して、撤収が一拍遅れたように見えた。
「小坂、急げよ」
まちるが小さく呟いた。
その時だった。
山側から、乾いた音がした。
石が転がる音。
土が剥がれる音。
そのあとに、誰かの叫び声が続いた。
「崩れたぞ!」
別の声が重なる。
「三角の班だ!」
まちるは顔を上げた。
八代と小坂がいた方角だった。
まちるたちが駆けつけた時、道は途中で切れていた。
細い斜面沿いの踏み跡が、雨を含んだ土ごと崩れている。
山側から落ちた土砂が道を削り、谷側へ流れ落ちていた。
それは、崖下へ垂直に落ちる場所ではなかった。
道の一部が幅ごとえぐられ、手前側と向こう側に分断されている。
小坂のいる場所は、その向こう側に残った、崩れ残りの急斜面だった。
岩棚というには狭すぎる。
足場というには脆すぎる。
湿った土がかろうじて残り、その下は谷側へ大きく落ち込んでいた。
手前側には、八代がいた。
片膝をつき、経緯儀の箱を腕で押さえている。
「八代さん!」
まちるが駆け寄る。
八代は顔を上げた。
額に泥がついている。肩を少し庇っていた。
「小坂が向こうだ」
それだけ言う。
まちるは崩れた先を見た。
「小坂ー! おーい!」
小坂は、測旗を抱えたまま、青ざめた顔でこちらを見ていた。
足を挫いたのか、地面にへたり込んでいる。
そこは、上から綱を垂らせば済む場所ではなかった。
こちら側へ戻すには、手前と向こうを、横につなぐ必要があった。
丸い体を少し横へずらしただけで、足元の土が崩れる。
自分で歩いて戻ろうとすれば、そのまま谷へ持っていかれる。
小坂自身も、それが分かっていた。
「まちるさーん! ……俺、もう駄目かもしれませーん! ここで終わりかも!」
向こう側から、小坂の悲観的な返事がした。
「馬鹿野郎!」
まちるは即座に言い返した。
「こんなことで諦めるな!まだ落ちてないだろ。そこで動くな。今、考えてやる!」
小坂は唇を引き結んで頷いた。
雨が少し強くなった。
久世は崩れた斜面を見て、すぐに声を飛ばした。
「全員、崩れ際から下がれ!足元を見ろ。二次崩れが来る」
班員たちが慌てて後ろへ下がる。
「怪我人を確認しろ。八代を見ろ。肩をやっている。箱は置かせろ」
「大丈夫だ」
八代が短く言った。
久世は即座に返した。
「大丈夫かどうかは、お前が決めるな。手の空いている者、八代の腕を見ろ」
八代は不満そうに眉を動かしたが、それ以上は言わなかった。
「小坂、動くな!」
久世が言った。
「はい……!」
「返事はそれでいい!余計なことはするな!こちらで考える!」
とは言うものの、有効な手段はすぐには見つからなかった。
まちるは地面を見た。
斜面を見る。
大木を見る。
こちら側には、根を張った大木がある。
ロープを巻けば、支点は取れる。
問題は、その先だった。
小坂のいる向こう側までは、安全に歩いて渡れる状況ではない。
歩けば簡単に足を滑らせ、滑落するだろう。
仮に行けたとしても、小坂の周りには、命綱を預けられる支えがない。
こちら側のような大木はない。
久世もまた、同じ場所を見ていた。
「こっちに支点はあるが……」
久世が低く言った。
「だが、向こうがない」
まちるは頷いた。
「はい。それだけじゃ足りません」
だが、万事休すとは思いたくなかった。
その時、エアノーレがそっと近づいた。
周囲には久世も、八代も、他の測量者たちもいる。
エアノーレは声を落とし、まちるだけに聞こえるように言った。
「まちる。あなたの三脚を使えませんか」
まちるは横目でエアノーレを見た。
「三脚を?」
「はい。向こう側で、ロープを受ける支点にするのはどうでしょう」
エアノーレは、小坂の背後を指した。
「小坂さんの少し後方に、岩が見えます。あの岩と岩のあいだに、三脚を低く開いて寝かせれば、噛ませられる可能性があります」
まちるは、崩れた向こう側を見た。
「確かに、いい案かもしれない。だけど、三脚とロープを小坂のところまで届ける方法がない」
「わたくしが持っていきます」
「あんたが?」
まちるは思わず声を低くした。
「あの急斜面だぞ。いくらなんでも無理だろ」
「断崖での作業を思い出してください」
「ポロチケウの……」
まちるは、昨日のエアノーレの動きを思い出した。
飛んだわけではない。
浮いたわけでもない。
それでも、エアノーレは人離れした姿勢を保ちながら、濡れた断崖を降りていた。
エアノーレはさらに声を落とした。
「あの時よりも、星衣核の出力を少しだけ上げます。短時間であれば今の星衣でも、小坂さんの場所まで渡れます」
その一言で、まちるの目が変わった。
「……本当に行けるんだな」
「はい」
まちるは背中の三脚へ手を伸ばした。
「それなら、ロープは二本がいいだろう」
「二本」
「そう。一本は主ロープだ。こっちの大木と、向こうの三脚。その二つの支点の間に張る。小坂の体を預ける命綱にもなる」
エアノーレは頷いた。
「大木と三脚で、綱を支えるのですね」
「そうだ。もう一本は引き綱だ。小坂をこっちへ引くための綱にする」
まちるは一度、小坂の方を見た。
青ざめた顔で、彼はその場から動けずにいる。
足を痛めているせいで、体の重心も崩れていた。
「小坂は足を痛めている。あの足場じゃ、無理に歩かせたら、踏ん張ろうとした瞬間に崩れる」
「小坂さんは、主ロープに体を預けるのですね」
「そうだ。ただ、直接ロープに預けるだけじゃ駄目だ。体に食い込むし、衣服にも引っかかってうまく滑らない。何か、滑車代わりになるものが要る」
まちるは振り返り、荷馬車の方へ目を向けた。
雨に濡れた荷の中には、杭、縄、工具箱、予備の金具が積まれている。
道路予定線の調査では、馬具も荷車も、いつ壊れるか分からない。
そのため、車輪や車軸まわりの補修に使う道具も一緒に運んでいた。
「荷馬車の工具箱を開けてくれ!」
まちるが叫んだ。
近くの班員が荷を開く。
釘抜き、金槌、車輪留め、予備の金具。
その中から、まちるは一抱えほどの鉄筒を見つけた。
一メートルには少し足りない。
だが、小坂が胸の前で抱え込むには十分な長さがある。
本来なら、荷馬車の車軸まわりを補修するためのものだった。
人を渡すための道具ではない。
だが、次の瞬間には、もうまちるの頭の中で、救出方法が組み上がっていた。
まちるは鉄筒を手に取り、久世へ向き直った。
「久世さん。小坂を救出する手があります。これらの道具を使います」
久世は、すぐにまちるを見た。
「説明しろ」
「まずは支点です。こちら側はこの大木を支点にし、向こう側では、この三脚をあの岩に噛ませて支点を作ります。大木と三脚、その二つの支点の間に、主ロープを張ります」
久世の視線が、崩れた向こう側へ移った。
「……それは、向こうへ人が行く話だぞ」
「そうです。まあ、最後まで聞いてください」
「ふむ……で、その三脚を、支点にする気か」
「はい。立てず、全開にもせず、低く開いて寝かせます。岩と岩のあいだに噛ませて、綱に引かれた時、抜けるのではなく食い込む向きにします。噛ませる向きと綱の角度を間違えないようにします」
「普通は褒められたやり方ではないな」
「分かっています。でも、向こうには木がありません。岩もそのままでは綱を任せられない。あの三脚なら、岩間に噛ませれば支点になります」
さらにまちるは、手にした鉄筒を示した。
「それから主ロープには、これを通します」
「それは荷馬車補修用の部材ではないか。何に使う」
「通した鉄筒を、小坂に抱かせるためです。小坂の腰ベルトを一度外して、鉄筒ごと体に締め直す。これで、小坂の体と鉄筒を一体にします」
「主ロープにも小坂がつながる形だな。残りの一本はどうする」
「二本目のロープは引き綱です。先を鉄筒と腰ベルトまわりに取ります。体と一体になった鉄筒を引くことで、小坂ごと主ロープの上を滑らせることができます」
「滑車代わりということか」
「はい。主ロープに体を預けさせるので、無理に崖づたいに歩かせずに移動させられます」
久世は黙って、崩れた斜面を見た。
こちら側には大木がある。
向こう側には、支点になる木がない。
ならば、支点を作るしかない。
まちるの三脚を、岩のあいだに寝かせて噛ませる。
荷馬車の鉄筒を、滑車代わりに使う。
どちらも本来の使い方ではない。
だが、今この場では、戻る道を作るための道具だった。
「理屈は分かった」
久世は、崩れた向こう側を見たまま言った。
「だが、この状況で向こうへ渡れる者はいない」
まちるは、隣に立つエアノーレを見た。
「エアノーレが渡れます」
久世の目が細くなった。
「気は確かか」
「確かです」
まちるは即座に答えた。
「彼女、こう見えても運動神経が桁違いなんです。本当です。今は……彼女を頼るしかありません」
久世はエアノーレへ視線を移した。
「行けるのか」
エアノーレは静かに答えた。
「行きます」
「行けるかと聞いた」
「行けます」
短い返答だった。
だが、その声に迷いはなかった。
久世は一瞬だけ黙った。
「……よし。やれ」
まちるは、主ロープを鉄筒へ通した。
大木に取る側を残し、鉄筒と自由端をエアノーレに渡す。
「主ロープの一端はこっちの大木に取る。鉄筒は主ロープに通したまま持っていけ。向こうで三脚の支点を作ってから、小坂に抱かせる」
「了解しました」
「引き綱は、片端をこっちに残す。あんたはもう片端を持って行け。小坂の胴と鉄筒まわりに取るんだ」
「小坂さんの体と鉄筒を、まとめて引くのですね」
「そうだ。体だけは引かない。鉄筒ごと引く」
まちるは二本のロープを確認した。
「向こうへ着いたら、まず三脚を支点にする。小坂を動かすのはその後だ」
「順序を確認します」
エアノーレは真面目に復唱した。
「第一に、大木に固定した主ロープの反対側を持ち、引き綱の片端も持って向こう側へ移動。第二に、三脚を低く開いて寝かせ、岩に噛ませる。第三に、主ロープを大木と三脚の間に張る。第四に、鉄筒を小坂さんに抱かせ、腰ベルトで固定。第五に、引き綱を体と鉄筒まわりに取り、こちら側から引ける状態にする」
「そうだ」
まちるは背中から三脚を外した。
「持っていけ。向こうで戻る道を作れるのは、あんただけだ」
エアノーレが三脚を受け取る。
まちるは低く、しかしはっきり言った。
「荷が多いが、頼んだぞ」
「はい。問題ありません」
エアノーレは、主ロープの自由端と引き綱の端を確かめ、鉄筒を抱え、三脚を持ち直した。
そして、崩れた斜面の縁へ進んだ。
久世が班員たちへ短く指示を飛ばす。
「大木に主ロープを固定しろ。二重に巻け。締めを浅くするな。引き綱は余裕を残せ。勝手に引くな。雨宮の合図を待て」
班員たちが動く。
太いロープが大木の幹に二度、三度と巻かれた。
濡れた樹皮に食い込み、結び目が強く締められる。
その間にも、エアノーレは崩れた斜面の縁に立っていた。
小坂が向こう側で、青ざめた顔のまま叫ぶ。
「標尺娘さーん、まさか、こっちに来る気ですかー!」
「はい」
「いや、はいじゃなくてー! そこ、人が歩く場所じゃないですよー!」
まちるは即座に返した。
「そうだー! だからお前は動くなー!」
「俺は動けませーん!」
「なら優秀だ!」
「褒められた気がしません!」
声だけは大きい。だが、怖がっていないわけではなかった。
返事が返るだけ、まだ気持ちは切れていない。
エアノーレが一歩、岩の出っ張りへ足を置いた。
周囲の測量者たちがざわめく。
人が立てるような幅ではない。
濡れた岩と崩れた土の境目を、エアノーレはほとんど迷わず渡っていく。
八代が低く言った。
「信じられん……身軽だな」
小坂が向こう側で目を丸くする。
「標尺娘さーん、忍びか何かですか!」
まちるは咄嗟にでまかせを返した。
「そうだー! あいつは、服部半蔵の知り合いの親戚みたいなものなんだ。だから忍者に結構詳しいんだ!」
「それだけであそこ渡れます!?」
久世は、なぜか少しだけ目を細めた。
「……服部半蔵か」
まちるは思わず久世を見た。
「そこに反応するんですか」
「反応していない。今は、そういうことにしておくだけだ」
久世は、崩れた斜面を渡るエアノーレから目を離さずに言った。
「だが、見事な身のこなしだ。標尺持ちにしておくには惜しいな」
「引き抜かないでください」
「考えておく」
「考えないでください」
その間にも、エアノーレは三脚と鉄筒を抱えたまま、崩れた斜面を渡っていく。
雨でゆるんだ土が、足元で少しずつ崩れる。
一度、小石が谷側へ落ちた。
それでもエアノーレは膝を沈め、体勢を立て直した。
飛ぶわけではない。
浮くわけでもない。
ただ、危うい足場の上で、身体の線を崩さずに進んでいく。
やがて、彼女は小坂のいる場所へたどり着いた。
「小坂さん。動かないでください」
「動けません!」
「では、そのままで」
「こんなに頼もしい『そのままで』、初めて聞きました」
「ありがとうございます」
「褒めてはいません!」
エアノーレは小坂のそばに膝をつき、まちるに言われた通り、三脚を全開にはしなかった。
測量の時のように立てるのでもない。
閉じて棍のように使うのでもない。
三本の脚を、必要な分だけ低く開く。
そのまま三脚全体を寝かせ、岩のあいだへ差し込んだ。
一本の脚を、岩の割れ目へ噛ませる。
もう一本を、反対側の岩の角へ突っ張らせる。
残る一本を横へ張り、綱に引かれた時、三脚全体が抜けずに岩へ食い込む角度を探る。
湿った土が邪魔になるところは、手で払った。
柔らかい土には任せない。
硬い岩と、岩の奥に残った締まった地面だけを使う。
「まちる。設置しました」
エアノーレの合図が届く。
まちるは大木側の結びを確かめた。
「主ロープを張る!」
数人がロープを引く。
向こう側で、エアノーレが三脚の噛み具合を確認する。
主ロープが張られた。
こちら側では、大木が綱を受ける。
向こう側では、まちるの三脚が岩のあいだに深く噛み込む。
二つの支点のあいだに、一本の命綱が渡った。
大木は動かない。
三脚も、抜けない。
少なくとも今、この瞬間だけは。
父・森蔵が北方踏査用に鍛えた堅牢な三脚は、小坂の重さと引き綱の力を受ける線上で、岩に食い込んでいた。
「よし……!」
まちるは雨に濡れた三脚を見据えた。
「父さんの三脚、持ちこたえてる!」
続けて、エアノーレは鉄筒を小坂の胸の前へ持っていった。
鉄筒には、すでに主ロープが通っている。
「小坂さん。これを抱えてください」
「これを、ですか」
「はい。これは滑車の代わりです。あなたは歩きません。この鉄筒に体を預けます」
「……分かりました。もう全部お任せします」
エアノーレは小坂の腰ベルトを一度外した。
小坂に鉄筒を両腕で抱えさせ、胸から腹の前へ当てる。
その上から、腰ベルトを鉄筒ごと締め直した。
鉄筒は、小坂の体と腰ベルトのあいだに固定された。
小坂が手を離しても、すぐに体から抜けることはない。
さらにエアノーレは、二本目の引き綱を鉄筒と腰ベルトまわりに強く取った。
「小坂さん。鉄筒を離さないでください」
「はい!」
「体を低く。重心を主ロープ側へ」
「はい!」
「足で踏ん張ろうとしないでください。足場は信用できません」
「それをはっきり言われると怖いです!」
「怖い方が、今は安全です」
「そういうものですか!」
「たぶんそうだー!」
まちるがこちら側から怒鳴った。
「小坂! 鉄筒を抱えてろ! 足で歩くな! 足は斜面に軽く沿わせる程度でいい。横揺れを抑えるだけだ! あとはこっちで引く!」
「俺、重いですよ!」
「知ってる!」
「知ってるって言われると傷つきます!」
「傷つく余裕があるなら生きてる証拠だ!」
小坂は泣きそうな顔で鉄筒にしがみついた。
ロープが張る。
大木が軋む。
向こう側の三脚が岩へ深く噛み込む。
「引け!」
久世の声が飛ぶ。
測量者たちが一斉に引き綱を引いた。
鉄筒が主ロープに沿って、ぎし、と鳴りながら動く。
小坂の丸い体が、崩れた斜面を少しずつ横へ渡っていった。
小坂は歩いていない。
主ロープに通した鉄筒を抱え、その鉄筒ごと引き綱に引かれながら、斜面を横へ移っている。
足元が抜けても、命綱がある。
力を抜けば怖い。
力を入れすぎても、体勢が崩れる。
「小坂、手を離すな!」
まちるが叫ぶ。
「離したら、あとで金平糖全部没収する!」
「それは困ります!」
「困るなら掴んでろ!」
「掴んでます!」
その声が返ってきたことで、まちるの表情がわずかに動いた。
最後の一間で、小坂の足が滑った。
八代が片腕を伸ばす。
「小坂」
短い声だった。
小坂はその声に反応し、必死に鉄筒へしがみついた。
まちると久世が同時に手を伸ばし、小坂の腕を掴む。
次の瞬間、小坂は手前側の地面へ転がり込んだ。
「生きてるか」
まちるが聞く。
小坂は仰向けのまま、雨に濡れた顔で笑った。
「……腹、減りました」
「生きてるな」
まちるはそう言い、ようやく表情を緩めた。
ハクが、まちるの肩の上で小さく鳴いた。
「ハク殿にもご心配かけまして。お詫びに後でオニグルミを……」
「いいから横になってろ。足、動かすな」
小坂は素直に黙った。
しかし、向こう側にはまだエアノーレが残っていた。
三脚も、まだ岩に噛ませたままだ。
エアノーレは、向こう側で一度、片膝をついた。
「エアノーレ!」
まちるが叫ぶ。
「三脚は置いてこい!それを抱えて戻れる状態じゃない!」
エアノーレは向こう側で三脚に手をかけた。
「できません」
「命と比べるものじゃない!」
「これは、まちるの道具です」
「道具はまた作れる!」
「ですが、これは父上の道具です」
まちるは言葉を詰まらせた。
エアノーレは三脚を慎重に外した。
岩に噛ませていた脚が抜ける。
班員たちが主ロープを少し緩める。
エアノーレは、その一部を自分の腰へ取り、さらに三脚にも回した。
万が一、足場が抜けても、まちる側の大木とつながっている。
「戻ります。落ちても、途中で止まります」
「無茶するな!」
「無茶ではありません」
「それはこっちが決めるんだよ!」
エアノーレは三脚を抱え直した。
藍色のローブの下で、星衣核が淡く明滅する。
ほんの一瞬だけ、彼女の体の線が風から外れたように見えた。
そして、渡り始める。
先ほどよりも、足場は悪くなっていた。
小坂を戻した時に土がさらに崩れ、岩の端は濡れている。
エアノーレは、一歩ずつ戻った。
飛ばない。
浮かない。
ただ、落ちるはずの重心を、ぎりぎりで戻しながら進む。
途中で、足元の土が抜けた。
「エアノーレ!」
まちるが叫ぶ。
エアノーレの体が傾く。
だが、彼女は三脚を抱えたまま、片膝を岩へ打ちつけるように落とし、体勢を止めた。
主ロープが張る。
まちる側の大木が、小さく鳴った。
「引くな!」
まちるが班員たちへ叫ぶ。
「まだ落ちてない! 張ったまま待て!」
エアノーレは顔を上げた。
「問題ありません」
「それは問題あるやつの言い方だ!」
まちるは手を伸ばした。
あと少し。
あと一歩。
エアノーレは最後の岩を越え、こちら側へ戻った。
まちるがその腕を掴む。
久世も反対側から支える。
エアノーレは三脚を抱えたまま、膝をつきそうになった。
「返却します」
エアノーレは、濡れた三脚をまちるへ差し出した。
まちるはそれを受け取り、思わず脚を確かめた。
あれほど岩に噛ませ、小坂の体重を受け、雨の中で引き綱に耐えたというのに、三脚には目立った傷がなかった。
何事もなかったかのように、父の道具はまちるの手元へ戻ってきた。
「……ほんとに、頑丈だな」
「はい。非常に優秀な道具です」
「父さんが聞いたら喜ぶよ」
「では、後日報告します」
「できたらな」
まちるは三脚を抱え直し、それからエアノーレの肩を支えた。
「で、無理しただろ。フラフラだ」
「必要な範囲の作業でした」
「そういうのを、こっちでは無理って言うんだ」
「地球の無理の基準は厳しいです」
「今は黙って支えられてろ」
「了解しました」
小坂は地面に座り込んだまま、濡れた顔で二人を見ていた。
「標尺娘さん、すごいですねえ」
「標尺娘はやめろ」
まちるが言う。
エアノーレは少しだけ首を傾げた。
「……嫌いではありません」
「今言うことか」
その場に、少しだけ笑いが生まれた。
雨はまだ降っていた。
斜面は崩れたままだ。
道は、そこで一度途切れていた。
けれど、小坂は戻ってきた。
そこに戻る道を作ったのは、命を預ける綱と、引き寄せる綱。
一本の三脚。
そして、まだ完全ではない星の力だった。
雨が上がった頃、空にはまだ高い光が残っていた。
崩れた斜面から少し離れた野営地の前で、測量班は濡れた荷を広げ、道具の確認と傷の手当てをしていた。
小坂は足に布を巻かれ、八代の隣で大人しく座っている。
いつもの調子なら、ここで何か軽口を言うはずだった。
けれど、さすがに今日は少しだけ声が小さい。
「……すみませんでした」
小坂が頭を下げた。
久世は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「謝る相手は私ではない。まず、自分の足と命に謝れ」
「はい」
「それと、危ないと思ったら無理に作業を続けるな。測量は線を取る仕事だ。だが、命まで線の向こうに置いてくる仕事ではない」
小坂は、もう一度うなずいた。
八代が短く言った。
「俺の判断も遅れた」
小坂が慌てて顔を上げる。
「源さんのせいじゃ」
「遅れた」
八代はそれだけ言って、もう口を閉じた。
小坂は何か言いかけたが、結局、うなずいた。
まちるは少し離れたところで、父の三脚を拭いていた。
泥を落とし、脚を一本ずつ確かめる。
岩に噛ませたはずの箇所にも、大きな傷はない。
ただ、冷たい雨の跡だけが、古い外装の上に薄く残っていた。
三脚は、何も語らず、いつもどおりの姿のまま、まちるのそばにあった。
けれど、まちるには分かっている。
今日、この道具が人を救った。
父の三脚は、地面を測る道具だった。
けれど今日は、測れない命の重さを預かり、戻る道を支える道具になった。
エアノーレはその横に座り、膝の上に手を置いていた。
星衣核の光は弱い。
今日の動きが、彼女にとって軽いものではなかったことは明らかだった。
「雨宮」
久世が言った。
「はい」
「判断は悪くなかった。だが、二度はないと思え」
「分かっています」
「三脚を支点にするなど、普通は褒められた方法ではない」
「はい」
「だが、あの場ではそれしかなかった」
久世は、三脚へ目を向けた。
「よく戻した」
まちるは少しだけ目を伏せた。
「戻したのは、エアノーレです」
「案を通したのは、お前だ」
そう言ってから、久世はエアノーレを見た。
「それから、お前」
「はい」
「標尺持ちにしておくには惜しいな」
「久世さん」
まちるがすぐに口を挟む。
「引き抜きません」
久世は淡々と言った。
「今はな」
「今後もです」
エアノーレは少しだけ首を傾げた。
「わたくしは、標尺娘としての登録が継続されるのですか」
「されないされない」
まちるが言うと、小坂が小さく笑った。
「標尺娘さん、やっぱり強いですねえ」
「お前は横になってろ」
「はい。……でも、もう大丈夫です。足以外は」
その時、ハクがまちるの肩で小さく鳴いた。
まちるが顔を上げる。
雨上がりの空に、虹色の帯が浮かんでいた。
山の端から、海の方へ。
弧を描くのではなく、まるで空に一本の基線を引いたように、まっすぐ伸びている。
薄く、しかし確かに、七色の光が空を横切っていた。
小坂も、八代も、久世も、しばらく言葉を失ってそれを見た。
エアノーレもまた、空を見上げていた。
「……空にも、測量線があります」
まちるは三脚を拭く手を止めた。
「虹だよ。……いや、普通の虹とは少し違うな」
「違うのですか」
「たぶん、空にまっすぐ出る虹だ。父さんなら、何か名前を知ってたかもしれない」
エアノーレは、まっすぐな虹色の帯を見つめた。
「基線のようです」
「基線?」
「測るために、最初に置く線です」
まちるは、空を横切る七色の線を見た。
今日、まちるたちはロープで戻る道を作った。
地面の上で、崩れた線をつなぎ直した。
そして今、空には別の線がかかっている。
それは、誰かを引き戻すための綱ではない。
けれど、途切れた場所にも、もう一度線は引けるのだと告げているように見えた。
まちるは、三脚を見た。
傷はない。
けれど、その道具が今日受け止めたものの重さは、まちるの手に残っていた。
「……戻る道ってのは、一本じゃないんだな」
まちるが言うと、エアノーレは空の虹色の基線を見たまま頷いた。
「はい。今日、ひとつ増えました」
小坂が、布を巻かれた足をそっと伸ばしながら言った。
「じゃあ、俺もその道を通って戻ってきたってことで」
「調子に乗るな」
「はい」
八代が短く言った。
「戻ったなら、次は足元を見ろ」
「源さん、今日いちばん長い説教です」
「短い」
小坂は少しだけ笑った。
その笑い声は弱かったが、確かに戻ってきた者の声だった。
雨上がりの空に、虹色の基線はしばらく残っていた。
挿入歌「虹基線」
https://youtube.com/shorts/U1SxGOmkNRQ?si=Bd_7Ijum2yvDiwgU
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同じ夜。
北方の白樺の水辺に、別の影が立っていた。
そこは、まちるとエアノーレが初めて交差した場所だった。
いまはもう、二人の姿はない。
水辺は静かで、白樺の葉だけが風に揺れている。
黒い器物は、以前と変わらずそこにあった。
古帝国軍の中継器。
外殻に傷はない。
止まってもいない。
表層の反応だけを見れば、何も起きていないように見える。
だが、ラグネブは中継器だけを見ていたわけではなかった。
彼が苛立たしげに見下ろしていたのは、その周囲だった。
白樺の根元に残る、浅い乱れ。
水辺へ向かい、また戻ったようにも見える土の崩れ。
一か所だけ、妙に長く踏み固められた場所。
獣の通り跡にしては、流れが不自然だった。
風や雨だけでこうはならない。
倒木でもない。
何かが、この一帯にいた。
「……どういうことだ」
ラグネブが言うと、そばに控えていた仮面の執行兵が記録板を確認した。
「この中継器管轄域への入域反応は、およそ十二時間近く続いています」
「この場所に、そんなに長く留まっていたのか」
「いいえ。反応は白樺の水辺付近から、西側外周部へ移動しています」
「十二時間も、管理区域をうろついていたわけか」
ラグネブは、その数字をもう一度だけ頭の中でなぞった。
偶然に迷い込んだにしては長い。
ただ通過しただけにしては、水辺に寄りすぎている。
「個体照合は」
「不能。登録はありません。追跡も途中で途切れています」
「途切れている、か」
ラグネブは白樺の幹に手を添えた。
幹そのものに意味はない。
気に入らないのは、その根元に残った乱れだった。
痕跡はある。
だが、記録に名前がない。
何かがいた。
それなのに、誰だったのかを示すものだけが抜け落ちている。
ラグネブは、その半端さに苛立った。
「個体は、まだこの区域にいるのか」
「途切れた後の動きまでは不明です。区域内に残っている可能性も、すでに離脱した可能性もあります」
何者かがいた。
だが、もう記録には収まっていない。
通信が開く。
遠く離れた場所から、イリゲリアの声が届いた。
「ラグネブ。報告を聞こう」
ラグネブはすぐには答えなかった。
もう一度、中継器を見る。
黒い器物は沈黙している。
何かをされた痕跡はない。
少なくとも、古帝国軍の記録上は。
「中継器に外的損傷はありません。表層動作も正常範囲内です」
「では、偶発的なエラーだったということか。問題はない、と」
その声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、仮面の執行兵たちがわずかに身を硬くした。
ラグネブは唇を歪めた。
「いえ。この異常検知は、中継器そのものの不具合ではありません」
通信の向こうで、しばし沈黙があった。
「ふむ……続けろ」
「未登録個体が、この管理区域に長時間滞在していたことが判明しています。ただ、偶然の滞在とは考えにくい」
「なぜだ」
ラグネブは、水辺へ向かう跡を見下ろした。
「この個体は、少なくともここを目指して来ています。ただ迷い込んだ痕跡として見るには無理があります」
イリゲリアの声が、少しだけ低くなった。
「目的は中継器か」
「分かりません。ただ、ここに何かしらの用があったと見るのが自然です。ですが……何もされていないようです」
ラグネブは、面白くなさそうに答えた。
「今現在、この個体は、我々の記録に収まらない状態です。どこにいるのかも分かりません」
「妙だな」
白樺の水辺を、夜風が通り抜けた。
水面がかすかに揺れる。
黒い器物は変わらず沈黙している。
何も語らない。
だからこそ、そこに残った痕跡だけが、不自然に目立った。
通信の向こうで、イリゲリアが言った。
「記録の外、か」
その声には、怒りよりも興味があった。
「面白い」
ラグネブは返事をしなかった。
面白いなどという言葉で片づけるには、この痕跡は少し嫌な形をしていた。
そこにはもう、まちるもエアノーレもいない。
けれど、誰かがいたという痕だけが残っている。
そして古帝国軍は、ようやくその空白に目を向け始めていた。
つづく
著:國風惠昂
あとがき
今回の救助場面は、ロープレスキューにおける「チロリアントラバース」と呼ばれる搬送方法を参考にしています。
実際には、対岸や谷を挟んだ支点間にロープを張り、要救助者や隊員を移動させる高度な技術です。作中では、明治初期の測量現場にある道具と、まちるの判断、そしてエアノーレの身体能力を組み合わせた、物語上の応用として描いています。
また、終盤で「空に一本の基線を引いたよう」と描写したまっすぐな虹色の光は、現代でいう「環水平アーク」と呼ばれるものです。
普通の虹のように弧を描くのではなく、空に横たわる帯のように見える非常に珍しい光景です。第八話の題名「青に引いた基線」は、この空の光と、救助のために張られた一本の綱、その両方に重ねています。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
救助の場面は書いているこちらも手に汗を握りながら進めていましたが、まちるとエアノーレが力を合わせて困難を乗り越える姿を、少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
次回もまた、二人の旅と測量の物語にお付き合いいただければ幸いです。




