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第6話 影が覚ますもの(後編)

挿絵(By みてみん)


前編では、村に伝わるわらべうたと、三本の木柱に残された先人様の仕掛け、そして、それらに交わった父の痕跡に触れました。


三つの柱。


三つの影。


そして、影が地面に描く小さな絵。


まちるは測量師として、エアノーレは空を読む者として、子供たちが信じた「宝探し」に向き合います。


土の下で眠っていたものは、金か、宝石か。


それとも――。


つづきのはじまり、はじまり。


どうぞ、お楽しみください。


村外れの古い木柱は、畑の端と林の境にあった。


三本。


杭というには高く、支柱というには役目が分からない。

地上に出ているだけでも、子供の背を越すほどある。


どれも古く、黒ずんでいた。

一本はわずかに傾き、一本は草に半ば埋もれ、もう一本は林の根に抱かれるように立っている。


子供たちは、その周りを取り囲むように立った。


「これ!」


「この柱!」


「昔からあるんだって!」


まちるは一本目の木柱に近づいた。


天端に、浅い切り込みがある。


ただの傷ではない。

刃物で意図的につけたものだ。


二本目にも、似た切り込み。

三本目には、小さな釘の跡のようなものが残っていた。


「ただの目印じゃないな」


エアノーレが横に立つ。


「測量用の標識ですか」


「たぶん違う。もっと古い。もっと簡単な仕掛けだ」


「仕掛け」


「影を使う」


子供たちが身を乗り出した。


「影?」


「宝の影?」


「静かにしてろ。影が逃げる」


「影って逃げるの?」


「うるさいと逃げる」


「本当?」


「たぶん嘘です」


エアノーレが真顔で訂正した。


まちるはエアノーレを見た。


「そこは乗ってくれ」


「虚偽情報の流布は推奨されません」


「子供相手の冗談だ」


「冗談は分類が難しいです」


子供たちは、なぜかますます楽しそうに笑った。


老人も、少しだけ口元を緩めている。


まちるは三脚を下ろした。


「エアノーレ、標尺の用意を」


「はい」


「今日は、ただ立つだけじゃない。柱の高さを見る」


「了解しました」


「あと、勝手に星衣核で地中を調べるなよ」


エアノーレの動きが止まった。


「……なぜ分かったのですか」


「顔に出てた」


「顔面表示機能はありません」


「あるんだよ、お前には」


エアノーレは少しだけ不満そうにした。


「地中反応を走査すれば、短時間で確認可能です」


「駄目だ」


「効率が低下します」


「宝探しは、測って探すから面白い」


「面白さは、目的達成に必要ですか」


まちるは三脚を立てながら言った。


「今日は必要だ」


エアノーレは子供たちを見る。


子供たちは、息を止めるように三本の柱を見つめている。

大人たちも、半信半疑ながら残っていた。


エアノーレは少し黙り、やがて頷いた。


「了解しました。非効率探索を実施します」


「言い方」


「宝探しを実施します」


「よし」


ハクが一本目の柱の根元を嗅ぎ始めた。


「ハクは掘るなよ。まだだ」


ハクは不満そうに鳴いた。


まちるは、まず三本の柱の根元を見た。


一本目は、畑側の乾いた土に立っている。

二本目は、沢の湿りが近く、根元の草が濃い。

三本目は、林の根に抱かれるように立っていた。


まちるは一本目の柱を指した。


「まず、あれからだ。柱の横に標尺を立てるんだ」


「はい」


エアノーレが標尺を伸ばし、一本目の柱の横に添わせるように立てた。


まちるは水準儀を据え、まず柱の根元の地面の高さを読む。


三本の柱は、同じ高さの地面に立っているわけではない。


一本ごとに、根元の地面がわずかに違っていた。


それから、標尺の目盛と柱の天端を見比べる。


「根元の高さと、柱の出ている高さ。両方見る」


二本目。


三本目。


三本の柱の高さは、わずかに違っていた。


ただ古びて沈んだだけではない。


もともと、意図的に高さを変えてある。


「これ、ただの柱じゃない」


子供が聞く。


「じゃあ宝の柱?」


「そう言いたいなら、そうだな」


「やっぱり!」


エアノーレが標尺を持ちながら問う。


「高さの差に意味がありますか」


「ある」


「影の長さに影響します」


「分かってきたな」


「光源高度、柱の高さ、地面の傾斜。すべて影の位置に影響します」


「そうだ。だから、ただ夕方に見ればいいってものじゃない」


「日長の影、という歌詞と対応しますか」


まちるは頷いた。


「父の帳面には、夏至の夕、とある」


「今日は夏至ではありません」


「分かってる。だから、そのまま影を追っても場所はずれる」


まちるは荷の中から、久世に借りた測角器を取り出した。


真鍮の輪。

細い目盛。

小さな覗き筒。


古いが、手入れはされている。


子供たちが目を輝かせた。


「何それ!」


「宝探しの道具?」


「測角器だ」


「そっか、宝探しの測角器!」


まちるは少し考えた。


「……今日はそれでいい」


エアノーレが器械を見る。


「角度を測る装置ですね」


「そうだ」


「水準儀と標尺で高さを測り、測角器で向きを測る」


「複数の情報を統合して、未知の地点を推定する」


「言い方は硬いが、だいたい合ってる」


「だいたい」


「地球はだいたいで回ってる」


「この作業では、だいたいが過剰になると誤差が増えます」


「そこは正確に言うんだな」


まちるは、三本の柱の周りを歩いた。


一本目の足元は比較的締まっている。

三脚も据えられそうだった。


だが、二本目は沢の湿りが近い。

草の下に水が回っていて、踏めば沈む。


三本目は林の根に抱かれていた。

近くに器械を据えれば、根を踏み荒らす。


まちるは低く呟いた。


「三本とも、同じやり方では測れないな」


「では、どうしますか」


エアノーレが問う。


まちるは、三本の柱が見渡せる少し離れた場所を選んだ。

地面は比較的締まっている。

三脚も安定する。


「まず、三本の柱の位置関係を出す」


「水平角ですか」


「それだけじゃ足りない。角度は向きだ。距離がなければ、形にはならない」


エアノーレは少しだけ考えた。


「方向線だけでは、地上位置を確定できない」


「そういうこと」


まちるは三脚を据え、測角器を載せた。


三本の柱を順に覗く。


一本目。

二本目。

三本目。


覗き筒を向けるたび、真鍮の輪の目盛が少しずつ動いた。


「向きはこれでいい」


まちるは測角器から目を離し、荷の中から測縄を取り出した。


「次は距離だ」


「距離」


「この場所から、あの柱まで。歩幅だけじゃ粗い。今日は測縄も使う」


エアノーレが標尺を抱え直す。


「補助します」


「柱の根元まで張れ。強く引きすぎるな。縄が浮くと狂う」


「了解しました」


まちるは観測点に小さな石を置いた。

そこを仮の中心に決める。


測縄が一本目の柱へ伸びる。

土の上を渡り、草の根を越え、柱の根元で止まった。


「一本目、二間と少し」


まちるは帳面に書き込む。


二本目。

沢の湿りに近い柱へは、足元を選びながら縄を張った。


「三間弱」


三本目。

林の根に囲まれた柱へは、まちる自身が回り込み、根を踏まないように縄の通りを変えた。


「二間半」


子供たちは黙って見ていた。


さっきまで騒いでいた声が、いつの間にか消えている。

誰も、宝が逃げるなどとはもう言わない。


まちるは地面へ戻り、棒で印をつけた。


「この地面に、そのままの大きさで描くと大きすぎる。だから縮める」


「縮尺ですか」


「そうだ。二間を一尺にする」


エアノーレは真顔で頷いた。


「地上配置の縮約図を作成するのですね」


「また面白くなくなった」


「正確です」


まちるは小さな石を起点にし、先ほど読んだ角度の方向へ線を引いた。

その線の上に、測った距離を縮めて点を置く。


一本目。

二本目。

三本目。


三つの点を結ぶと、地面の上に、不揃いな小さな三角形が現れた。


「柱は、こういう形で立ってる」


子供たちが、おお、と声を上げる。


「柱が、地面に移った!」


「小さくなった!」


「絵みたい!」


まちるは棒の先で三角形を軽く叩いた。


「絵じゃない。写しだ」


エアノーレが真顔で補足する。


「地上配置の縮約図です」


「だから、それを言うと面白くなくなる」


「正確です」


「宝探しは少し不正確な方が面白い」


「非効率です」


「今日はそれでいい」


まちるは一本目の柱へ視線を戻した。


「直接、影を出せるのはあれだけだ」


「理由は」


「足元が持つ。三脚を据えられる」


「残り二本は」


「一本は沈む。もう一本は根を踏む」


エアノーレは、二本目と三本目を見る。


「測定環境が不安定」


「そういうこと」


「では、一本目のみで夏至の影を確認し、残り二本は位置関係と高さから復元する」


まちるは、少しだけ驚いたようにエアノーレを見る。


「分かってきたな」


「学習中です」


「じゃあ、空は任せた」


「空」


エアノーレは顔を上げた。


まちるは測角器を抱え直し、一本目の柱の近くへ三脚を移した。


「エアノーレ」


「はい」


「夏至の夕方、この村で太陽がどのあたりに来るか。出せるか」


「星衣核損傷中のため、正確な天測照合は不完全です」


「だいたいでいい」


エアノーレは一瞬、まちるを見る。


「地球はだいたいで回っている、ですか」


「そうだ」


「了解しました」


エアノーレは空を見上げた。


青い瞳が、薄い光を帯びる。

胸元の星衣核はローブの下で弱く明滅した。


「夏至の夕刻。緯度、季節差、地球自転軸を概算。太陽方位を推定します」


「宝の場所まで出すなよ」


「出せません。わたくしが読むのは空です」


まちるは測角器を三脚に据えた。


「十分だ。地面は私が読む」


エアノーレは、空の一点を見つめた。


「夏至の夕刻なら、太陽は現在より北寄り、かつ低い位置にあります」


「その高さを、こっちに合わせる」


「実際の太陽を覗くわけではありません」


「分かってる。青空を覗くだけだ」


まちるは測角器を動かした。




挿絵(By みてみん)




エアノーレの示す、夏至の仮想の空。

そこに覗き筒の向きを合わせる。


「もう少し上です」


「ここか」


「わずかに右」


「ここ」


「一致しました」


まちるは目盛を読んだ。


「……この角度か」


子供たちが身を乗り出す。


「何が分かったの?」


「影の長さだ」


まちるは一本目の柱を見た。


「柱の高さが分かって、太陽の高さが分かれば、影がどれくらい伸びるか分かる」


「太陽がないのに?」


「夏至の太陽を、エアノーレが読んだ」


エアノーレは真顔で言う。


「仮想太陽位置です」


「それだと面白くない」


「夏至の太陽です」


「よし」


まちるは棒で地面に線を引いた。


一本目の柱から、夏至の夕方に伸びるはずの影。


それは、今そこにある影ではない。

空を読み、角度を読み、高さを測り、地面に作り直した影だった。


「影は答えじゃない」


まちるは低く言った。


「線だ」


「線ですか」


エアノーレが言う。


「そう。線が、輪郭を作る」


まちるは、ふと父の帳面にあった針筋を思い出した。

見えないものの輪郭を、線で探す。

やっていることは、少し似ている


エアノーレは黙った。


その言葉の輪郭を、そっとなぞるように。



まちるは、観測点で出した三本の柱の縮約図を見直した。


二本目。

三本目。


そばに三脚は据えられない。

けれど、位置関係ならもう地面に写してある。

高さも読んだ。


そして、夏至の太陽の向きと高さも分かっている。


「一本目の影がこれだけ伸びる。なら、二本目は高さの分だけ短い。三本目は、こっちが少し長い」


まちるは縮約図の上に線を足した。


二本目の影。

三本目の影。


三本の影は、交わらなかった。


けれど、影の先端を結ぶと、小さな三角形ができた。


子供たちが息を呑む。


「影が……絵になった」


「わらべうたの通りだ」


老人が、小さく呟いた。


三つの柱。

三つの影。

地に描かれた、小さな絵。


まちるは、その三角形を見つめた。


「火と木のあわいに、要あり」


エアノーレが童歌の一節を口にする。


「要とは、中心点ですか」


「たぶん、そこまで難しくない」


まちるは三角形の内側を指した。


「先人は、ここを見ろと言ったんだ」


「これは縮約図です」


エアノーレが静かに言う。


「実際の位置へ戻す必要があります」


「分かってる」


まちるは三角形の内側に印をつけた。


「この点を、元の大きさへ戻す」


まちるは観測点からの向きと距離を取り直した。

小さな図の上で出た場所を、実際の地面へ返していく。


子供たちは、誰一人として口を挟まなかった。


やがて、まちるの棒の先が、林の縁の草むらで止まった。


柱から少し離れた場所。

小さな石が三つ並び、草の色がそこだけ少し濃い。


ハクが先に走った。


「ハク!」


白い体が、草の中へ潜る。


小さな前足で、土を掻く。


そして、いつものように木の実を一つ置いた。


子供たちが歓声を上げる。


「ハクが見つけた!」


「白いリス、すごい!」


エアノーレは真顔で言った。


「ハクさんは、宝探査能力を有しています」


「ただ木の実を埋めたいだけかもしれない」


「結果として有効です」


「そこは否定できないな」


まちるは、ハクの示した場所に膝をついた。


草を避け、土に手を当てる。


少し湿っている。


「……ここだ」


掘るのは、子供たちにとって一番楽しい作業だった。


だが、まちるはすぐに止めた。


「待て。乱暴に掘るな」


「なんで?」


「何があるか分からない。壊すぞ」


「宝、壊れる?」


「壊れる宝もある」


子供たちは急に慎重になった。


まちるは三脚の脚先で土を少しずつ崩し、手で柔らかい土を避ける。

エアノーレは横で伸ばした標尺を抱えたまま見守っていた。


「手伝え」


「掘削ですか」


「そうだ」


「標尺を収納してもよろしいですか」


「今はいい」


エアノーレは標尺の留め具を外した。


長く伸びていた標尺が、節ごとに縮み、からり、と小さな音を立てて短く収まる。


それを地面に丁寧に横たえると、エアノーレは藍色のローブの裾を片手で押さえた。


まちるは思わず言う。


「ローブ、汚すなよ」


「努力します」


エアノーレは真顔で答え、それから白い袖口を少しだけ折り返した。


慣れた仕草ではなかった。

土を掘るための動きというより、土を掘ろうと学んでいる者の動きだった。


まちるは、少しだけ目を細める。


「……腕まくり、できるんだな」


「作業に適した衣服状態へ移行しています」


「腕まくりって言え」


「腕まくりです」


エアノーレはまちるの横にしゃがんだ。


白い手が、土に触れる。


まちるが思わず見る。


「汚れるぞ」


「土です」


「嫌じゃないのか」


エアノーレは少し考えた。


「以前なら、不要な接触と判断しました」


「今は?」


「宝探し中です」


まちるは笑った。


「そうか」


星から来た任務者が、明治の村外れで、ローブの裾を気にしながら袖をまくり、子供たちと一緒に土を掘っている。


まちるはその光景を見て、何かが胸の奥で少しだけ緩むのを感じた。


やがて、指先に固いものが当たった。


「箱!」


子供が叫ぶ。


小さな木箱だった。




挿絵(By みてみん)




黒ずみ、ところどころ腐りかけている。

だが、蓋はかろうじて残っていた。


まちるは慎重に開ける。


中には、古い木札と、数枚の古銭。

そして、小さく折り畳まれた紙が入っていた。


子供たちは、少し拍子抜けした顔をした。


「……金じゃない」


「宝石でもない」


「古いお金はあるぞ」


「少ない」


まちるは、まず木札を手に取った。


表には、三つの影を表すような刻みがある。

裏には、短い言葉。


――火と木のあわい。

――三つの影を知る者のみ、石を退けよ。


まちるは折り畳まれた紙を広げた。


字は古い。

滲んでいる。

それでも読める部分があった。


――この場所、困りし時に開くべし。

――今ある井を乱すな。


まちるは、紙の下に描かれた簡単な図を見る。


三本の柱。

影の線。

そして、柱から少し離れた場所に描かれた、石を示す印。


まちるは顔を上げた。


「あそこの林か」


老人が息を飲む。


「そこに何かあるのか」


「まだ分かりません」


まちるは、林の根元へ向かった。


苔の生えた石があった。


先ほど縮約図から戻した場所から、さらに少し先。

草に隠れ、土に半ば沈んでいる。


ハクがその上に乗り、短く鳴く。


まちるとエアノーレ、村の男たちで石を少しずつ動かす。




挿絵(By みてみん)




重い。


土に噛んでいる。


だが、石が半分ほどずれた時、下から冷たい空気が抜けた。


そして、細い音がした。


ちょろ、という音。


子供たちは黙った。


大人たちも黙った。


石の下から、澄んだ水が少しずつ染み出していた。


井戸の濁った水とは違う。

冷たく、透明な水だった。


老人が膝をつく。


手ですくい、光にかざす。


その手が、少し震えていた。


「……こんなところに」


誰かが呟いた。


「本当に、あったのか」


女たちが桶を持ってくる。

男たちが石を慎重に動かす。

子供たちは、さっきまでの宝探しの騒ぎを忘れたように、水を見ていた。


「これが、宝?」


一人が小さく言った。


まちるは静かに頷いた。


その言葉を引き取るように、老人が言った。


「そうだ」


声が震えていた。


「これが、宝だ」


子供は、まだ少し不思議そうな顔をしている。


「金じゃないのに?」


老人は笑った。


泣きそうな顔で笑った。


「金より助かる」


その言葉で、村の大人たちの空気が変わった。


誰かが手を合わせる。

誰かがまちるに頭を下げる。

子供たちはようやく、少し誇らしそうに胸を張った。


「見つけた!」


「探検隊、すごい!」


「だから測量だって」


まちるは言ったが、強くは否定しなかった。


エアノーレは、水の染み出す場所を見つめていた。


その横顔は、ひどく静かだった。


水口は、すぐに大きく使えるものではなかった。


まちるは村の男たちに、周囲を崩さないようにすること、いきなり掘り広げないこと、井戸の水が落ち着くまで沢水と併用することを伝えた。


村の大人たちは、真剣に聞いた。


「すぐ広げちゃ駄目なのか」


子供が聞く。


まちるは頷く。


「水も道も、無理に使えば傷む」


エアノーレがこちらを見る。


「傷む」


「そうだ。水の筋も、地面も、人の道具も、使い方を間違えれば壊れる」


エアノーレは、水口を見つめた。


「先人様も、これを発見した時、最大効率で利用することを考えなかったのでしょうか」


まちるは少し考えた。


「その時は、今ある井戸で足りてたんだろ。なら、無理に使う必要はなかった」


「なぜですか」


「水の筋は、掘れば増えるわけじゃない。使い方を間違えれば、細ることも、枯れることもある。今の井戸で暮らせるなら、こっちは本当に困った時まで残しておく。そういう考え方もある」


エアノーレは、また水口を見る。


小さな水の音がしている。


「未来のために、使わずに残す」


「そうだな」


「それは……施しに近いです」


まちるは少し驚いて、エアノーレを見た。


「これが?」


「はい。今すぐ成果を得るためではなく、未来の誰かが困った時に届くように仕込む」


エアノーレは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「これは、地球の施しです」


まちるは黙った。


その言葉は、不思議と胸に残った。


地球の施し。


それは、父が作ったものではない。


もっと前の誰かが、村の未来のために残したものだった。

水が足りるうちは眠らせておけと、歌に隠し、柱に隠し、土の下にそっとしまっておいたものだった。


父は、それを見つけた。


見つけて、開けなかった。


荒らさず、急がず、ただ言葉だけを残した。


本当に困った時は、はかりびとに相談しろ、と。


まちるは、水口の細い音を聞いた。


分からないことは、まだ多い。


けれど、そこには確かに、誰かが未来を思った跡があった。

そして、その跡を壊さず守った父の手も、たしかに重なっていた。


エアノーレは、まちるを見る。


その青い瞳に、夕方の光が映っていた。


「まちる」


「何だ」


「わたくしは、まだ地球の判断基準を理解できていません」


「だろうな」


「ですが」


エアノーレは水口へ視線を戻した。


「今日のこれは、覚えておきます」


まちるは、少しだけ笑った。


「そうしろ」


ハクが水口のそばで、また木の実を置こうとしていた。


「ハク、それは水に入れるな」


ハクが止まる。


エアノーレが言った。


「ハクさんも、贈り物をしようとしています」


「それはたぶん貯蔵だ」


「未来への備蓄です」


「言い方を変えると立派に聞こえるな」


子供たちが笑った。


その笑い声は、濁った井戸端で聞いたものとは違っていた。


軽く、温かく、村の空気に溶けていった。






その夜、村の女たちが、少しだけ湯を沸かしてくれた。


まだ水の心配が消えたわけではない。

井戸の濁りも、すぐに抜けたわけではなかった。


それでも、土にまみれたエアノーレを見て、女たちは「手だけでも、顔だけでも」と湯を分けてくれた。


板壁に囲まれた小さな湯小屋の一角に、衝立で仕切られた簡素な湯場があった。

立派な湯船ではない。木桶に汲んだ湯を使い、身体についた泥を流すためだけの、ささやかな場所だ。

それでも、冷えた身体を温めるには十分だった。




「湯を借りろ」


「入浴ですか」


「泥を落とすんだよ」


エアノーレは少し考え、胸元に手を当てた。


「その前に、星衣核を一時分離します」


「外せるのか」


「短時間なら可能です。ただし、同調距離を保つ必要があります」


エアノーレは胸元の星衣核をそっと外した。

青白い光が、藍色のローブに包まれると、ふっと弱まる。


それを、まちるへ差し出す。


「これを、あなたに預けます」


まちるは、受け取る手を一瞬止めた。


「……そんな大事なもの、私でいいのか」


「あなたでなければ、渡しません」


まちるは何も言えなくなった。


「落とすなよ、と言いたいところだけど、落とすのは私か」


「落とされた場合、わたくしが困ります」


「私も困る」


先に手早く泥を落とし、村人から借りた浴衣に着替えたまちるは、髪を下ろしたまま、湯小屋の衝立の手前側に腰を下ろした。

膝の上には、藍色のローブに包んだ星衣核。

包みの隙間からこぼれる青白い光が、指先と浴衣の柄をほのかに照らしている。


傍らには三脚。

肩にはハク。


衝立の向こう、湯気の奥には、エアノーレの白い頭だけがかすかに見えた。

板壁に湯気がにじみ、桶で湯をすくう音、肩へ湯をかける音が、静かな夜の中に柔らかく響いていた。




挿絵(By みてみん)




「まちる」


「何だ」


「地球人は、なぜ身体に湯をかけるのですか」


「汚れを落とすためだ」


「水では不十分ですか」


「不十分ってほどじゃないが、湯の方が落ちるし、温まる」


「温まる」


「気持ちいいんだよ」


「気持ちいい」


「そこから説明が要るか」


少し間があった。

また、桶に湯を汲む音がして、湯気の向こうの白い頭がわずかに揺れた。


「……温度が高いです」


「熱いなら水を足せ」


「これは危険行為ではありませんか」


「風呂だ」


「地球人は、危険行為を日課にしているのですか」


「大げさだな」


また、湯をかける音がした。


「ですが」


「何だ」


「……嫌いではありません」


まちるは、思わず笑った。


「お前、それ完全に覚えたな」


「宝探し以降、使用頻度が増えています」


「そこまで分析するな」


エアノーレは少し黙った。


「星衣核は、問題ありませんか」


まちるは膝の上の包みに目を落とした。

藍色の布越しに、かすかな光の脈が伝わってくる。


「ちゃんとここにある」


「同調線は維持されています」


「そうか」


衝立の向こうで、ほっとしたような間があった。


それから、エアノーレが静かに言った。


「あなたが持っていると、揺れが少ないです」


まちるは、少しだけ黙った。


「……そういうことを、急に言うな」


「不適切でしたか」


「いや」


まちるは、藍色の包みを抱え直す。


「悪くない」


衝立の向こうで、エアノーレが少し考える気配がした。


「悪くない、とは」


「今日は合格」


「また、それですか」


「便利なんだよ」


ハクが肩の上で、小さく鳴いた。


まちるは三脚に手を置いたまま、静かに夜を見張った。


衝立の向こうでは、湯気が淡く揺れている。

藍色の包みの中で、星衣核の光は弱く、確かに脈打っていた。




その夜。


まちるたちは、村の家の空き部屋を借りた。


久世から渡された包みは、まだ荷の奥にしまってある。

ありがたいことに、この夜はそれを開かずに済んだ。


村人たちが礼として、温かい汁と握り飯を出してくれたからだ。


エアノーレは汁を両手で持ち、少しずつ飲んでいる。


「熱いか」


「熱いです」


「冷ませ」


「冷却を待っています」


「ふうふうしろ」


「ふうふう」


「口で言うな」


エアノーレは少しだけ息を吹きかけた。


まちるは笑いそうになりながら、自分の握り飯をかじる。


ハクは横で、もらった木の実を抱えていた。


外では、子供たちの声がまだ聞こえている。


「明日も宝探しする?」


「もう宝は見つかっただろ!」


「でも白いお姉ちゃん、また来るかな」


「探検隊だから、また行っちゃうよ」


まちるは、少しだけ黙った。


探検隊ではない。


測量班だ。

雨宮班だ。

北へ向かう途中の、ただの一日だ。


でも、子供たちにとっては、今日のことは宝探しだった。


まちるは荷から父の地図を出した。


広げると、紙の上に、これまでの線が浮かぶ。


父が引いた線。

まちるが継いだ線。

白樺の水辺の印。

施し済みの小さな記号。


その余白に、まちるは新しく書き込んだ。


――三つの影。

――先人の贈り物、確認。

――村の井、水濁る。別口あり。

――ハク、木の実一つ置く。

――エアノーレ、宝探しを任務外活動と分類。


横で覗き込んでいたエアノーレが言った。


「最後の記録は必要ですか」


「必要だ」


「中継器座標ではありません」


「だからいいんだ」


「任務記録でもありません」


「地図だ」


エアノーレは、不思議そうにまちるを見る。


まちるは筆を置いた。


「忘れたくないものも、地図に残していい」


その言葉に、エアノーレは返事をしなかった。


ただ、地図の余白を見つめていた。


やがて、静かに言う。


「今日の出来事は、あなたにとって重要ですか」


「たぶんな」


「森蔵さんの地図に関係したからですか」


「それもある」


「村の困難を解決したからですか」


「それもある」


「では、なぜですか」


まちるは少し考えた。


外では、子供たちの声が遠ざかっていく。


水口の音は、ここまでは聞こえない。

けれど、あの冷たい水のきらめきは、まだ目の奥に残っていた。


「一緒に見つけたからだろ」


エアノーレは、まちるを見る。


「一緒に」


「私と、あんたと、ハクと。村の子供たちもだ」


ハクが、木の実を抱えたまま短く鳴いた。


エアノーレは、小さく頷く。


「では、記録する価値があります」


「そういうことだ」


「まちる」


「何だ」


「宝探しは、非効率でした」


「まだ言うか」


「ですが」


エアノーレは、ほんの少しだけ、言葉を選んだ。


「嫌いではありません」


まちるは筆を持ち直した。


地図の余白に、小さくもう一行を書き足す。


――エアノーレ、宝探しを嫌いではない。


「それも記録するのですか」


「必要だ」


「なぜ」


「忘れたくないからだ」


エアノーレは、少しだけ困ったように黙った。


そして、かすかに目を伏せた。


「……では、訂正します」


「何を」


「宝探しは、嫌いではありません」


まちるは笑った。


「さっきと同じだ」


「いいえ」


エアノーレはまじめな声で言った。


「少し、好きです」


まちるは筆を止めた。


それから、余白のさらに端に、小さく書いた。


――少し、好き。




挿絵(By みてみん)




ハクが木の実を転がした。


まちるはそれを拾い、地図の横に置く。


「これは埋めるなよ」


ハクが不満そうに鳴く。


エアノーレが言う。


「ハクさんは、未来への備蓄を要求しています」


「この地図には埋めるな」


「了解しました。地図への埋設は禁止です」


「お前も変なことを覚えるな」


エアノーレは少しだけ首を傾げた。


その表情は、出会った時よりも、ほんの少しだけ柔らかかった。




翌朝、村の井戸端には、昨日より少しだけ明るい声があった。


濁りが完全に消えたわけではない。

水口も、すぐに村を救う万能のものではない。


それでも、別の道があると分かった。


困った時に開ける場所があると分かった。


それだけで、人の顔は変わる。


子供たちは、まちるたちの出発を見送りに来た。


「また来てね!」


「探検隊!」


「宝探しの人!」


まちるは荷を背負い直す。


「測量班だ」


「雨宮探検隊!」


「違う」


「白いお姉ちゃんも!」


エアノーレが真顔で答える。


「わたくしは雨宮班臨時補助です」


子供たちは首を傾げた。


「長い!」


「じゃあ白いお姉ちゃんでいい!」


「分類が雑です」


まちるは笑った。


「地球はだいたいで回ってるからな」


「その運用思想には、やはり不安があります」


「少しは慣れろ」


「努力します」


老人が、まちるに小さな紙包みを渡した。


「これは?」


「木札の写しだ。本物は村で預かる。だが、そこに刻まれていた言葉は、あんたの父の帳面に繋がるものだろう」


まちるは紙包みを開いた。


薄い紙に、木札の刻みが写し取られていた。


三つの影。

火と木のあわい。

石を退けよ。


まちるは、その文字をしばらく見つめた。


「火と木のあわい……」


子供が、まちるの手元を覗き込む。


「それ、どういう意味だったの?」


まちるは少し考えた。


「火と木の間なら、水だ」


「水?」


エアノーレが静かに言った。


「七曜の並びで考えるなら、火曜と木曜の間は水曜です」


子供たちは、よく分からないという顔をした。


まちるは苦笑する。


「難しく言うな。のあと、もくの前。その間にあるのがすいってことだ」


老人が、深く息を吐いた。


「水曜……いや」


老人は、紙に写された文字から目を離し、子供たちの方を見た。


「歌では、どう続いていた」


子供の一人が、少し考えてから口ずさんだ。


「火と木のあわいに、要あり……」


老人の表情が変わった。


「火と木のあわい。そこに、要」


エアノーレが首を傾ける。


「水曜が、要であるという意味ですか」


まちるは、ふと顔を上げた。


「水要日」


「水要日?」


子供が聞き返す。


「水が要る日、ってことだ」


老人の目が、かすかに見開かれた。


「おお……そういうことか」


その声は、かすかに震えていた。


「水が要る日になったら、目を覚ませ。そういう意味だったのかもしれん」


子供たちは顔を見合わせた。


「じゃあ、昨日がその日?」


「水が必要な日?」


まちるは頷いた。


「たぶんな」


エアノーレが、木札の写しへ目を落とす。


「金かと思うて、土おこせ。土の下より、目を覚ます」


「金じゃなかった」


まちるは言った。


「でも、金より助かるものだった」


老人は、静かに頷いた。


「先人さまは、宝を隠したんじゃない。水を眠らせておいたんだな」


その言葉に、まちるは紙包みを丁寧に畳んだ。


「父さんは、それに気づいて、開けなかった」


エアノーレは、静かに頷いた。


「はい。まだ、その日ではなかったからですね」


昨日の水口のそばで交わした言葉を、思い出しているようだった。




未来のために、使わずに残す。


まちるは、少しだけ遠くを見る。


父は、答えを見つけた。

けれど、手をつけなかった。


それは諦めではなく、残すという判断だったのだろう。


老人は、まちるに向かって小さく頭を下げた。


「昨日が、その日だった」


まちるは静かに頷き、紙包みを荷の中へしまった。


「……預かります」


「うむ。持っていきなさい」


老人は、少しだけ笑った。


「名も知らん男の言葉が、あんたに届いた。なら、それはもう、あんたの旅の一部だろう」


まちるは紙包みを見つめた。


古い刻み。

三つの影。

先人の贈り物。


「……ありがとうございます」


老人は頷いた。


「北へ行くのか」


「はい」


「なら、足元を見て行け」


まちるは少し笑う。


「それは、得意です」


エアノーレが横で言った。


「わたくしは学習中です」


老人は不思議そうにエアノーレを見る。


「そうか。なら、よく学びなさい」


「はい」


エアノーレは、まじめに頭を下げた。


ハクがまちるの肩で尻尾を振る。


村を出る道は、朝の光で少しだけ白く見えた。


まちるは歩き出す。


エアノーレが半歩後ろにつく。

ハクが肩で揺れる。


地図の余白には、昨日の線が増えていた。


それは中継器の座標ではない。

古帝国軍の記録でもない。

トメイン軍の任務報告でもない。


けれど、確かに旅の一部だった。


父が開けずに残したもの。

先人が未来へ隠したもの。

まちるとエアノーレが一緒に見つけたもの。


北へ向かう道は、まだ長い。


でも、その朝、まちるは少しだけ思った。


地図に残すものは、距離や高さだけではないのかもしれない。


誰かが未来のために隠したもの。

誰かが困った時に届くもの。

誰かと一緒に見つけたもの。


そういうものも、きっと線になる。


まちるは振り返らなかった。


ただ、少しだけ歩幅を緩めた。


エアノーレが隣に並ぶ。


「まちる」


「何だ」


「次の宝探しは、いつですか」


まちるは横目で見る。


「またやりたいのか」


エアノーレは少しだけ間を置いた。


「任務外活動としては、価値がありました」


「それ、好きって言えばいいんだよ」


「……少し、好きです」


まちるは笑った。


ハクが鳴いた。


二人と一匹は、また北へ歩き出した。


三つの影が示した贈り物は、村に残った。


けれど、その日の光と、水の音と、子供たちの笑い声は、まちるの地図の余白に、確かに刻まれていた。




つづく。


挿絵(By みてみん)


本作品はフィクションです。

実在の歴史・技術・地理・人物等を参考にしつつ、独自設定と創作を交えて構成されています。



著:國風惠昂

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第5話・第6話「影が覚ますもの」は、まちるの測量、エアノーレの星の知識、そして村に残されたわらべうたを組み合わせた、ハートフルな宝探しエピソードになりました。


「三つの影の宝」という、子供たちの素朴な言葉から始まった宝探し。

けれど、その正体は金銀財宝ではなく、困った時のために眠らされていた水でした。


すぐに使わず、未来の誰かのために残しておく。

それを、エアノーレは「地球の施し」と受け止めます。


この言葉は、彼女自身が担うサルベーション計画――トメイン軍IS-BE救済のための、中継器への「施し」とも重なります。

今すぐ結果を得るためではなく、いつか届くように仕込むもの。

その意味を、エアノーレが地球の人々の営みから少しずつ学んでいく回でもありました。


また、まちるにとっては、父・森蔵が「見つけたのに開けなかった」理由を知る回でもあります。

父は答えを見つけていた。

けれど、まだその日ではないと判断して、壊さず、急がず、言葉だけを残した。


その判断が、まちるたちの手で、ようやく必要な日に繋がりました。


そして最後、地図の余白には、距離や高さだけではないものが書き込まれます。

ハクの木の実。

エアノーレの「少し、好き」。

村の子供たちの笑い声。

そうしたものもまた、まちるにとっては旅の一部であり、地図に残す価値のある線なのだと思います。


次回から、二人と一匹はまた北へ向かいます。

測量師の地図と、星から来た任務者の施し。

その二つの線が、これからどこへ繋がっていくのか。


儚くも輪廻に組み込まれた牢獄の中で、生きる意味を見つけ、進む者たち。

星の任務者は、その姿に何を見るのか。


引き続き、まちるとエアノーレの旅を見守っていただけたら幸いです。


國風惠昂

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