表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/9

第9話「対立の線」


小坂を救った崖の一件から、数日が過ぎていた。


その間にも、まちるとエアノーレたちは北へ進んでいた。


札幌本道の予定線は、少しずつ札幌へ向かって伸びている。

そしてその途上で、二人は古帝国軍の中継器を二つ見つけていた。


一つは幌別。

もう一つは、苫細。


どちらの器物にも、エアノーレは施しを行った。


中継器は、外から見れば何も変わらない。

黒い円盤状の外殻は、地面に半ば埋もれたまま、淡い光を保っている。


止まってもいない。

壊れてもいない。


ただ、その内側にだけ、後の日のための小さな仕込みが残されていく。


施しの手順を、まちるはもう見慣れ始めていた。


見慣れるというのも、おかしな話だった。

星の外から来た軍の器物に、星の外から来た任務者が触れている。

本来なら、何一つ見慣れてよいものではない。


それでも旅が続けば、異様なものにも順序が生まれる。


エアノーレが周囲を確認する。

まちるが人の気配を見張る。

ハクが耳を動かす。

そして、黒い器物は何事もなかったように沈黙を保つ。


まちるは、苫細の草地で測量帳を開いた。


そこには、父の未完の地図にあった印と、これまで見つけた中継器の位置が書き足されている。


白樺の水辺。

ポロチケウ。

幌別。

苫細。


地名の横に、まちるは小さな丸を描いていた。

正確なものではない。

けれど、エアノーレの話を聞きながら、中継器がどのあたりを覆っているのかを、自分なりに書き留めたものだった。


「なあ、エアノーレ」


「はい」


「この中継器って、やっぱり人のいる場所の近くにあるんだな」


エアノーレは、標尺を肩に預けたまま、まちるの帳面を覗き込んだ。


「その傾向は高いです」


「白樺の水辺も、村から近かった。ポロチケウも集落の近くだ。幌別も苫細も、人がいる場所から遠くない」


「はい」


「でも、集落の真ん中にはない」


「それでは発見されやすくなります」


エアノーレは、地面に落ちていた細い枝を拾った。

そして、まちるの帳面に触れないように、草の上へ簡単な図を描く。


中央に小さな丸。

その周りに、少し大きな円。


「古帝国軍にとって重要なのは、地球人の地名ではありません。集落名でも、川の名でも、村の境でもありません」


「じゃあ、何だ」


「IS-BE反応の集積です」


「魂が集まっている場所、ってことか」


「はい。人が定住する場所。交易や移動で人が通る場所。死者と生者の記憶が重なる場所。そうした地点を覆えるように、中継器は配置されます」


まちるは草の上の円を見た。


「つまり、集落そのものを狙ってるんじゃなくて、集落を含む範囲を押さえてる」


「その言い方が近いです」


エアノーレは、枝の先で円の縁をなぞった。


「中継器には、それぞれ管理半径があります。古帝国軍は、それを重ねることで、この星の表面に網を作っています」


「網……」


まちるは、ポロチケウの断崖で聞いた話を思い出した。


この星は、ただの星ではない。

古帝国軍が仕組んだ、牢獄のような場所。

魂を閉じ込め、忘れさせ、巡らせるための場所。


あの時は、話が大きすぎて、まちるの頭の中でうまく形にならなかった。

けれど今、白樺の水辺、ポロチケウ、幌別、苫細と、実際の場所を一つずつ並べてみると、少しだけ違って見えてくる。


網は、空の上だけにあるものではない。

足元の地面にも、重ねられている。


「じゃあ、集落があれば、その近くにはほぼあるってことか」


「可能性は高いです。ただし、必ずしも目に見える距離とは限りません」


「人目につかない場所か」


「はい。集落から離れすぎれば、反応密度が落ちます。近すぎれば、人間に発見されます。ですから、水辺、崖下、森の縁、湿地の奥、使われなくなった道の脇などが選ばれやすい」


まちるは思わず顔をしかめた。


「嫌な置き方をするな」


「効率的な置き方です」


「そこが嫌なんだよ」


エアノーレは少しだけ首を傾げた。


「嫌、とは」


「人が暮らしてる場所の近くに、人には分からないように置く。見張ってるのに、見張られてる側は気づかない。そういうのが嫌だ」


「古帝国軍にとっては、管理対象に通知する必要がありません」


「管理対象って言うな」


まちるの声が、少しだけ強くなった。


エアノーレは黙った。

それから、静かに言い直す。


「……人々に、通知する必要がないと判断しているのだと思います」


「それも嫌だけど、まだましだ」


まちるは帳面に目を落とした。


白樺の水辺。

ポロチケウ。

幌別。

苫細。


どれも、人が暮らす場所の近くにあった。

けれど、人々の暮らしの真ん中にはなかった。


誰かが水を汲む。

誰かが薪を拾う。

誰かが獣道を避ける。

誰かが子どもを探して森の縁まで来る。


その少し外側に、黒い円盤は埋まっている。


エアノーレは、まちるの帳面を静かに見ていた。


「あなたの父は、この法則にも気づいていたのでしょう」


まちるは、すぐには答えなかった。


父の地図に残された印。

羅針盤の乱れ。

水辺の妙な光。

普通の道理から外れた地点。

そして、中継器の識別番号。


森蔵は、いくつかの器物を実際に見つけていた。

それが古帝国軍の中継器だとまでは知らなかったかもしれない。

だが、ただの石でも、ただの鉄くずでもないことには気づいていた。


そこまでは、もう分かっている。


まちるが今見ているのは、その先だった。


白樺の水辺。

ポロチケウ。

幌別。

苫細。


どれも、人の暮らす場所から遠くない。

けれど、集落の真ん中にはない。

水辺、崖下、森の縁、湿った草地。

人が近づきすぎず、それでいて人の気配を覆える場所。


「父さんは、器物だけじゃなくて、置かれ方も見てたのかもしれない」


まちるは低く言った。


「地名じゃない。集落の名前でもない。人が暮らしている場所と、その少し外側にある変な地点。その並びを見てた」


「中継器の配置法則です」


エアノーレが言った。


まちるは頷いた。


「たぶん、父さんは古帝国軍なんて言葉は知らなかった。でも、同じようなものが、同じような場所にあることには気づいてた」


まちるは測量帳の端を握った。


「だから印を残した。符号も写した。後で誰かが見ても、ただの地名や目印じゃなくて、同じものだと分かるように」


「そして、あなたがそれを追っている」


「追わされてる気もするけどな」


まちるは苦笑した。


だが、その苦笑はすぐに消えた。


「集落があるところには、網がある」


まちるは小さく呟いた。


「人が暮らしてるだけで、そこに番号を振られて、見えない網の中に入れられるのか」


「古帝国軍から見れば、人がいるからこそ配置するのです」


「最悪だな」


「はい」


エアノーレは、今度は迷わずそう答えた。


まちるは帳面を閉じかけて、ふと手を止めた。


ポロチケウの断崖で聞いた話が、胸の奥に引っかかっていた。


「そういえばさ、エアノーレ」


「何でしょうか」


「前に、古帝国軍は今も魂をこの星へ送り続けてるって言ってたよな。自分たちに都合の悪い魂を」


エアノーレの表情が、わずかに静まった。


「はい。彼らにとって都合の悪いIS-BE――反逆者、異端者、体制維持の妨げになると判断された魂は、危険分子としてこの星へ送られています」


「そうだ。流刑地とか言ってたな」


「古帝国軍にとっては、そうです」


まちるは、草の中に半ば埋もれた黒い円盤を見た。


それは動かない。

何も言わない。

ただ、人の暮らす場所の少し外側で、淡い光を保っている。


「ということはさ」


まちるの声が、少し低くなった。


「地球には、悪いやつらが増え続けるってことにならないか」


エアノーレはすぐには答えなかった。


風が草を揺らす。

ハクが、まちるの肩で小さく耳を伏せた。


「大きくは、間違っていません」


エアノーレは静かに言った。


「ただし、彼らがそのままの記憶を持って生まれるわけではありません。自分が何者だったかも分からないまま、人間として生まれ、生き、死に、また生まれる。その繰り返しの中で、変化する魂もあります」


「浄化、みたいなものか」


「近いと思います」


「でも、最初から穏やかな魂ばかりじゃない」


「はい。強い支配欲、攻撃性、執着、破壊衝動を残したまま輪廻に入る個体もいます。初期の転生では、争いを起こしやすい傾向が出る可能性があります」


まちるは、唇を結んだ。


「じゃあ、戦が起きたり、ひどい犯罪が起きたりするのも」


「すべてをそれで説明することはできません」


エアノーレは首を振った。


「地球の人々にも、それぞれの意志と環境があります。けれど、古帝国軍が自国の不都合をこの星へ押しつけていることは確かです。彼らは、自分たちの社会から排除したものを、この星の輪廻へ混ぜ続けている」


「自分たちの掃除を、こっちにやらせてるみたいなものか」


「はい」


「最悪だな」


まちるは、もう一度そう言った。


今度は、さっきよりも重かった。


「ということは、昔の戦国の世にも、そういう魂がたくさんいたとしてもおかしくないよな」


「おかしくはありません」


エアノーレは答えた。


「そして、そうした過去の個体もまた、輪廻を続けています。どの時代にも、善と悪が生まれます。ただし、善と悪は見る側によって入れ替わることがあります。ある者にとっての正義が、別の者にとっての災厄になることもある」


「嫌な話だな」


「はい」


「宇宙まで行っても、結局それか」


まちるは、苦く笑った。


「地球人だけが愚かなんじゃない。宇宙人も同じように、正義だの都合だので、誰かをどこかへ押し込める」


エアノーレは、少しだけ目を伏せた。


「はい。もともと、地球人のIS-BEも宇宙から来ています。形が違うだけで、そこに意志があり、恐れがあり、正義があります」


「あんたの同胞救出は、トメインにとっての正義だよな」


「はい」


エアノーレは続けた。


「ですが、その延長上に、この星そのものを古帝国軍の流刑地としての状態から解放することも含まれます」


「そのために、また争いが起きるのか」


エアノーレは、すぐには答えなかった。


風が低く吹いた。


「可能性はあります」


「どこまで行っても、同じだな」


まちるは、地面に引かれた草の線を見た。


「地球人も、宇宙人も」


「はい」


エアノーレの声は静かだった。


「だからこそ、何を救うのかを間違えてはならないのだと思います」


まちるはしばらく黙っていた。


答えなど出ない。

出るはずもない。


ただ、今分かっていることは一つだけだった。


この地の集落のそばに、黒い円盤がある。

人々の暮らしを、見えない網が覆っている。

そして、その網をほどくためには、まだ北へ進まなければならない。


地上では、まちるたちが本道の線を探している。

星側では、エアノーレが見えない網の線をほどいている。


どちらも、目に見える形では進んでいないように見える。

それでも、確かに北へ向かっていた。


まちるは測量帳を胸に抱え直した。


「父さんの未完の地図を埋めることは、奴らにとって穏やかではない話だよな」


エアノーレは、少しだけまちるを見た。


「静かな宣戦布告かもしれません」


「…物騒な言い方だな」


「ですが、間違ってはいません」


まちるは小さく息を吐き、歩き出した。


ハクが肩の上で小さく尾を振る。

エアノーレはその少し後ろを、標尺を抱えてついてくる。


北へ。

さらに北へ。


描きかけの線は、まだ終わらない。






苫細を過ぎ、千歳川へ向かう低地に入る頃、道はまた別の顔を見せ始めた。


山道の崩れは遠ざかった。

断崖も少なくなった。

だが、道が楽になったわけではない。


今度は、森だった。


深い木立。

足元に広がる柔らかい土。

ところどころに水を含んだ草地。

低く湿った風。


見通しは悪い。

一歩踏み込めば、草の下で土が沈む場所もある。

乾いているように見えて、靴底に湿りが残る場所もある。


まちるは水準儀を据え、エアノーレは標尺を持って立った。


「そこ、少し右」


「はい」


「行きすぎ。半歩戻れ」


「半歩、ですね」


「そう。そのまま」


エアノーレは標尺を垂直に立てた。

藍色のローブの裾が草に触れる。

白い袖が、その下から少しだけ覗いていた。


まちるは水準儀を覗き、測量帳へ数値を書き込む。


「思ったより低いな」


「地面は平らに見えます」


「見た目だけだ。少しずつ水が集まる」


「水面はありません」


「今はな。でも、地面は覚えてる」


「覚えている?」


エアノーレが首を傾げた。


まちるは水準儀から目を離さずに言った。


「雨が降った時、どっちへ流れたか。雪が解けた時、どこに溜まったか。水が通った場所は、土の色や草の根元に出る。人間が忘れても、地面は忘れない」


エアノーレは、標尺を持ったまま足元を見た。


「地面にも、記録があるのですね」


「そういう言い方もできるかもな」


まちるは帳面に数字を書きつけた。


「ただし、地面の記録は読みにくい。紙に書いてあるわけじゃないから」


「まちるは、それを読んでいます」


「読めてるかどうかは、毎回怪しい」


「ですが、読もうとしています」


まちるは少しだけ笑った。


「それはまあ、仕事だからな」


今日は、札幌本道の次の線を選ぶための踏査だった。


候補は三つある。


久世が、湿りを避けて乾いた木箱の上に図面を広げた。

まちるはその横に膝をつき、測量帳を開く。

八代源吾は経緯儀の箱を抱えたまま、視線だけで周囲を測っている。

小坂新八は測旗を肩に担ぎ、崖で痛めた足を少し庇って立っていた。


そして、アイヌの案内役は、図面ではなく森の方を見ていた。


樹皮の繊維で織られた上衣は、雨気を含んで少し重そうに見える。

袖口や裾には、控えめな文様が走っていた。

腰には小刀を提げ、草の湿りを確かめるように、足を少し開いて立っている。


和人の測量夫たちとは、見ているものが違っていた。


図面の線ではない。

森の奥。

風の抜け方。

獣が通った後の草の乱れ。


その男は、必要なことしか言わない。

だが、まちるには分かる。

彼はただ黙っているのではない。


まちるとは違う方法で、土地を読んでいる。



「第一候補は、この線だ」


久世の指が、図面の上をまっすぐ進む。


「千歳川へ向かう途中の森を、ほぼ直線で抜ける。距離だけを見れば、一番短い」


「水は」


まちるが聞いた。


「大きくは外している。お前の測りでも、そこは同じだろう」


「はい。低地ではありません。水の道からは、外れています」


水の問題だけなら、悪くはない。


まちるはそう思った。

思ったからこそ、すぐには否定しなかった。


道を引くということは、どこかを傷つけることでもある。

木を倒し、土を削り、人の足と荷馬車を通す。

何も壊さずに本道を通すことなどできない。


だから、簡単に「やめる」とは言えない。


けれど、案内役は静かに首を振った。


「そこは、木が深い」


久世が顔を上げる。


「伐採が多いということか」


案内役は、木々の奥を指した。


「太い木が続く。根も深い。切れば終わりではない。根を抜き、泥をよけ、馬を通すには時間がかかる」


小坂が測旗を抱えたまま、森を覗き込んだ。


「うわあ……確かに、あれを全部切るのは骨ですねえ」


八代が淡々と言う。


「骨だけでは済まん。人も要る。日数も要る」


「源さん、さらっと怖いこと言いますね」


「事実だ」


「事実を言う時の顔が怖いんですよ」


「顔は関係ない」


「ありますって」


まちるは聞こえないふりをしながら、第一候補の方角を見た。


木が深い。

それは単に、斧を入れる本数が多いという話ではない。

伐ったあとに根が残る。

根を避ければ道は曲がる。

根を抜けば土が緩む。

土が緩めば、雨の時に沈む。


一本の線は、紙の上では簡単に引ける。

だが、その線を地面へ移すには、人の腕と背中と命がいる。


案内役は、さらに低い声で続けた。


「それだけではない。そこは、キムンカムイが通る」


キムンカムイ。


その言葉が出た瞬間、場の空気が少し変わった。


まちるは、森の奥を見た。

風が枝を揺らしている。

けれど、その揺れの向こうに、見えない大きなものが通る道があるような気がした。


「熊の道、ということですか」


エアノーレが尋ねる。


案内役は、少しだけ彼女を見た。


「熊だけの道ではない。鹿も通る。小さな獣も通る。けれど、最後に道を決めるのはキムンカムイだ」


「最後に決める?」


小坂が眉を寄せる。


「人がそこを通りたいと思っても、山のものが先に使っていれば、争いになる」


小坂は笑おうとして、笑えなかった。


「争いって……向こうと話し合いはできませんもんね」


「できない」 


案内役は短く答えた。


「だから避ける」


久世は、図面の第一候補を見つめたまま言った。


「本道は必要だ」


案内役が久世を見る。


久世は続けた。


「必要だからこそ、通らん線を引いても意味がない。道は、地図の上にだけ作るものではない。伐る者がいて、担ぐ者がいて、通る者がいる。その途中で人を潰す線は、本道にはならん」


まちるは、小さく息を吐いた。


「久世さん」


「分かっている」


「第一候補は、外した方がいいと思います」


久世は頷いた。


「私も同じ考えだ」


案内役は何も言わなかった。

ただ、目を閉じるようにして、小さく頷いた。


第一候補は外された。






次に、第二候補へ向かった。


そちらは、第一候補よりも少し南へ寄る。

伐採は少なくて済む。

森も浅い。

地図の上では、ほどほどに現実的な線に見えた。


小坂などは、歩きながら少し安心した顔をしていた。


「こっちは、まだ人間に優しそうですね」


「見た目ではな」


八代が短く言う。


「またそれですか」


「土地は、見た目だけでは分からん」


「まちるさんみたいなこと言いますね」


「雨宮が正しい時もある」


「そこは素直に褒めてあげましょうよ」


「余計なことを言うな」


「はい」


まちるは、やはり聞こえないふりをした。


けれど、第二候補に入ってすぐ、案内役の足が止まった。


「ここは、駄目だ」


久世が振り返る。


「理由は」


案内役は、足元の草を指した。


「水が走る」


案内役はしゃがみ、草の根元を指で押した。

黒い泥が、じわりと指先に滲む。


「雨が来ると、ここへ戻る。雪が解けても、ここへ戻る。水は道を忘れない」


まちるは水準儀を据え直した。


「エアノーレ、標尺」


「はい」


エアノーレが標尺を立てる。

まちるは覗き、数値を読み、帳面に書き込んだ。


一か所。

二か所。

三か所。


どれも、思ったより低い。


まちるは顔を上げた。


「案内役の言う通りです。ここは低い。見た目は平らでも、水が戻る」


小坂が草地を見た。


「でも、今は普通に歩けますよ」


「今だけだ」


まちるは言った。


「晴れた日に歩けることと、道として保つことは違う。雨の日、雪解け、荷馬車が何度も通る時。そこまで見ないと、道は沈む」


「沈む……」


小坂は思わず自分の足元を見た。


まちるは少しだけ膝を曲げ、草の根元を指で押した。

水気を含んだ黒い土が、爪の間に入る。


「水は、上から降るだけじゃない。下から戻ることもある。踏めば泥になる。荷馬車が通れば轍になる。轍に水が溜まれば、次はそこが水の道になる」


エアノーレは、標尺を持ったまま地面を見つめていた。


「地面は、記憶するのですね」


「さっきも似たことを言ってたな」


「はい。一度通った水の経路を、次の水も使う。人の足跡と似ています」


まちるは少し驚いて、エアノーレを見た。


「……そうかもしれない」


案内役が、静かに頷いた。


「水も、獣も、無理のない道を知っている。人だけが、紙の上でまっすぐ行きたがる」


その言葉に、まちるは黙った。


紙の上でまっすぐ行きたがる。


それは、測量を否定する言葉ではなかった。

むしろ逆だ。

本当に測るなら、紙の上だけでは足りないということだ。


久世は、第二候補の線に指を置いた。


「この線も外す」


小坂が少しだけ肩を落とした。


「じゃあ、残りは遠回りですか」


「遠回りに見えるだけだ」


まちるは測量帳を閉じた。


「後で沈む道を直し続ける方が、ずっと遠回りになる」


久世の目が、わずかに和らいだ。


「その通りだ」


第二候補も外された。


残る第三候補は、少し迂回する線だった。


まっすぐではない。

一目で最短ではないと分かる。

だが、太い森を避け、水の道も外し、キムンカムイの通り道からも距離を取れる。


久世は、図面に新しい線を引いた。


「第三候補で進める」


その線は、確かに曲がっていた。


けれど、まちるには不思議と、いちばん素直な線に見えた。


土地に逆らっていない。

水にも、森にも、獣にも、無理を言いすぎていない。


道は、地図の上では曲がって見える。

だが土地の上では、その方がまっすぐ進めることもある。


まちるは、そのことを少しだけ分かり始めていた。






その日の夕方、馬車が現場へ入ってきた。


泥を避けるように止まった車から、一人の男が降りる。


濃紺の上着。

金の釦。

仕立てのよい外套。

革手袋。

手には丸めた図面と、細い杖。


その靴は、明らかにこの泥を歩くためのものではなかった。

それでも男は、足元を見ることなく、まっすぐ久世のもとへ歩いてきた。


黒羽根貞矩。


薩摩藩出身の開拓使本庁エリートであり、札幌本庁舎造営にも名を連ねる監督官だった。

本庁舎の着手を前に、本道工事の進捗確認を名目として現場へ入ってきたのである。


久世の顔が、わずかに硬くなった。


「黒羽根殿」


黒羽根は、軽く頷いただけだった。


「途中で聞いた。本道の線を、現場判断で曲げたそうだな」


言い方は穏やかだった。

だが、そこには最初から結論があった。


まちるは、その声を聞いた瞬間、嫌な感じがした。


怒鳴るわけではない。

乱暴でもない。

むしろ静かだった。


だからこそ、相手の話を聞く気がないことが分かる。


久世は図面を差し出した。


「第一候補、第二候補を確認した上で、第三候補を採用する判断です」


「見よう」


黒羽根は図面を受け取った。

目だけが素早く動く。


現場の泥も、草も、人夫の疲れた顔も見ない。

紙の上の線だけを見ている。


「第一候補は最短に近い」


「はい」


「水の影響も少ない」


「その通りです」


「ならば、なぜ外した」


久世は答えた。


「森が深い。伐採に大きな労力がかかります。さらに、案内役の見立てでは、キムンカムイの通り道にかかる」


「キムンカムイ」


黒羽根は、その言葉だけを抜き出すように繰り返した。


久世は構わず続けた。


「第三候補で進める件は、ワーフィールド殿にも報告を上げるつもりです」


黒羽根の口元が、わずかに歪んだ。


「外国人技師の名を出せば、現場の逃げが技術判断に変わるとでも?」


「逃げではありません」


久世の声は低かった。


「水準、地勢、伐採量、開通後の維持。すべてを見た上での判断です。ワーフィールド殿に示すのは、その判断を言葉と数字で説明するためです」


「数字か」


黒羽根は図面の第一候補を杖で叩いた。


「ならば、最も短い線こそ数字にかなっている」


「距離だけなら、そうです」


久世は答えた。


「ですが、道は距離だけでは通りません」


黒羽根の視線が、案内役へ移った。


「それで、そのキムンカムイとは何だ」


その発音には、敬意も恐れもなかった。

聞き慣れない単語を、ただ不便な現地語として扱っている声だった。


案内役は表情を変えなかった。


「ヒグマだ」


「熊か」


黒羽根は、小さく笑った。


「熊一頭のために、本道の線を曲げるのか」


「一頭とは限らない」


「では二頭か。三頭か」


黒羽根の笑みが深くなる。


「いずれにせよ、熊だろう」


小坂が、少しだけ息を呑んだ。

八代は黙っていたが、経緯儀の箱を持つ手に力が入っていた。


久世が言う。


「黒羽根殿。これは恐れの話ではありません。危険を避けるための判断です」


「危険なら備えればいい」


「備えにも限度があります」


「人を増やせ。銃を持たせろ。伐採が大きいなら人夫を増やす。熊が出るなら撃つ。それだけの話だ」




挿絵(By みてみん)




まちるは、思わず口を挟んだ。


「それだけではありません」


黒羽根の目が、まちるへ向く。


「ほう、お前があの雨宮の娘か」


「はい」


「水準測量班の娘が、本道計画を語るのか」


その言葉に、小坂の表情が変わった。

だが、まちるは先に答えた。


「測った者として言っています」


黒羽根の眉がわずかに上がる。


「ほう」


「第一候補は水の道ではありません。そこは認めます。でも、道は水だけ避ければいいものではありません。木を倒す人がいて、杭を打つ人がいて、荷を運ぶ人がいる。その人たちが危ない場所なら、線は見直すべきです」


「感情論だな」


「違います」


まちるは、三脚の脚を握った。


「命を計算に入れない方が、机上の空論です」


一瞬、場が静まった。


黒羽根は、まちるを見たまま、ゆっくり口を開いた。


「勇ましいことを言う」


それは褒め言葉ではなかった。


「だが、国の本道は、娘一人の感傷で曲げるものではない」


久世が一歩前へ出た。


「雨宮の判断は、測量結果と現地踏査に基づいています」


「ならば測量結果は見よう」


黒羽根は図面を畳んだ。


「だが、国策は現場の怯えでは曲げられん。札幌本庁舎の造営が控えている。人も物資も、本道がなければ動かん。遠回りを選ぶ余裕はない」


「急ぐために、危険な線を選ぶべきではありません」


久世の声は低かった。


黒羽根は、その低さを面白がるように久世を見た。


「久世。お前は佐賀の者だったな」


「はい」


「技術屋は、すぐ細部にこだわる。傾き、水、泥、木の根、獣の足跡。たしかに大事なのだろう。だが、そればかり見ていると、大きな線を見失う」


「大きな線は、小さな足元の上にしか引けません」


久世は静かに返した。


黒羽根の笑みが消えた。


「口が達者だな」


「現場では、口より足元がものを言います」


「その足元を恐れて、本道を遠回りさせるのか」


そこで、案内役が口を開いた。


「遠回りではない」


黒羽根がそちらを見る。


案内役は、森の奥を指した。


「水を避ける。熊を避ける。木の深いところを避ける。人が生きて通れるところを選ぶ。それは遠回りではない」


「お前たちの土地の言い分か」


黒羽根の声に、わずかな棘が混じった。


案内役は動じなかった。


「土地は言い分など言わない。ただ、間違えた者を通さないだけだ」


その言葉に、まちるは思わず案内役を見た。


黒羽根は、しばらく無言だった。

そして、鼻で笑った。


「詩のような話だな。だが、本道は詩で作るものではない」


彼は第一候補の線を、杖の先で叩いた。


「明朝より、この線に杭を打て」


久世の顔が、はっきり硬くなった。


「第一候補は外しました」


「戻せ」


「命令ですか」


「命令だ」


誰もすぐには動かなかった。


夕方の仮小屋には、重い沈黙が落ちた。

外では、森が暗くなっていく。

湿った風が、入口の布を小さく揺らしていた。


まちるの数値も、案内役の助言も、久世の判断も、黒羽根を動かさなかった。


ただ一つ、黒羽根の中にあるものだけが動いていた。


本州で熊を仕留めた記憶。

地図の上でまっすぐ引かれた線。

本庁から来た自分が、現場に命じる権限。


その三つが、彼の目を曇らせていた。


「明朝、第一候補で始める」


黒羽根はそう言って、図面を閉じた。


「本道は、臆病者の足跡ではない」


その一言で、議論は終わった。




______________




その夜、まちるはなかなか眠れなかった。


仮小屋の外では、風が森を撫でている。

火の音が小さく鳴る。

人夫たちの声は、いつもより少ない。


誰も黒羽根の命令に正面から逆らえない。

だが、誰も納得していない。


その空気が、火の煙のように小屋の中へ溜まっていた。


ハクは、まちるの肩ではなく、荷の上に丸くなっていた。

だが、眠ってはいない。

小さな耳が、何度も森の方を向く。


「……お前も嫌か」


まちるが小さく言うと、ハクは尻尾を一度だけ動かした。


エアノーレは、入口近くに座っていた。

膝の上に手を置き、じっと火を見ている。


その姿は静かだった。

けれど、まちるには分かる。


エアノーレも、ただ落ち着いているわけではない。

何かを測っている。

自分には見えない別の尺度で、この夜の危険を測っている。


「エアノーレ」


まちるが声をかけた。


「はい」


「あんたから見ても、あの森は変か」


エアノーレは少し考えた。


「わたくしには、地球の森の正常値がまだ十分に分かりません」


「そうか」


「ですが」


エアノーレは、火から目を離さずに続けた。


「まちると案内役の方が危険だと言うなら、危険なのだと思います」


「ずいぶん信用するな」


「信用しています」


あまりにまっすぐ言われて、まちるは一瞬言葉に詰まった。


「……そういうの、さらっと言うなよ」


「不適切でしたか」


「いや。不適切じゃないけど」


まちるは膝を抱えた。


「ちょっと、調子が狂う」


エアノーレは首を傾げた。


「黒羽根さんは、まちるを信用していませんでした」


「まあ、そうだろうな」


「なぜですか」


「私は小娘だからだろ。水準測量班の。しかも女だ」


「性別と測量値に関係がありますか」


「ない」


「では、黒羽根さんの判断は誤っています」


まちるは、少しだけ笑いそうになった。

けれど、すぐに笑えなくなった。


「そう単純ならいいんだけどな」


「違うのですか」


「黒羽根の言ってることにも、少しは筋がある。本道は急がなきゃいけない。札幌へ人も物も運ばなきゃいけない。道がなければ、北は開けない」


まちるは火を見た。


「私たちだって、木を一本も切るなって言ってるわけじゃない。道を作るなら、どこかは傷つける。それは分かってる」


「はい」


「でも、だからこそ選ばなきゃいけない。どこを切るか。どこを避けるか。誰に危険を負わせるか」


言葉にすると、胸の奥が重くなった。


地図に線を引く。

その線は、ただの墨ではない。

人が歩く。

馬が通る。

木が倒れる。

獣が退く。

時には、人が死ぬかもしれない。


父は、それを分かっていたのだろうか。


まちるは、ふと森蔵の三脚へ目をやった。

小屋の隅に立てかけられた三脚は、火の明かりを受けて鈍く光っている。


「父さんなら、どうしたかな」


口に出すつもりのなかった言葉が、漏れた。


エアノーレがこちらを見る。


「父上ですか」


「うん」


まちるは三脚から目を離さなかった。


「たぶん、測っただろうな。何度でも。地面を見て、人に聞いて、やっぱり駄目なら曲げた。笑われても、怒られても」


「まちると同じです」


「同じかどうかは分からない」


「同じです」


エアノーレは、静かに言った。


「あなたは、地面を見ます。人の足も見ます。危険を、危険として扱います」


「黒羽根は?」


「紙を見ていました」


まちるは、火の中で崩れる薪を見た。


「紙も大事だ」


「はい」


「紙がなきゃ、人は大きな道を考えられない。地図も、図面も、計画も、全部必要だ」


「はい」


「でも、紙の上だけじゃ、道は通らない」


エアノーレは頷いた。


「分かります」


「本当に?」


「はい。星側の網も同じです。配置図だけを見ていれば、すべて制御できているように見えます。ですが、実際には、そこを通る魂があります」


まちるは、エアノーレを見た。


「魂、か」


「はい」


「それも測れないな」


「今は、まだ」


「いつか測るつもりかよ」


「測れるものなら」


まちるは、今度こそ少しだけ笑った。


けれど、その笑いはすぐに消えた。


外の森が静かだった。


静かすぎるほどに。


「明日、何もなければいい」


まちるは言った。


「黒羽根が間違ってなかったなら、それでいい。私たちが笑われるだけで済むなら、それでいい」


エアノーレは、しばらく黙っていた。


そして、静かに答えた。


「わたくしも、そう望みます」


「でも」


「はい」


エアノーレの青い瞳が、入口の闇を向いた。


「何もない夜の静けさと、何かが近づいている時の静けさは、少し違う気がします」


その視線は、森だけを見ているようで、森の向こうにある何かを見ているようでもあった。


まちるの喉が、かすかに鳴った。


「怖いこと言うなよ」


「すみません」


「謝るな。たぶん、私も同じことを思ってた」


火が小さく弾けた。


誰も、それ以上話さなかった。


森はずっと静かだった。


静かすぎるほどに。




つづく




著:國風惠昂


あとがき


今回、まちるとエアノーレの会話の中で、「地球が流刑地として使われている」という話が出てきました。


もちろん、これは本作におけるSF設定です。


ただ、現代のUFO言説や、ロズウェル事件以降に語られてきたさまざまな説を眺めていると、「地球は本当に外側から隔離された場所なのではないか」「人間の魂とは、そもそもどこから来たものなのか」という想像には、不思議な引力があるように思います。


本作ではその発想を、古帝国軍が不要または危険とみなしたIS-BEを地球へ送り込み、輪廻の中へ閉じ込めている、という形で物語化しています。


もちろん、現実の事件や歴史を断定する意図はありません。


これはあくまで、戦争、犯罪、支配、そして正義の衝突がなぜ繰り返されるのかという問いを、SFファンタジーとして扱うための設定です。


まちるが感じた、


「どこまで行っても、同じだな。地球人も、宇宙人も」


というやるせなさは、この物語の根にあるものです。


正義を掲げる者同士が対立し、その結果として、誰かが押し出され、閉じ込められ、別の場所へ追いやられる。


ならば、本当に救うべきものは何なのか。


エアノーレの任務は、トメイン同胞の救出を基軸にしています。


けれどその先には、地球そのものを「流刑地」としての状態から解放するという、より大きな問題が待っています。


今回の第九話「対立の線」は、その入口にあたる話でもあります。


地上では、まちるたちが本道の線を探している。

星側では、エアノーレが見えない網の線をほどこうとしている。


その二つの線が重なった時、まちるの父・森蔵が残した未完の地図も、ただの測量記録ではなく、人類の古帝国軍への静かな挑戦として見えてくるのかもしれません。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


次回も、まちるとエアノーレの北への旅にお付き合いいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ