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第7話「ポロチケウの断崖」

挿絵(By みてみん)



井戸の村を離れてから、まちるたちの測量班は、さらに北へ動き始めていた。


開拓使の仕事は、一つの村や一つの沢で終わるものではない。

道を通す。

橋を架ける。

湿地を避ける。

馬車が登れる勾配を探す。

荷を運べる道を、地図の上だけでなく、実際の地面の上で確かめる。


そのために、測量班は現場から現場へ移る。


まちるたち久世の班もまた、開拓使の全測量班の中の一部として、新たな現場へ合流することになった。


札幌本道。

室蘭から札幌方面へ抜ける、大きな道である。


その道筋の見当をつけるため、アメリカ人技師A・G・ワーフィールドの一行が、室蘭の山へ登るという。

後に測量山と呼ばれるその山は、この頃、見当山と呼ばれていた。


「雨宮、お前も来い」

久世が言った。

まちるは、背負っていた三脚の紐を直しながら顔を上げた。

「私ですか。山頂は三角測量班の仕事では」


「本測量をしろとは言っていない。見るんだ」


「見る?」


「ワーフィールド殿は、あの山から本道の大筋に見当をつける。だが、上から線を引いたところで、そのまま馬車道になるわけじゃない」


久世は、広げた地図の上に指を置いた。


「沢がある。湿地がある。急斜面がある。橋を架ける場所も出る。三角の連中は見通しを見る。お前は水準の目で、あとからどこを測るべきか見ておけ」


まちるは、地図の上の線を見た。


山から見れば、道は一本の線に見えるかもしれない。

だが地上では、その線の一本一本が人の足を取り、馬の脚を止め、荷車を沈ませる。


「上で道を決めるんじゃなくて、下で困りそうな場所を見つけるんですね」


「そういうことだ」

久世は短く頷いた。

「お前は、数字を読む前に地面を見る癖がある。こういう現調には向いている」


まちるは少し目を丸くした。

「褒めてます?」


「仕事の話だ」


「久世さんの褒め言葉は分かりにくいですね」


「分かりやすく褒めるほど暇じゃない」


まちるは苦笑した。


「分かりました。行きます」


「標尺持ちも連れていけ。荷もある」


エアノーレは、まちるの後ろで静かに一礼した。

「標尺補助作業ですね」


「今日は標尺補助作業はないけどな。山頂で地形を見るだけだ」


「では、登山探検を補助します」


「おいおい、山に宝はないぞ」


「金品だけが宝になるとは限りません」


まちるは少しだけ笑った。

「……まあ、前向きな姿勢は大事だが」


エアノーレは、少し考えてから頷いた。

「はい。前向きに登山します」


「そこまで真面目に受け取らなくていい」


久世は二人のおかしなやり取りを聞かなかったことにしたように、別の班員へ指示を飛ばした。


エアノーレは藍色のローブを羽織っていた。

白い衣と銀白の髪はかなり隠れているが、それでも風が吹けば、淡い髪色が少しだけこぼれる。

だが、もう測量班の中で、彼女をただ物珍しげに見る者は少なくなっていた。

少し変わっている。

妙に礼儀正しい。

言い回しが硬い。

だが、仕事は真面目にする。

「雨宮班の標尺持ち」として、その存在は自然に受け入れられつつあった。

それで今は、通っていた。




見当山の山頂には、強い風が吹いていた。

室蘭の港が見える。

海岸線が見える。

遠くには山並みが重なり、谷筋が内陸へ伸びている。

この高みから見ると、土地は一枚の地図のようだった。

けれど、まちるには分かる。

上から見える線は、まだ線でしかない。

地上へ降りれば、そこにはぬかるみがある。

沢がある。

岩がある。

馬車が沈む湿地がある。

冬には雪で消える道もある。


ワーフィールドは、地図と方位を見比べながら、周囲の地形を確認していた。

三角測量班の者たちは見通しの利く山や岬を探し、久世は開拓使側の実務に落とし込むように、班員たちへ指示を出している。


まちるは、水準儀を据えるわけではなかった。

ただ、見ていた。

「あの沢、思ったより深いな」

まちるが呟く。


エアノーレが隣で視線を追った。

「距離はありますが、谷筋の影が濃いです」


「影が濃い、か。まあ、そう見えるな。あそこに道を通すなら、橋か迂回だ」


「橋を架ける場合、高低差の測定が必要になります」


「そうだ。いいところを見るようになったな」


「あなたの作業を観察した成果です」


「でも、あんまり観察されるとやりづらい」


「では、視線を弱めます」


「視線は弱めるものじゃない」


「では、観察圧を下げます」


「妙な言葉を作るな」

まちるは半眼で返したが、声はどこか緩んでいた。


その時、ワーフィールドが、まちるの後ろに立つエアノーレに目を留め、近づいてきた。


藍色のローブ。

白い髪。

青い瞳。

そして、短く収められた標尺を脇に抱え、妙に姿勢よく立つ少女。


彼は少し驚いたように眉を上げ、それから愉快そうに笑った。

“Ah, another foreign helper hired by the Kaitakushi. Good.”

(おお、開拓使に雇われた、また別の異国の補助者か。いいことだ)


エアノーレは一拍置いて、静かに答えた。

“Yes. I will assist Miss Amamiya.”

(はい。雨宮さんを補助します)


ワーフィールドは満足げに頷き、エアノーレの抱える標尺を指した。

“Keep the staff steady. A road begins with steady hands. We foreigners hired for this work must do our best out here.”

(標尺はしっかり持つことだ。道は、確かな手元から始まる。我々お雇い外国人同士、この地で頑張らねばな)


“Yes.”

(はい)

エアノーレは標尺を抱え直し、背筋まで正して答えた。

その返事があまりに実直だったので、ワーフィールドが再び地形へ視線を戻した後、まちるはこらえきれず、小さく吹き出した。


「ぷっ。お雇い外国人同士、頑張りましょう、だってさ」


「お雇い外国人」

エアノーレが、聞き慣れない言葉を繰り返す。


「よかったな。異国娘がうまく定着してきて」


「よかったのでしょうか」


「少なくとも、お雇い宇宙人よりはいいだろ」


「そうですが……正確に言えば、わたくしは雇われていません」


「そうだな。給金は出てない」


「では、分類上は無償労働ですか」


「いや、対価としては少ないが、飯は出てる」


「食事が報酬」


「あと、北へ連れていく」


エアノーレは少し考えた。


「そうでした。分類は、条件付き同行任務でした」


その言葉に、今度はまちるが一瞬黙った。


条件だから。

任務だから。

ついでだから。


あの夜、まだそう言っていればよかった言葉が、こんな山の上で戻ってくるとは思わなかった。


雇われているわけではない。

捕まえているわけでもない。

ただの補助者でもない。

かといって、仲間だと言い切るには、まだ少しだけ照れくさい。

けれど、もうただの補助者とは言いきれなくなっている。

まちるは、風に揺れる地図の端を指で押さえながら、言葉を選んだ。


「分類……そうだな。今は、条件付き同行者だ」


「今は、ですか」


「まあ、あまり深く考えるな。北へは必ず連れて行く。怪我だけしないでくれ」


エアノーレは、短く頷いた。

「了解しました」

それ以上、彼女は聞かなかった。


山頂の風が、二人の間を抜けていった。


挿絵(By みてみん)



山頂現調が終わりかけた頃、まちるの羅針盤がかすかに震えた。


風のせいではない。

手ぶれでもない。

針が、北から少しだけ外れた方向へ、細かく揺れている。


まちるは眉を寄せた。

「……ここにも」


エアノーレがすぐに反応した。

「針筋ですか」


「たぶん」


まちるは荷から父・森蔵の地図を取り出した。

古い紙の余白には、通常の測量線とは別の細い印がある。

羅針盤の乱れを拾い、線として記したもの。

だが、ポロチケウ方面に、はっきりした印はない。

近くをかすめるような針筋が一本、途中で途切れているだけだった。


まちるは、その途切れた線と羅針盤の針を見比べる。


「父さんは、ここまでは特定してなかったのかもしれない」


「新規地点、ということですか」


「ああ」

まちるは羅針盤を見た。

針はまだ、落ち着かない。

「でも、ある。きっと、この先に」


「星衣核にも反応があります」

藍色のローブの奥で、エアノーレの胸元が微かに青く灯っていた。


「そっちもか」


「はい。ですので、可能性は高いです」


まちるは周囲を見た。


久世はワーフィールドと短く言葉を交わしながら、山を下りる段取りを決めている。

三角測量班の者たちも、次に押さえる見通しや方角について声を交わしていた。


「久世さんには、なんて言おうか」


「中継器確認のため、と正直に説明しますか」


「するわけないだろ」


「では、どのように」


「海岸線と断崖の地形確認。周辺集落で聞き取り。道路見当の補助調査……かな」


「偽装報告ですか」


「あくまで仕事の範囲内だ」


「地球の仕事概念は柔軟です」


「便利と言え」

まちるは地図を畳んだ。




山を下りたあと、まちるは久世に話を通した。


久世は、しばらく黙って地図を見下ろしていた。

まちるが指したのは、本道の予定線そのものからは少し外れた海岸側だった。


「ポロチケウ方面か」


「はい。海岸断崖の様子を見ておきたいです。道路そのものからは少し外れますが、周辺地形の確認にはなります」


「お前が言うと、ただの寄り道には聞こえんな」


「寄り道ではありません」


「余計に怪しい」


まちるは返事に詰まった。


久世は、まちるの顔を見た。

それから、彼女の背中の三脚と、手にした古い地図へ視線を移した。


「……また、森蔵さんの調べものか」


まちるは、すぐには答えなかった。


否定すれば嘘になる。

だが、すべてを説明することもできない。


「仕事に支障は出しません」

ようやく、それだけ答える。


久世は小さく息を吐いた。

「お前はそう言うと思った」


「すみません」


「謝るところではない。だが、無茶をするところでもない」

久世は地図の端を指で押さえた。

「まあよい。今日は山に付き合わせたからな。あまり長くならないように。日暮れ前には戻れ」


「ありがとうございます」


「礼は戻ってから言え。海岸の崖は、山より性質が悪い」


「分かっています」


「分かっている者ほど落ちる。足元を見るなとは言わん。だが、足元ばかりを見るな」


まちるは軽く頭を下げた。

「はい。周囲をよく確認しながら進みます」


横で聞いていたエアノーレが、真面目な顔で頷いた。

「分類も再確認します」


まちるは、ほんの少しだけ目をそらした。


久世は一瞬、返す言葉を失った。

「……雨宮」


「はい」

「こいつは時々、よく分からんことを言う」


「たぶん、了解しましたということです。あまり深く考えないでください」


久世は、納得したのか、諦めたのか分からない顔で頷いた。


「そうか」



その日のうちに、まちる班はポロチケウ近くの集落へ立ち寄ることになった。






ポロチケウ近くの集落は、海風の強い場所にあった。


家々は低く、屋根は風を避けるように押さえ込まれている。

漁具が干され、細い道の脇には、子どもたちが何人か集まっていた。


まちるが三脚を背負って歩くと、一人が指を差した。


「三脚のお姉ちゃんだ」


別の子が、エアノーレを見上げる。


「ローブのお姉ちゃんもいる」


エアノーレは、少し考えてから丁寧に会釈した。

「以前の村では、白いお姉ちゃんと分類されていました」


「いいじゃないか。私なんか、たぶん分類すらされてなかったぞ」


「いえ、まちるは探検隊でした」


「それ、二人まとめてだろ。雑なやつな」


「ここでは三脚のお姉ちゃんとして個別に分類されています」


「子どもたちはそこまで難しく考えてない」


「こちらの方が、分類の精度が高いようです」


「喜ぶところでもない」


子どもたちは、二人のやり取りを聞いていたのか、慌てて物陰に隠れた。

だが、すぐにまた顔だけ出した。


「ローブのお姉ちゃん、暑くないの?」


「現在の環境温度では、許容範囲内です」


「きょよう?」


「暑くないって意味だ」


まちるが横から言うと、子どもたちは納得したように頷いた。


「お姉ちゃんのローブ、すごいんだね」


「はい。暑くも寒くもなく快適です」


「真面目に答えすぎだ」


まちるが呟くと、エアノーレは少し不思議そうに首を傾げた。

「質問には、正確に回答するべきです」


「子どもの質問は、そこまで正確じゃなくていい」


子どもたちは、二人のやり取りを面白がるように見ていた。


そのうち一人が、まちるに尋ねた。

「お姉ちゃんたちは、どこ行くの?」


「ちょっと崖を見たくて来たんだ」


「崖?」


「ポロチケウの方」


子どもたちは顔を見合わせた。

「あそこ、危ないよ」


「知ってる」


「落ちたら、海まで行っちゃうよ」


「それも知ってる」


「フチが、あそこは風の音が変わるって言ってた」


まちるは足を止めた。

「フチ?」


「うん。古い話を知ってるばあちゃん」

子どもが海の方を指した。

「崖のことなら、フチに聞けばいいよ」


まちるはエアノーレを見た。


エアノーレは小さく頷く。

「聞き取りの必要があります」


「そうだな」


子どもたちの案内で、二人は集落の端にある低い家へ向かった。


その老婆は、囲炉裏のそばに座っていた。

集落の者たちは、彼女をフチと呼んでいた。

土地の古い名や、海の風の癖をよく知っているのだという。


子どもたちに案内され、まちるとエアノーレが戸口で頭を下げると、老婆はまず二人を見た。

それから、まちるの背にある三脚に目を留めた。


「おや、ずいぶん重そうなものを背負ってるね」


「測量の三脚です」


まちるは、背負い紐に軽く手をかけた。


「開拓使の仕事で、土地を測っています」


「土地を測る」


老婆は、三脚をもう一度見た。


「棒を立てて、地図に書く仕事かい」


「それもします。でも、道になる場所や、橋を架けられる場所、水が流れる向きなんかも見ます」


「ほほう」


老婆は、少しだけ身を乗り出した。


「それは、娘が一人で背負うには、ずいぶん物騒な道具に見える」


まちるは苦笑した。

「父の道具です。北方を歩くために、普通の三脚より少し頑丈にできています」


「父親のものかい」


「はい。父が、はかりびとと呼ばれる測量師でした」


「はかりびと」


老婆は、その言葉をゆっくり繰り返した。


「いい言い方だね。ただ地面を測るだけではなさそうだ」


まちるは少しだけ黙った。


「確かに父は、そうだったかもしれません」


「では、あんたもそうなのかい?」


まちるはすぐには答えられなかった。

背中の三脚が、いつもより少し重く感じる。


「……まだ、測っている途中です」


「そうか」

老婆は短く頷いた。

その目が、今度はエアノーレへ向く。


「それで、そちらのローブのお嬢ちゃんは?」


エアノーレは、少し考えてから丁寧に頭を下げた。

「エアノーレです。雨宮まちるの補助をしています」


「補助」

老婆は面白がるように目を細めた。


「あんたも、何かの途中なのかい」


エアノーレは、少しだけ間を置いた。

「はい。そのために、まちるを補助しています」


「三脚のお嬢ちゃんに、補助するローブのお嬢ちゃんかい」


「補助するローブのお嬢ちゃん……」

エアノーレが小さく復唱する。


まちるは横から言った。

「今度は長めだな」


「分類がより複雑になりました」


老婆は、囲炉裏の火を見ながら小さく笑った。

「途中だから、見えるものもある」


まちるとエアノーレは、そろって顔を上げた。


「若さがなければ届かない場所もある。終わってから、見落としていたと気づくものもある。けれど、老いてから、時間が過ぎてからでは、もうそこに届かないこともある」


老婆は、まちるとエアノーレを順に見た。


「今しかない途中の二人にしかできないことも、きっとあろう。だから、途中の今は、とても貴重な時間だ。大事にしなきゃな」


二人とも、返事の代わりに小さく頭を下げた。


囲炉裏の火が、ぱち、と小さく鳴った。

少しだけ、場が静かになりすぎた。


老婆はそれを知っているように、今度はエアノーレの髪へ目を移した。

「それにしても、あんた、海霧みたいな髪だね。風にほどけたら、崖の向こうへ飛んでいきそうだ」


エアノーレは、真面目に髪を押さえた。

「飛散は防ぎます」


「そういう意味じゃない」


まちるがすぐに言うと、老婆はまた声を立てずに笑った。

「変わった子だね」


「ええ。かなり」


エアノーレは、少しだけ不本意そうにまちるを見た。

「変わっている、という評価は継続中ですか」


「今のは更新されたな」


「上方修正ですか」


「横方向だ」


「横方向」


老婆は二人のやり取りを面白そうに眺めていた。


そうして少し空気がやわらいだところで、まちるは本題に入った。


挿絵(By みてみん)


「ポロチケウの崖のことで、少し気になるところがありまして」


老婆の笑みが、ゆっくり薄くなった。


「……子どもたちが何か言ったかい」


「風の音が変わる、と」


「子どもは、怖い話だけはよく覚える」

老婆は、灰の奥に残る小さな火を見た。


「けれど、間違いではないよ」


まちるは黙って続きを待った。


「ポロチケウの崖はね、風が素直に吹かない。海が静かな日でも、崖の下だけが鳴ることがある。岩の奥で、誰かが息をしているみたいにね」


「息を……」

エアノーレが低く繰り返した。


老婆はうなずいた。

「夜に青白く光ったと言う者もいる。船を寄せるな、と昔から言われてきた。近づくと、方角が分からなくなる。海を見ているはずなのに、どちらを向いているのか、ふと分からなくなる」


まちるは、父の地図を思い出した。

途中で途切れた針筋。

北とは違う方向へ震えた羅針盤。

白樺の水辺で見た、普通の土地とは違う反応。


「父は、近くまでは見ていたのかもしれません」


「父親も、その崖をかい?」


「分かりません。でも、地図に途中までの線があります」


老婆は、少しだけ目を伏せた。

「途中で止まった線か」


「はい」


「なら、続きが気になるのは仕方ないね」


まちるは顔を上げた。

「止めないんですか」


「止めて、止まる顔ではないだろう」

老婆は、まちるの三脚をもう一度見た。


「ただし、崖へ行くなら、風が変わったところで長居しないことだ。海の音が遠くなったら、戻りなさい。呼ばれていると思っても、返事をしてはいけない」


エアノーレが真面目に聞き返した。

「返事をすると、危険なのですか」


老婆は少し考えた。

「危ない場所に返事をするとね、人はそこへ歩いてしまうものだよ」


エアノーレは黙った。


まちるも、その言葉を胸に留めた。


老婆は続けた。

「道を知るというのは、通れる場所を知ることだけではない。近づいてはいけない場所を、忘れないことでもある」


まちるは、ゆっくり頭を下げた。

「ありがとうございます」


次に老婆は、エアノーレへ目を移した。

「それと、補助するローブのお嬢ちゃん」


「はい」


「三脚のお嬢ちゃんを、ちゃんと見ておやり」


エアノーレは一瞬、言葉を探した。

「……はい。見ています」


「ならいい」


まちるは少しだけ照れたように、三脚の紐を背負い直した。

「行くぞ、エアノーレ」


「はい」


戸口を出る前に、老婆がぽつりと言った。


「崖は、行くなと言う場所ばかりではない。けれど、行くなら、戻る道を忘れてはいけないよ」


まちるは振り返った。

測量師はかりびとですから」


老婆は小さく笑った。

「なら、なおさらだ」


まちるとエアノーレは、もう一度だけ頭を下げた。


老婆は手を振るでもなく、ただ目元をやわらげて、二人の背を見送った。



外へ出ると、海風がすぐにローブの裾を揺らした。





ポロチケウの断崖は、海へ大きく落ち込んでいた。


後の世に地球岬と呼ばれるその場所には、まだ灯台も展望台もない。

柵もない。

ただ、草と岩と風があった。


風は強い。

だが、不思議なことに、崖の裂け目の近くでは音の響きが変わる。


ただの風ではない。

ただの波音でもない。


まちるは、崖上の低木と岩を確かめた。


根を深く張った木がある。

雨風に削られてなお動かない岩もある。

ロープを回せば、支点は取れる。


「ここなら降りられる」


エアノーレが崖下を見た。


「危険ではありませんか」


「危険だ。だから支点を取る」


まちるはロープを取り出し、低木の根元と岩に縄を回した。

結び目を作り、強く引いて確かめる。


「自然の支点がある。これならいける」


エアノーレは、その手元をじっと見ていた。


「支点がない場合は」


「普通は降りない」

まちるは即答した。


「命綱を預ける場所がなければ、崖には入らない。測量でも山でも、それは同じだ」


「はい」


まちるは結び目をもう一度引き、岩に回した縄がずれないことを確かめた。

「危ない場所へ入るなら、行き方だけじゃ足りない」


「行き方だけでは、足りない」

エアノーレが繰り返す。


「戻る道も、残しておく」

まちるは、崖上から下へ伸びるロープを見た。


「さっきのフチも言ってただろ。戻る道を忘れるな、って」


「はい」

エアノーレは、ロープの先を見上げた。


「戻る道」

その言葉を繰り返してから、少しだけ黙った。


「……帰り道、とも言えますね」


まちるは一瞬だけ手を止めた。


「まあ、そうだな」


「帰り道」

その言葉を繰り返す声が、風に紛れた。


帰り道。

エアノーレの胸元で、藍色のローブの奥にある星衣核が、かすかに熱を持つ。

彼女自身の帰り道は、壊れていた。


星衣核は不完全で、空へ戻る縄は切れかけている。

本部へ続く道も細く、ノースゲートへ至る線も、まだ地図の上には見えない。


けれど、まちるは北へ線を引いている。

道を測り、沢を越え、崖を確かめ、地図に印を残している。


壊れた帰り道を、ただ嘆くのではなく。

明日へ続く線として、少しずつ引いている。


「……戻る道があるから、先へ行けるのですね」

エアノーレが言った。


まちるはロープを引きながら、ちらりと見た。

「そういうことだ」


それから、少しだけ口元を緩める。

「忘れるなよ。あんたは時々、真っ直ぐ行きすぎる」


「まちるもです」


「私はいいんだよ」


「なぜですか」


まちるは背中の三脚を軽く叩いた。


「私は三脚持ちだからな。ほら、こうすれば、一本の線が三本に分かれる」


まちるは三脚の脚を少し開いて見せた。


「真っ直ぐ行くだけじゃなくて、状況に合わせて踏ん張り方を変えられるってことだ」


「それは屁理屈というものです」


「うるさい。さあ、はじめるぞ」


まちるはロープを腰に回し、支点と結び目をもう一度確かめた。


エアノーレも小さく頷き、同じ命綱に手をかける。


「先に降りるつもりか?」


「はい。わたくしが足場を確認します。この程度の姿勢補助なら、今の星衣核でも可能です」


「無理はするな。下で足場を確かめたら、私が続く」


「了解しました」


先にエアノーレが崖へ身を乗り出した。


藍色のローブが風にあおられる。

だが、彼女は片手で岩を押さえ、もう片方の手でロープを握り、濡れた岩の段差へ静かに足を下ろした。


まちるは上からその動きを見ていた。


飛ぶわけではない。

浮くわけでもない。

ただ、足場を見切る精度と、身体を支える一瞬の補助が、人間のそれを少し越えている。


エアノーレが少し下で足を止め、顔を上げた。


「足場、確認しました。続けます」


「分かった。間を空ける。急ぐな」


まちるは三脚を背中に固定し直し、ロープを握った。

エアノーレがさらに少し降りるのを待ってから、まちるも崖へ足をかける。


二人は一本の命綱を頼りに、間を空けながら断崖の下へ降りていった。


崖下は、風と波の音が歪んでいた。


足元の岩は濡れ、海からの風が横殴りに吹く。

まちるは慎重に足場を選び、三脚を背中に固定したまま、片手でロープを握った。


エアノーレは、まちるより少し先を降りている。


「無理するなよ」


まちるが言う。


「現在の動作は許容範囲内です」


「その言い方が無理してるように聞こえる」


「表現を修正します。今は、大丈夫です」


「よし」


岩の裂け目の奥に、それはあった。


黒い器物。


自然石ではない。

鉄でもない。


潮風にさらされているはずなのに、錆びても削れてもいない。

その表面は、光を吸うように暗く、近づくほど風の音が遠くなる。


まちるは息を潜めた。

「これか」


「古帝国軍中継器です」

エアノーレが言った。


「前に見たのと同じだな。こんな崖下にもあるのか」


「人の道だけではありません。この星には、海の流れ、風の通り道、視界が開ける場所、地形の節があります。古帝国軍は、そうした流れが集まる場所に中継器を置いています。まるで、杭を打つように」


「杭、か」

まちるは、濡れた岩に足を置き直した。


「人が近づくなと言ってきた場所に、敵の杭が打たれてる」

 

「長期間、周辺環境へ干渉していた可能性があります」


「だから、風の音が変わる。針が狂う。岩が光る」


「はい。地元の言い伝えとして残る程度には、影響があったのでしょう」


まちるは、黒い器物の前へ膝をつくエアノーレに目を向けた。


「施しか」


「はい。処置を行います」


藍色のローブを羽織ったまま、エアノーレは中継器へ手を伸ばした。

その指先から、淡い青い光が走る。


黒い器物の表面に、星のような細い線が浮かんだ。

線は一瞬だけ脈打ち、すぐに消えた。


風の音が、ふっと遠のく。


まちるは無意識に三脚の紐を握った。


前にも見た光だった。

けれど、白樺の水辺で見た時より、その意味は少しだけ分かる。


壊すのではない。

今すぐ何かが変わるわけでもない。

ただ、地図に印を打つように。

戻るための線を、見えない場所へ残していく。


挿絵(By みてみん)


「完了しました」

エアノーレが静かに言った。


まちるは頷いた。


崖下の岩に、海水が砕ける。

音は戻っていた。

だが、さっきまでの歪みは、少しだけ薄くなった気がした。


「よし、帰るぞ」

まちるはロープを握り直した。


「はい」

エアノーレは、崖上へ伸びる縄を見上げた。


そこには、戻る道があった。

細く、頼りなく、風に揺れながらも、確かに上へ続いている。


二人はロープを使って、再び断崖の上へ戻った。





断崖の上に戻ると、視界が一気にひらけた。


陽は少し傾き、崖下で歪んでいた風の音は、ここではただの海風に戻っていた。

日暮れまでは、まだ少しある。


海は広かった。


エアノーレは、藍色のローブを押さえながら海を見た。

風が、銀白の髪を揺らした。


水平線は、まっすぐではなかった。

青の果てが、ほんのわずかに弧を描いている。


まちるは、しばらく黙ってそれを見ていた。


「水平線って、改めてよーく見ると、平らでないんだな」


エアノーレは、同じ方角を見たまま答えた。


「……この星が、丸いことがよくわかります」


「あんたは上から見てたから、知ってたんじゃないのか」


「知っていました。ですが、ここから見るのとは違います」


まちるは、少しだけ目を細めた。


「あんたにも、そういう違いはあるんだな」


「……あるようです」


風が二人の間を抜ける。


ハクが、まちるの肩の上で小さく鳴いた。


まちるは海を見たまま言った。


「前に、牢獄って言ってたな」 


「この星のこと」


エアノーレは、すぐには答えなかった。


風が、藍色のローブの裾を鳴らした。


「本部の分類では、そうです」


「分類では、か」


「はい」


まちるは、少しだけ笑った。

「便利な言い方だな」


「……便利ではあります」


「認めるのか」


「ですが、足りない言い方でもあります」


まちるは横を見る。


エアノーレは、まだ水平線を見ていた。


「かつて、この星は大きな戦場になりました」


「戦場?」


「はい。トメイン軍と古帝国軍の戦いです。この星は、本来どちらのものでもありませんでした。けれど、その戦いの最中で、古帝国軍はこの星を利用し、魂を幽閉する仕組みを、密かに完成させていました」


まちるは、黙って聞いていた。


波が、崖の下で白く砕ける。


「戦火の真っ只中で、多くのトメイン軍がこの星へ降りていました。古帝国軍の兵も、同じく地上にいました。空も地上も、戦場でした」


「そこへ、その仕組みを動かしたのか」


「はい」


エアノーレの声は静かだった。


「死んだ魂が、この星の外へ出られないようにする仕組みです。記憶を削り、別の肉体へ戻す。生まれ、死に、忘れ、また生まれる。その輪の中へ閉じ込める」


「敵も味方も、まとめてか」


「はい。地上に残っていた多くの古帝国軍の兵も巻き込まれました。ですが、それでも彼らは発動しました。我々トメイン軍の主力を、この星の輪の中へ落とすためなら、犠牲をいとわず、手段を選ばなかったということです」


「……自分たちの兵ごと」


「はい」


まちるは、水平線を見たまま言葉を失った。


「それが、地球牢獄……」


「はい」


「地球へ降りていた、あんたの仲間たちは今も」


「はい。今もこの星の輪の中に落とされたままです」


「……そうなるよな」


「はい。彼らが作ったシステムの管理下に入った魂は、この星の外へは出られません。どこにいても中継器に検出されます。死を迎え、肉体を失った魂は、記憶を削られ、別の命としてまた生まれ直します」


まちるは、少しだけ眉を寄せた。


「それは、古帝国軍だった者も同じ話だよな」


「……はい。地上に取り残された古帝国軍の兵も、同じ輪の中にい続けています」


まちるは、すぐには言葉を返せなかった。


敵も味方も、名前も記憶も削られ、別の命として生まれ直す。

その先にある人生を、誰が敵だった、味方だったと知ることもなく。


頭では、言葉の意味を追えた。

けれど、それを人の生として受け入れるには、あまりに重かった。


「古帝国軍は、今もそれを管理し、利用しているのか」


「はい。彼らにとって都合の悪い魂――自国の反逆者や異端者とみなされた魂は、危険分子としてこの星へ送られています。古帝国軍にとって、この星は今も流刑地として機能しています。そうした魂もまた、自分が何者だったかも分からないまま、人間として生き、そして死を繰り返しています」


「全貌は、分かっているのか」


「いいえ。まだ解明されていません。ですが、我々はその一部を解析したことで、彼らの監視網から姿をくらませて活動する方法を得ました。それが、星衣核によるマスキングです」


エアノーレは、胸元に手を添えた。


「ただし、今のわたくしは星衣核が不完全です。本来のマスキング機能も低下しています」


藍色のローブの下で、星衣核がかすかに光っている。


「ただ、理由は不明ですが、このローブが、外へ漏れる反応をぼかしてくれています。完全ではありませんが、今のわたくしには必要な補助です」


まちるは、自分の母の形見である藍色の布を見た。


「……母さんのローブが、か。不思議だな」


「はい」


エアノーレは静かに頷いた。


「トメイン軍に残された者たちは、地球に囚われた同胞を救済するための計画を続けています。世界各地にいる同胞を見つけ、識別の印を残すこと。そして、古帝国軍の中継器に施しを行い、いつかその網を抜けるための道を作ること。それが、わたくしの任務です」


エアノーレは、そこで少しだけ胸元に手を添えた。


「ただし、今のわたくしは星衣核が損傷しています。同胞かどうかを正確に識別し、印を残す作業はできません」


「人を見つける方は、今は無理なのか」


「はい。ですが、中継器への施しは可能です。だから、今できる作業を続けています」


まちるは、水平線を見た。


「道を作るために、か」


エアノーレは静かに頷いた。


「はい。星衣核が回復すれば、同胞を見つけ、識別する作業も再開できる見込みです」


まちるは、少しだけ間を置いた。


「……正直、話が突拍子すぎて、整理が追いつかない部分だらけだ」


「当然です」


「当然なのか」


「はい。この星の通常知識からは、大きく外れています」


まちるは、言葉を選ぶように水平線を見た。


「…でも、もしそれが本当なら、今この星にいる誰かが、昔はトメインだったかもしれない。古帝国軍だったかもしれない。そういうことになるんだろ」


「はい」


「本人は、そんなこと知らずに生きてる」


「はい。記憶は失われています」


「じゃあ、その人生は、牢獄の中の時間ってことになるのか」


エアノーレは答えなかった。


まちるも、すぐには畳みかけなかった。


崖の下で、波が白く砕ける。


「井戸の村の人たちも、宝を探してた連中も、久世さんたちも…」


まちるは、ゆっくり言った。


「牢獄に閉じ込められてるつもりで生きてるわけじゃない」


「……はい」


「たぶん、父さんもそうだ。地図を描いてた時、自分が牢獄の中にいるなんて思ってなかった」


「はい」


まちるは、そこで少しだけ言葉を止めた。


「……そして、私も」


エアノーレは、すぐには答えなかった。


波の音だけが、二人の間に残る。


「たしか、私は識別できないとか言ってたな」


エアノーレは、藍色のローブの下にある星衣核へ、そっと手を添えた。


「はい。まちるについては、分かりませんでした」


「分からない?」


「はい。あのときの照合では判定できませんでした。トメイン該当なし。古帝国管理登録も不明。地球輪廻系への接続も、通常とは異なります」


まちるは、水平線を見たまま眉を寄せた。

「それは、あんたの星衣核が壊れたせいじゃないのか」


「いいえ。判定作業は、星衣核が損傷する前に行っています」


「……便利じゃないな、分類」


「はい。状況を整理しますと、少なくとも、今はあなたがどの分類に収まるのか、判りかねる状況です。残念ながら、その原因も分かっていません」


その言い方が、あまりにもエアノーレらしかった。

目の前にいる自分が、いまだに何者か分からないという重い話なのに、まるで帳面の空欄を報告するような調子だった。


まちるは、思わず小さく息を漏らした。


「それでも、あんたの言うことが嘘だとは言わない」


エアノーレが、少しだけまちるを見た。

「嘘ではありません」


「あんたの立場も分かってる」


まちるは水平線へ視線を戻した。


「でも、人の人生の根幹が、そんな単純な理屈だけで成り立っているとは思いたくない」


「……そう、思い始めています」


「思い始めてるのか」


「はい。まだ断定はできません」


「それは、測ってる途中だからか」


エアノーレは、少し間を置いて頷いた。


「はい。測っている途中だからかもしれません。いえ、まだ見当山に立っている段階なのかもしれません」


まちるは、今度は少しだけ穏やかに笑った。


「なら、全部測ったとき、あんたに見えたものを聞かせてくれ」


「分かりました」


「私も、まだ測ってる途中だ」


ハクが、肩の上で小さく鳴いた。


エアノーレはハクを見た。


「ハクさんも、測量中ですか」


「ハクはたぶん、腹が減っただけだ」


「そうですか」


「そうだ」


挿絵(By みてみん)


風が吹いた。


その風の中で、エアノーレはもう一度だけ水平線を見た。


「……この星は、広いんですね」


「今さらか」


「はい。今さらです。どうやら、知らないことの方が多いようです」


まちるは、返事の代わりにエアノーレと同じ海を見た。


ポロチケウの海は、どこまでも広かった。


その夜、まちるは地図に新しい印を加えた。


ポロチケウ。

崖下。

中継器。

施し済み。


表の地図には、断崖と集落と道筋が残る。

父の地図には、途中で途切れた針筋が残っていた。

そして、まちるの新しい地図には、その先が書き加えられた。


開拓使の仕事として描く線。

父が残した未完の線。

エアノーレが施しを続ける、星側の見えない線。


それらは、まだ一本にはならない。

けれど、北へ向かうほど、少しずつ近づいているように思えた。



つづく



著:國風惠昂


今回は、見当山からポロチケウの断崖へ向かう話でした。


まちるにとっては父の針筋の続き。

エアノーレにとっては中継器への施し。

そして二人にとっては、「この星をどう見るか」を少しだけ測り直す回になりました。


作中に登場する室蘭は、作者自身が幼少期を過ごした、所縁のある土地でもあります。

明治初期の室蘭については史実を参考にしつつ、作中の時代感をなるべく崩さないよう、物語用に整理しています。


次回は、測量班の仕事がもう少し動きます。

開拓使における道づくりは、決して平坦なものではなく、時に命がけで行われる仕事でした。


まちると、エアノーレの今できる力が、少し試されることになりそうです。


描きかけの地図の先で

ふたりの朝を探して


次回もよろしくお願いします。

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