第5話 影が覚ますもの(前編)
雨宮班が、ほんとうの意味で動き出したのは、その翌朝からだった。
開拓使測量課、後続水準測量班第4班。
通称、雨宮班。
正式には、まだ二人班ではない。
雨宮まちる一人に、臨時補助としてエアノーレが一人。
そして、白いエゾリスのハクが一匹。
久世は、はっきり言った。
正式な雇いではない。
帳面も書かせるな。
水準儀にも触らせるな。
標尺持ちと荷運びまで。
責任はすべて、雨宮まちるが持て。
まちるにとっては、それで十分だった。
雨宮班は、止まらずに済んだ。
朝の沢筋は冷えていた。
夜のうちに降りた露が、まだ草の先に残っている。
細い流れの上には、薄い靄がかかっていた。
川というほど大きくはない。
だが、荷馬が足を取られれば厄介で、荷車なら迂回を考えるような沢だった。
まちるは三脚を下ろした。
木製の脚。
真鍮の金具。
父が北方踏査用に手を入れた、重く、丈夫な三脚。
その上に水準儀を据える。
エアノーレは、少し離れた場所で標尺を抱えていた。
藍色のローブを羽織り、銀白の髪をなるべく隠し、白い星衣の光を押さえている。
それでも、朝靄の中では、彼女だけが少し別の世界の輪郭を持っているように見えた。
「エアノーレ」
「はい」
「そこに立つな」
エアノーレは、足を止めた。
「視準線は通ります」
「見通しじゃない」
まちるは水準儀の脚を調整しながら言った。
「足元だ」
エアノーレは足元を見る。
草がある。
土がある。
少し湿っている。
それだけに見えた。
「目視上、障害はありません」
「草の下に水が回ってる」
「水」
「そこに立ったら沈む。標尺が真っ直ぐでも、地面が動いたら全部狂う」
エアノーレは、標尺を抱えたまま沈黙した。
それから、慎重に一歩戻る。
「では、どこに立てばよいですか」
「少し右。いや、そこも駄目だ。ハクを見ろ」
ハクは、まちるの肩から飛び降りていた。
白い小さな体が、湿った草を避けるように跳ね、沢の縁に出た石の上へ乗る。
そこだけ、苔は薄く、石の表面が乾いていた。
まちるは顎で示す。
「あそこだ」
「ハクさんが選んだ地点ですか」
「そうだ」
「わたくしは、ハクさんを基準にすべきですか」
「少なくとも足元に関してはな」
エアノーレは一瞬、まじめに考え込んだ。
「現在、わたくしはハクさん以下ですか」
「足元に関してはな」
ハクが石の上で得意げに尻尾を振った。
エアノーレは、ほんの少しだけ眉を下げた。
「屈辱です」
「リスに負けるのは悔しいか」
「わたくしは星衣任務者です」
「今は標尺持ちだ」
「……はい」
「標尺持ちは、地面を見る」
エアノーレは、石の手前まで歩き、草の倒れ方、土の色、沢の水が染み出している筋を見た。
それから、少しだけ位置を変える。
「ここはどうでしょうか」
まちるは水準儀を覗いた。
「悪くない」
「悪くない、とは」
「今日は合格」
エアノーレは標尺を地面につけた。
「標尺保持、開始します」
「だから、いちいち任務っぽく言うな」
「では」
エアノーレは少し考える。
「立ちます」
「それでいい」
「地球の言語は簡略化が多いです」
「また地球のせいにしてる」
まちるは水準儀を覗き込んだ。
標尺の目盛りが、朝靄の向こうでぴたりと止まっている。
その静止は、やはり見事だった。
人間なら、息をするだけで少し揺れる。
力んでも、緩めても、標尺はわずかに傾く。
だが、エアノーレは動かない。
星衣核が損傷しているとはいえ、姿勢保持の精度だけは、まだ人間離れしていた。
「読み」
エアノーレが答える。
「一・二九六」
「もう一度」
「一・二九六」
「よし」
まちるは帳面に数値を書く。
エアノーレがこちらを見た。
「誤差はありますか」
「今のところはない」
「では、ハクさんに追いつきましたか」
「まだだな」
「なぜですか」
「ハクは、自分で安全な場所を選んだ」
エアノーレは石の上のハクを見る。
ハクは、完全に勝ち誇った顔をしていた。
「……学習します」
「そうしろ」
まちるは小さく笑った。
朝の沢筋に、二人と一匹の声が少しだけ響いた。
昼前には、沢筋の測量は一段落した。
まちるは帳面を閉じ、肩の力を抜く。
「今日はここまででいいだろう」
「予定区間の完了率は」
「八割くらい」
「残り二割を継続しない理由は」
「腹が減った」
エアノーレは、少し間を置いてから言った。
「合理的です」
「分かってきたじゃないか」
「生命活動維持に必要な判断です」
「そこまで言うと、また面倒だ」
ハクがまちるの肩に戻る。
その時、沢の向こうから声がした。
「雨宮」
久世だった。
濃い外套を羽織り、測量帳を手にしている。
後ろには、荷を運ぶ人夫が一人。
久世は、まちるの帳面と、水準儀の据え方を順に見た。
「終わったか」
「八割ほど」
「十割とは言わんのか」
「腹が減りました」
久世は眉間に皺を寄せる。
「仕事中に堂々と言うな」
「動けなくなってから言うより合理的です」
エアノーレが真顔で補足した。
久世の視線がエアノーレに移る。
「お前は余計な補足をするな」
「了解しました」
「本当に分かっているのか」
「努力します」
久世は短く息を吐いた。
まちるは、少し迷ってから荷を探った。
父の古い測量帳。
その余白に、前から気になっていた記述がある。
――夏至の夕。三柱の影、贈り物を示す。
――高低差あり。天端の刻みを見よ。
――今は開く時にあらず。困りし時、はかりびとの手を要す。
まだ意味は分からない。
だが、今日向かう村の名だけは、父の帳面に幾度か記されていた。
まちるは久世を見る。
「久世課長」
「何だ」
「測角器を借りられませんか」
久世の眉が、さらに寄った。
「水準測量班が、測角器を何に使う」
「影を測るかもしれません」
「影?」
「父の帳面に、少し気になる記録があります」
久世は、その言葉で黙った。
風が沢を渡る。
まちるは、久世の目が一瞬だけ帳面から逸れたのを見た。
「森蔵さんの帳面か」
「はい」
「……また、妙なものを追う気か」
「まだ分かりません」
「分からんのに借りるのか」
「分からないから、測ります」
久世はまちるを見た。
少しの間、その顔には厳しさだけではないものがあった。
やがて、久世は人夫に合図した。
人夫が木箱を差し出す。
久世はその蓋を開け、中から布に包まれた小さな器械を取り出した。
真鍮の輪。
細い目盛。
小さな覗き筒。
古いが、手入れはされている。
「本隊の経緯儀は貸せん。これは古い測角器だ。精度は落ちる」
「十分です」
「壊すな」
「はい」
「壊したら、お前の飯代から引く」
まちるは顔をしかめた。
「それは困ります」
「なら壊すな」
エアノーレが横から言った。
「まちるの飯代は重要です」
「お前の飯代も含む」
エアノーレは、少しだけ真剣な顔になった。
「重大な条件です」
「急に理解が早いな」
まちるは測角器を受け取った。
重さはそれほどではない。
だが、手にすると、なぜか父の道具に触れているような気がした。
久世が低く言う。
「森蔵さんは、昔その村に寄っている」
まちるは顔を上げた。
「知っているんですか」
「少しだけだ」
「何を」
「測りたがっていた。道でも、畑でも、山でもない場所をな」
久世はそこで言葉を切った。
「今は、仕事をしろ」
まちるはそれ以上聞かなかった。
「はい」
久世は踵を返しかけ、ふとエアノーレを見た。
「お前」
「はい」
「標尺はきちんと持てたんだろうな」
「はい。ハクさんを参考にしました」
「……何?」
「足元では、ハクさんが上位個体です」
久世はまちるを見る。
「何を教えた」
「地面を見ることです」
「余計なことも覚えているようだな」
「地球の学習効率は不安定です」
エアノーレが答えた。
久世はしばらく黙り、やがて小さく言った。
「……壊すなよ。器械も、雨宮も」
その言葉は、誰に向けられたものか分からなかった。
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村は、沢筋から少し下ったところにあった。
畑があり、木の柵があり、低い屋根の家が並ぶ。
大きな村ではない。
だが、人の暮らしの匂いがあった。
薪の匂い。
土の匂い。
煮炊きの匂い。
まちるは、そういう匂いが嫌いではなかった。
だが、村へ入ってすぐ、別の匂いに気づいた。
湿った泥のような、少し重い匂い。
井戸端に、人が集まっていた。
桶の中の水は、うっすら茶色く濁っていた。
女たちが顔をしかめ、老人が井戸の縁を覗き込む。
男たちは腕を組み、誰もすぐには動けずにいた。
「また駄目か」
「昨日より濁ってる」
「煮炊きにも使えん」
「沢まで汲みに行くしかないな」
「簡単に言うな。沢までは遠い。戻る頃には日が傾く」
「子供には持たせられん。年寄りにも無理だ」
「馬を出すにしても、道がぬかるんでる。桶を積んでも、たいして運べんぞ」
声は低かった。
水がない、というのは、ただ喉が渇くという話ではない。
飯を炊けない。
汁を作れない。
赤子に飲ませる湯も沸かせない。
怪我を洗うことも、道具をすすぐことも、畑の苗に少し回すことも難しくなる。
井戸ひとつが濁るだけで、村の一日が止まりかけていた。
まちるは桶を覗き込んだ。
「いつからですか」
近くの男が振り向く。
「三日前からだ。最初は少しだった。だが、今朝はこの通りだ」
「雨の後ですか」
「ああ。だが、いつもの雨とは違う。汲んでも汲んでも澄まん」
エアノーレが桶の水を見下ろす。
「飲用には適しません」
「見れば分かる」
まちるが小声で返した。
ハクがまちるの肩の上で、井戸の方を嫌がるように鼻を鳴らす。
その時、少し離れたところにいた子供たちが、まちるたちに気づいた。
まちるの三脚。
水準儀の木箱。
地図筒。
エアノーレの標尺。
藍色のローブ。
そして、白いハク。
大人たちの沈んだ空気とは対照的に、子供たちの目がぱっと輝いた。
「探検隊だ!」
「違う」
まちるは即答した。
「宝探しの人だ!」
「もっと違う」
「だって、棒と箱と地図持ってる!」
「測量道具だ」
「じゃあ、測って見つけてよ!」
まちるは眉をひそめる。
「何を」
子供たちは顔を見合わせた。
それから、一人が得意げに胸を張った。
「宝!」
「三つの影の宝!」
「じいちゃんが言ってた!」
「三つの柱が立つと、影が地面に絵を描くんだって!」
「その先に、先人さまの宝が眠ってるって!」
まちるは、眉をひそめた。
「先人の宝」
「うん!」
「で、その宝が何なのかは知ってるのか」
子供たちは、また顔を見合わせた。
「……金?」
「古い刀?」
「でっかい玉!」
「お団子!」
「お団子は宝か?」
「腹が減ってたら宝だよ」
まちるは少しだけ笑いそうになった。
一方で、井戸端の大人たちは笑わなかった。
濁った水の入った桶。
沢までの遠い道。
足りない人手。
明日も同じとは限らない不安。
子供たちが口にした「宝」という言葉だけが、その重い空気の中で、妙に明るく浮いていた。
大人の一人が、低く息を吐く。
「子供はいいな。宝なんて言っていられて」
その声に、子供たちの笑いが少しだけ小さくなった。
エアノーレがまじめに子供たちを見る。
「宝の定義が不安定です」
「子供の宝なんて、だいたいそんなもんだ」
「だいたい」
「地球はだいたいで回ってる」
「その運用思想には、やはり不安があります」
まちるはそう言いながらも、父の測量帳に手を伸ばしていた。
三つの影。
その言葉には、覚えがあった。
村の老人が、まちるたちに近づいてきた。
白い髭を短く整えた、小柄な老人だった。
「すまんな。子供らが」
「いえ」
まちるは軽く頭を下げる。
「開拓使の測量班かね」
「はい。雨宮班です」
「雨宮班」
老人は繰り返したが、その名に何か思い当たる様子はなかった。
代わりに、まちるの背の三脚を見た。
「昔な」
老人は、遠いものを見るように目を細めた。
「この村に、あんたと似た道具を持った男が来たことがある」
「私と似た道具?」
「ああ。三本脚の台と、覗く筒と、帳面を持っていた。何をしていたのかは、今もよく分からん。ただ、あんたらを見て、あの時の男を思い出した」
まちるの指が、測量帳の紐に触れた。
「名前は」
老人は首を振った。
「知らん。ただ、わらべうたをえらく気に入っていた。子供らに何度も歌わせては、柱の影を見て、地面に線を引いていた」
「……その人は、何か言っていましたか」
老人は少し考える。
「宝の正体は教えてくれなんだ。本当に見つけていたのかどうかも、わしには分からん。ただな、村の大人たちには言っていたよ。いつか本当に困ったら、はかりびとに相談しろ、と」
「はかりびと」
「そう言っていた。だが、わしらには意味が分からなかった。秤を持った商人のことか、山師のことか、それとも祈祷師の類か。誰も分からんまま、今日まで来た」
老人は、歌を口ずさむ子供たちを見た。
「あの男は、子供らには優しかった。何度も歌を聞いて、影を測って、地面に線を引いて見せてな。子供らは、面白い旅のおじさんだと思っていた」
まちるは、少しだけ目を伏せた。
本州の親戚に預けてきた、小さな娘。
森蔵はきっと、村の子供たちの中に、その面影を見ていたのかもしれない。
まだ測量帳の意味も、父が何を追っているのかも知らない、幼いまちるの姿を。
森蔵は、村の子供たちに答えを教えなかった。
けれど、歌を忘れないようにした。
宝を、宝のまま残した。
そして大人たちには、たった一つだけ言葉を置いていった。
困ったら、はかりびとに相談しろ。
老人は苦く笑う。
「こんな時に、子供らは宝だの探検だのと騒いでいる。呑気なものだと思っていたが……あんたたちを見て、思い出したんだ」
「その歌、聞かせてもらえますか」
老人は子供たちに目をやった。
子供たちは顔を見合わせ、少し照れたように、それでもどこか誇らしげに歌い出した。
三つの柱 日長月に立てば
三つの影が 地に絵を描く
影の先を 結びて見れば
火と木のあわいに 要あり
金かと思うて 土おこせ
土の下より 目を覚ます
歌は短かった。
節も単純で、ところどころ言葉が揺れている。
長い年月のうちに、子供たちが覚えやすいように変わってきたのだろう。
だが、まちるは息を止めた。
父の測量帳を開く。
紙は黄ばみ、端は擦り切れている。
普通の測量記録の余白に、父の小さな字がある。
――夏至の夕。三柱の影、贈り物を示す。
――高低差あり。天端の刻みを見よ。
――今は開く時にあらず。困りし時、はかりびとの手を要す。
まちるは、しばらくその文字を見つめた。
名前を聞いたわけではない。
けれど、分かった。
この村に来たのは、父だ。
森蔵は宝を開けなかった。
答えを言わなかった。
ただ、未来の誰かが困った時に届くよう、言葉だけを残していった。
まちるは静かに帳面を閉じた。
「……たぶん、それは父です」
老人は目を細める。
「そうか」
「父は、雨宮森蔵といいます」
「雨宮……」
老人は、その名をゆっくりと口の中で転がすように繰り返した。
それから、まちるの三脚を見た。
水準儀の木箱を見た。
そして、エアノーレが抱える標尺へ目を移す。
「……そうか」
老人は、今度は少し違う声で言った。
「はかりびと、とは、お主らのような者のことを言うんだな」
まちるは、すぐには答えられなかった。
老人は、まちるの顔を見る。
「なら、ずいぶん遠回りして、言葉が戻ってきたんだな」
まちるは帳面を抱え直した。
同じ雨宮が。
父が開けずに守ったものを。
今、本当に困った時に。
エアノーレが静かに問う。
「まちる。これは依頼ですか」
「違う」
「では任務ですか」
「違う」
「測量ですか」
まちるは答えようとして、少し迷った。
子供たちは期待に満ちた顔で見上げている。
井戸端の大人たちは、困ったように、しかしどこか縋るようにこちらを見ている。
濁った水。
父の帳面。
三つの影。
先人の宝。
まちるは小さく息を吐いた。
「……少し見るだけだ」
子供たちが歓声を上げた。
エアノーレは標尺を抱え直す。
「宝探しを開始します」
「測量だ」
「贈り物を探す測量です」
まちるは言い返しかけて、やめた。
たぶん、今回はそれで合っていた。
つづく
著:國風惠昂




