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第3話 条件だから、任務だから、ついでだから

挿絵(By みてみん)


第3話では、まちるとエアノーレが旅へ出る理由が描かれます。


まちるの測量仕事。

エアノーレの任務。

そして、父・森蔵が残した未完の地図。


まだ仲間でも、友人でもない二人。

けれど、それぞれ別々だった目的は、少しずつ同じ道の上で重なり始めます。


それでは、本編をお楽しみください。



___________


条件だから。

任務だから。

ついでだから。


まちるとエアノーレは、その旅について、あとから幾度もそう説明した。


まちるは言った。

帰る手がかりを探すため、北にあるノースゲートまで連れていく。

その代わりに、自分の測量を手伝わせただけだ、と。


エアノーレは言った。

星衣核の再識別と補修、そして古帝国軍中継器への施しに必要な行動だった、と。


ハクは、そのたびに小さく鳴いた。

まるで、どちらも嘘だと言うように。


けれど、旅の始まりは本当に、そんな曖昧な言い訳でできていた。


信頼ではなかった。

友情でもなかった。

互いを理解していたわけでもない。


ただ、まちるには後ろめたさがあった。


帰る場所のある者を、帰れないままにはしておけない。

果たすべき目的を持つ者の道を、自分が断ってしまったのかもしれない。


それくらいは、分かった。


そしてエアノーレには、任務があった。


星衣核を再識別し、補修しなければならなかった。

地球牢獄の奥に打ち込まれた古帝国軍中継器には、施しを行わなければならなかった。


だから、二人は同じ方角を見ることになる。


条件だから。

任務だから。

ついでだから。


そう言いながら。


まだ誰も、それを約束とは呼ばなかった。


_____________________




行灯の火が、畳の上で小さく揺れていた。


古びた宿屋の一室だった。

壁は薄く、廊下の向こうでは、夜番の足音が時折きしむ。

外では風が戸を鳴らし、遠くで水の流れる音がした。


白樺の水辺からここまで、まちるは何度も立ち止まった。


意識の薄いエアノーレを肩で支え、三脚を杖のように使い、時には半ば引きずるようにして集落へ戻った。

白い衣も、銀白の髪も、胸元の青い光も、どう見ても普通ではない。


宿の者には、旅の女が水辺で倒れていた、とだけ言った。

熱がある。部屋を借りたい。


まちるがそう告げると、宿の者は深く聞かなかった。

それが、ありがたかった。


布団の上で、エアノーレは眠っていた。


いや、眠っているというより、意識を底へ沈めているように見えた。


銀白の髪が枕元に散り、白い軍服めいた衣は、まちるが急場しのぎで掛けた布に半ば覆われている。

胸元では、小さな青い光が、呼吸に合わせるように弱く明滅していた。


まちるは、濡らした布を絞った。


ぎゅ、と手の中で水が落ちる。

桶の水面に、行灯の火が滲んだ。


「……面倒なものを拾ったな」


独り言のように言うと、布団の端で丸くなっていたハクが、短く鳴いた。


白いエゾリスは、まちるを見上げる。

小さな丸い耳がぴくりと動いた。


「お前もそう思うだろ」


ハクはもう一度鳴いた。

それが肯定なのか、抗議なのか、まちるには分からなかった。


まちるは布を畳み、エアノーレの額に置いた。


熱い。


だが、その熱は人の熱とは少し違う気がした。

額に触れた指先へ、じん、と細かな震えが伝わってくる。


まるで、身体の奥で火ではない何かが回っているようだった。


「……あんたは」


まちるは、布団の上の女を見下ろした。


銀白の髪。

見たことのない仕立ての衣。

手元には、縮んだ白銀の棍。

胸元には、宝石とも火とも違う青い光。


人ではない、と言い切るには早い。

けれど、ただの旅人だと片づけるには、あまりに奇妙だった。


挿絵(By みてみん)


まちるは少し迷ってから、低く尋ねた。


「あんたは、どこから来たんだ」


エアノーレのまぶたが、かすかに動いた。


長い沈黙のあと、唇がわずかに開く。


「……上から、です」


まちるは眉を寄せた。


「山の上か」


「いいえ」


「じゃあ、海の向こうか」


「もっと、遠くです」


「遠くって、どこだ」


エアノーレは答えようとして、小さく息を詰まらせた。

胸元の青い光が、弱く揺れる。


「この星の……外側」


まちるは黙った。


しばらく、行灯の火が揺れる音だけが部屋に残った。


やがてまちるは、額の布を少し直した。


「熱でうなされてるな」


「事実です」


「熱のある者は、たいていそう言う」


エアノーレは薄く目を開いた。


青い瞳が、まちるを見た。

湖面の底のような、透き通った色だった。


「あなた方の言葉では……空の向こう、という表現が近いのでしょうか」


「空の向こう」


まちるは天井を見上げた。


「天か」


「天」


「そういう意味だろう。天女か、神の使いか、狐の化かしか」


「そのいずれでもありません」


「では何だ」


エアノーレは、少しだけ目を伏せた。


「トメイン軍所属、星衣任務者。エアノーレ・セリグナ」


まちるは数秒黙った。


それから、桶の水に布を浸しながら言った。


「……なおさら分からなくなった」


「説明が不足していますか」


「不足してるんじゃない。知らない言葉が多すぎる」


「では、順番に説明します」


「説明はあとでいい。今は寝てろ」


「任務状況の共有は必要です」


「だから、今は休めって言ってるんだ。話すにも体力がいるだろ」


エアノーレは、まちるを見つめた。


真剣な顔だった。

命令を受けたのか、拒否されたのか、判断しかねているようにも見えた。


まちるはため息をつく。


「まず確認する。エアノーレ、でいいんだな」


「はい。エアノーレ・セリグナです」


「私は――」


そこまで言いかけて、まちるは口を閉じた。


「いや。あんた、もう知ってるんだったな」


エアノーレは静かに頷いた。


「雨宮まちる」


「そうそう。人の荷物を勝手に見てな」


「任務秘匿保持上、必要な確認でした」


「礼儀の悪い確認だ」


「その点については、現地慣習への理解が不足していました」


「分かってるなら、次からやるなよ」


まちるは額の布を替えながら、じろりとエアノーレを見た。


「それで? 名前まで知ってるのに、さっきは私のことを記録に映らないとか言ってたな」


「はい」


「矛盾してないか」


「名前を知ることと、識別網に記録できることは別です」


「もう少し、こっちに分かる言い方をしてくれ」


エアノーレは少し考えた。


「あなたの持ち物に、雨宮まちるという名はありました。ですが、わたくしたちの識別網には、雨宮まちるという個体が存在しません」


「名札はあるのに、帳簿にはない、みたいなものか」


「近いです」


「……気味が悪いな」


「はい。非常に」


「そこは否定してくれよ。気味悪いって言われて、うなずくな」


「事実です」


「ほんと、あんたは事実が好きだな」


ハクが布団の端で小さく鳴いた。


まちるはハクを見た。


「お前も笑ってるのか」


ハクは尻尾をふくらませ、知らないふりをした。


エアノーレは、ゆっくりと息を吸った。

そのたびに胸元の光がわずかに明るくなり、すぐにまた弱くなる。


まちるは、その光を見つめた。


「その胸の光は、何だ」


「星衣核です」


「せいいかく」


「わたくしが、わたくしであるための核です」


「心臓みたいなものか」


「心臓であり、記録であり、鍵でもあります」


「ひとつに詰め込みすぎだろ」


「だから、壊れると困るのです」


まちるは黙った。


水辺での戦いが、脳裏によみがえる。


星律棍が走った。

三脚で受けた。

土が削れた。

水が跳ねた。

最後に、エアノーレの胸元の光が大きく乱れた。


あの瞬間の閃光が、まちるの目に残っている。


「あれで、壊れたのか」


「損傷そのものは、先ほどの交戦によるものです」


まちるの手が止まった。


「……私との」


「はい」


エアノーレは胸元の星衣核に手を添えた。


「地球降下時、星衣核は大きく出力を消費していました。白樺の水辺で安定化を行う予定でしたが、その前にあなたと接触しました」


「つまり、もともと弱ってはいたが、壊れてはいなかった」


「その理解で構いません」


「壊したのは」


まちるは言葉を切った。


「私との戦いか」


エアノーレはすぐには答えなかった。


「あなたは防御しただけです」


「聞いてるのは、そういうことじゃない」


まちるの声が少し低くなった。


「私が、悪くしたのか」


「直接的には、わたくしの出力が逆流したことによる損傷です。あなたの行動だけが原因ではありません」


「でも、私がその流れを変えた」


エアノーレは沈黙した。


まちるは、その沈黙を聞いた。


「……そうか」


「あなたに責任はありません」


「それを決めるのは、あんたじゃない」


「事実です」


「事実でも、こっちの気分は変わらない」


エアノーレは、少し困ったように眉を動かした。


「地球人の感情判断は複雑です」


「たぶん、あんたが単純すぎる」


また、ハクが鳴いた。


今度は、まちるに同意するようだった。


夜は深くなっていた。


まちるは父の測量帳を開き、行灯のそばに置いた。

何度も雨に濡れ、何度も乾いた紙。

角は擦り切れ、ところどころに父の筆跡が残っている。


北の頁には、空白が多かった。


山の輪郭は途中で途切れ、川筋は点線になっている。

父が辿りきれなかった道。

まちるがいつか埋めるつもりでいた空白。


その余白が、行灯の明かりに浮かび上がっていた。


布団の上で、エアノーレがかすかに身じろぎした。


「この星は……重い」


まちるは顔を上げる。


「さっきも言ってたな。私が重いみたいに聞こえる」


「あなたではありません。この星の重力です」


「重力?」


「地面が、身体を下へ引き続けています。補正が利きません。空気も、水も、土も……すべてが濃い」


「誰だって地面には引かれる」


「あなた方にとっては、そうなのでしょう」


まちるは、エアノーレの手首を取った。

脈を診ようとした。


だが、指先に返ってきたのは、普通の鼓動ではなかった。


とくん、とくん、という脈の奥に、細い振動がある。

小さな鐘が、遠くで鳴っているような震えだった。


「……何だ、これ」


「星衣核の拍動です」


「心臓じゃないのか」


「心臓もあります。ですが、この身体を地球環境に留めている主機能は、星衣核にあります」


「待て。地球環境って言ったか」


「はい」


まちるは、ゆっくりと息を吐いた。


「話が大きくなってきたな」


「最初から大きい話です」


「最初から分かるように話せ」


「あなたの理解体系に合わせるための語彙が不足しています」


「人のせいにするな」


エアノーレは真面目な顔で考え込んだ。


「では、比喩を用います」


「できるなら、やってみろ」


「努力します」


「難しい言葉は抜きで頼むぞ」


エアノーレは少し間を置いた。


「わたくしは、本来の空から外れ、この星の井戸に落ちました」


まちるは黙った。


「井戸の底は重く、湿り、壁が高い。星衣核は縄であり、灯であり、わたくし自身を保つ器でもあります。しかし、その縄が切れかけています」


エアノーレは、胸元の青い光に手を添えた。


「帰るのが、困難な状況です」


まちるはしばらく黙っていた。


「……少し分かった」


「有効でしたか」


「少なくとも、さっきよりは」


エアノーレは、ほんのわずかに安心したように目を伏せた。


まちるは測量帳に視線を落とす。


井戸の底。

切れかけた縄。

帰れない者。


そこまでなら、分かる。


星の外側だの、トメイン軍だの、星衣核だの。

それらはまだ飲み込めない。


だが。


帰れない、という言葉だけは、まちるの中に引っかかった。


「どうすれば帰れるんだ」


まちるは尋ねた。


エアノーレは胸元の星衣核に手を添えた。


「現在、帰還手段を確定できません」


「分からないのか」


「星衣核の損傷により、測位、識別、通信が不安定です。帰還経路も、補修地点も、現在は確定できません」


「……本当に迷子じゃないか」


「迷子ではありません。任務者です」


「帰り道が分からない任務者を、こっちでは迷子と言う」


エアノーレは、反論しかけて、少し黙った。


「語義の相違です」


「便利な言葉だな」


まちるは布を取り替えた。


エアノーレは、天井ではなく、もっと遠い場所を見るように目を細めていた。


「ただし」


「ただし?」


「本部との通信が回復すれば、指示を受けられる可能性があります」


「本部」


「わたくしの所属中枢です」


「仲間がいるのか」


「います」


「なら、迎えに来てもらえばいい」


エアノーレは、少しだけ目を伏せた。


「それが可能かどうかも、現在は不明です」


「不明ばかりだな」


「はい」


まちるは黙った。


エアノーレは嘘をついているようには見えなかった。

ただ、あまりにも何も分からない場所へ落ちた者の顔をしていた。


その時だった。


エアノーレの胸元が、淡く瞬いた。


それまで弱く明滅していただけの星衣核が、ほんの一瞬、行灯の火を押し返すほどの青い光を放った。


まちるは身を固くした。


「何だ」


エアノーレは胸元に手を添えた。


「……通信です」


「通信?」


「本部からの微弱信号を拾っています」


「さっき言ってた、所属中枢ってやつか」


「はい」


エアノーレは目を閉じた。


青い光が、胸元から喉元へ、そして瞳の奥へと流れるように移る。

その身体は、布団の上で動かなくなった。


眠っているのではない。

何かに意識を繋いでいるようだった。


まちるは、しばらくその姿を見ていた。


通信。

本部。

所属中枢。


言葉の意味は、ほとんど分からない。


けれど、エアノーレの表情だけは分かった。

それは、軽い話をするときの顔ではなかった。


まちるは、桶を手に取る。


「……よく分からないけど」


エアノーレのまぶたが、かすかに動く。


「仲間との大事なやりとりなら、私は外にいる」


「必要な情報は、後ほど共有します」


「そうしろ」


挿絵(By みてみん)


まちるは立ち上がった。


「倒れるなよ。倒れたら、また運ぶのは私だ」


そう言い残して、まちるは廊下へ出た。


戸が静かに閉まる。


部屋には、行灯の火と、エアノーレの星衣核の青い光だけが残った。


エアノーレは、しばらく閉じた戸を見つめていた。


やがて、ゆっくりと布団から身を起こす。


腕が震えた。

肩に力が入らない。

それでも彼女は、星衣核に手を添え、畳の上へ足を下ろした。


一度、立ち上がろうとする。


だが、地球の重さが身体を引き戻した。


エアノーレはその場で片膝をついた。


それでも、背筋だけは折らなかった。


任務者として。

星衣任務者として。

せめて通信に応じる姿勢だけは、崩さなかった。


胸元の星衣核が、細く青く震える。


「トメイン軍星衣任務者、エアノーレ・セリグナ。応答します」


星衣核が細く震えた。


「星衣核、損傷。原因、地球内交戦時の出力逆流。識別機能、部分喪失。測位、不安定。現地座標、確定不能」


沈黙。


エアノーレは、ほんのわずかに眉を寄せる。


「直接回収、不可。地球適合星衣、現存一基。対象星衣、損傷中。追加任務者の地球内活動は不許可」


星衣核の光が、不安定に揺れた。


「北方中継門、呼称ノースゲートへ現地移動。到達後、補修用星衣核の受領を試行」


さらに、低く報告する。


「追加報告。現地個体と接触。対象名、雨宮まちる」


青い光が、わずかに強くなる。


「対象、認識干渉無効。識別網への登録なし。古帝国管理登録、不明。星衣核損傷時、現場に存在」


しばらく、星衣核は沈黙した。


やがて、エアノーレは静かに息を吸った。


「本部応答、確認。現星衣核による判別結果は信頼度不足。対象個体の処遇判断を保留。補修用星衣核受領後、再識別を実施」


エアノーレの指先が、布団の上でわずかに動いた。


「了解しました」


青い光が、細くなる。


「古帝国軍中継器への施しは、可能範囲で継続。捕捉回避を最優先。通信終了」


光が消えた。


同時に、片膝をついていたエアノーレの身体が、大きく前へ傾いた。


手をつくより先に、肩が畳へ落ちる。


部屋の中で、何かが崩れるような音がした。

まちるは、桶を抱えたまま顔を上げた。


「おい」


急いで部屋へ戻ると、エアノーレが畳の上で肩を落としていた。

顔色は、さっきよりも白い。


「だから倒れるなと言っただろ」


まちるは駆け寄り、エアノーレの肩を支えた。


「問題ありません」


「問題あるやつの顔だ」


「通信維持に、予想以上の出力を消費しました」


「もうやるな」


「必要な通信でした」


「だから、そういう問題じゃない」


まちるはエアノーレを布団へ戻し、濡らした布を額に置いた。


しばらく、エアノーレは声を出さなかった。


胸元の星衣核は、消えかけた蛍のように細く明滅している。

青い光が、白い衣の縫い目を伝うようにわずかに広がり、肩、腕、腰のあたりで小さく途切れた。


まちるは眉をひそめた。


「……何をしてる」


「星衣核の最低限の再起動です」


エアノーレは目を閉じたまま答えた。


「損傷部位を迂回し、生命維持と歩行補助を優先します」


「つまり」


「日常行動に必要な機能だけを戻します」


「戦えるのか」


「現状では困難です。星律棍の高出力制御、姿勢制御、重力補正、長距離測位は不安定です」


「じゃあ、歩けるだけか」


「はい」


まちるは小さく息を吐いた。


「十分だ。今は」


エアノーレの胸元で、星衣核が一度だけ淡く瞬いた。

それに応じるように、白い星衣の袖口と胸元の線が、かすかに青く灯る。


それは力強い光ではなかった。

だが、完全に消えてもいなかった。


エアノーレはゆっくりと指を動かした。

次に手首を、肘を、肩を確かめる。


まるで、自分の身体がまだ地球に繋ぎ止められていることを、ひとつずつ確認しているようだった。


「歩行は、可能になる見込みです」


「いつだ」


「数刻の休息後、短距離なら」


「短距離ってどれくらいだ」


「あなたの尺度では……宿の外へ出る程度です」


「旅には足りないな」


「はい。ただし、一晩休めば、歩行補助はもう少し安定します」


「北まで歩けるのか」


「長距離移動は困難です。ですが、休息を挟みながらなら、移動は可能です」


「つまり、のろのろ行けってことか」


「その理解で構いません」


まちるは小さく息を吐いた。


「十分だ。急ぐ旅じゃない。……いや、急ぐんだろうが、倒れられる方が困る」


まちるは布を絞り直した。


「まずは休め。歩けるようになるまでは話だけでいい」


エアノーレは小さく頷いた。


そこでようやく、まちるは尋ねた。


「で。何が分かったんだ」


エアノーレは少し息を整えてから答えた。


「直接、わたくしの身柄の回収は不可能です」


「迎えは来ないのか」


「来られません。この星で安定して活動できる地球適合星衣は、現存一基。わたくしの星衣のみだからです」


「仲間は来られない」


「はい。通常星衣では、地球牢獄環境に適合できません。無理に降下すれば、星衣核を損傷する危険があります」


「地球牢獄?」


「この星の状態を指す、本部側の分類です。詳細は後で説明します」


「……また後回しか。まあ、今はいい」


「はい」


「来たやつも、あんたみたいになるのか」


「それより悪くなる可能性があります」


まちるは黙った。


助けに来ないのではない。

来られないのだ。


「それで」


まちるは低く尋ねた。


「帰る手がかりは?」


「北方中継門へ向かう必要があります。呼称はノースゲート」


「ほっぽう……のーすげーと」


「はい。わたくしの任務のために仮設された、トメイン軍側の物資転送用の秘匿ゲートです。到達できれば、補修用星衣核を受け取れる可能性があります」


「つまり、北にあるその門まで行けば、あんたを直すものがあるかもしれない」


「その理解で構いません」


「最初からそれくらいで言ってくれれば、こっちも分かる」


「努力します」


まちるは、少しだけ息を吐いた。


「それと、もうひとつ」


「何だ」


「古帝国軍中継器への施しは、可能な範囲で継続する必要があります」


「古帝国軍中継器」


「この星の牢獄機構に打ち込まれた杭のようなものです」


「敵の杭か」


「簡略化すれば、そうです」


「その杭と、のーすげーとは別物だな」


「別物です。ノースゲートは、わたくしの任務のためにトメイン軍が仮設した門です。古帝国軍中継器は、古帝国軍側の装置です」


「敵の杭と、あんた側の門」


「はい」


「それを先に言えって話だ」


「今、言いました」


「だから遅いって」


エアノーレは少しだけ目を伏せた。


「ノースゲートは、古帝国軍の通常包囲網に捕捉されないよう、秘匿性を優先して仮設されています」


「なら安全なんだな」


「いいえ」


「違うのか」


「閉じている間は、基本的に安全です。ですが、補修用星衣核を受け取るために開けば、反応が生じます」


「開けた瞬間、見つかるかもしれない」


「はい」


「……面倒な門だな」


「だから、到達後は迅速な受領が必要です」


「で、その時あんたは動けるのか」


「開門と受領には、星衣核の同調が必要です。作業中、戦闘行動は制限されます」


「つまり、門を開けている間は無防備になる」


「おおむね、その理解で構いません」


「おおむねじゃなくて、危ないだろ」


「危険です」


エアノーレは、淡々と言った。


まちるは、胸の奥に少し嫌なものが沈むのを感じた。


帰るための道は、見えた。

だが、その道は遠い。

たどり着いた先でさえ、安全ではない。


そして、彼女はそこまで一人で歩ける状態ではない。


まちるは羅針盤を取り出し、蓋を開けた。


針は、北を指していなかった。


いや、北に近い。

けれど、少しずれている。


まるで何かに引かれるように、針先が震えながら一定の方角を示している。


「……北じゃない」


「星衣核の微弱反応と、周辺の古帝国軍中継器反応が干渉している可能性があります」


「また難しいことを」


「つまり、あなたの羅針盤は、通常の北ではなく、わたくしの任務に関わる何かを指している可能性があります」


「最初からそう言ってくれ」


「今、言いました」


「だから遅いって」


まちるは羅針盤を閉じた。


ぱちん、と小さな音がした。


「……帰る場所があるんだな」


エアノーレは少しだけ沈黙した。


「あります」


「やらなきゃいけないことも」


「あります」


まちるは膝の上で指を握った。


水辺での戦いが、また頭をよぎる。

三脚に伝わった衝撃。

エアノーレの身体が崩れた瞬間。

青い光が、乱れた瞬間。


「あれで」


まちるは低く言った。


「私が、あんたを止めたのか」


「あなたは、防御しただけです」


「でも、止めたんだな」


エアノーレは答えなかった。


まちるは、その沈黙を聞いた。


そして、ようやく理解した。


この女が何者なのかは分からない。

どこの国の者なのかも、空の向こうから来たという話も、まだ飲み込めない。


けれど。


帰れなくなった者の顔だけは、分かった。


「……分かった」


エアノーレが目を向ける。


「理解したのですか」


「してない」


まちるは即答した。


「だが、行き先だけは分かった」


しばらくして、まちるは三脚のそばに座り直した。


「ノースゲートまで、道は分かるのか」


「星衣核の測位機能が乱れています。正確な座標は把握できません」


「つまり、分からないんだな」


「はい」


「偉そうに言うな」


エアノーレは少し困った顔をした。


「事実を述べています」


「事実を偉そうに言うな」


まちるは測量帳を開いた。

北の頁を指でなぞる。


「なら、測るしかない」


「測る」


「道を。山を。川を。距離を。方角を。そして、あんたの言う門とやらまでの道を」


エアノーレは、まちるを見つめた。


「あなたの目的と、わたくしの帰還は同じではありません」


「同じじゃなくていい」


まちるは言った。


「行き先が重なるなら、そこまでは一緒に行ける」


エアノーレの胸元で、星衣核が淡く揺れた。


「……なぜ、そこまで」


「帰れないのは、困る」


その言葉に、エアノーレは何も返せなかった。


まちるは視線をそらし、わざと素っ気なく続けた。


「ただし、ただで連れていくわけじゃない」


「条件ですか」


「そうだ」


まちるは鼻を鳴らした。


「たしかに、喧嘩を売ってきたのはあんただ。こっちはそれに巻き込まれた」


「喧嘩、ですか」


「細かい言い方はどうでもいい」


まちるは三脚の方へ目をやった。


「北へは連れていく。その代わり、喧嘩を売ってきた罰だと思って、私の仕事を手伝え」


エアノーレは瞬きをした。


「仕事」


「測量だ」


まちるは、父の測量帳を開いた。


北の頁には、まだ空白が多い。

山の影、沢の曲がり、獣道の先、冬に埋もれる道筋。

書きかけの線が、途中で途切れている。


「私は開拓使の仕事で、このあたりの道や土地を測ってる」


「開拓使」


「この国が北の土地を開くための役所だ。道を作るにも、村を置くにも、まず土地を知らなきゃならない」


まちるは、測量帳の余白を指でなぞった。


「川の流れ、水場、崖、ぬかるみ、村と村の距離。人が通れる道か、荷が通れる道か、冬に塞がる道か。そういうものを歩いて確かめて、記す」


エアノーレは静かに聞いていた。


「同時に、父さんが残した地図の続きを作ってる」


「父上の地図」


「父さんは、表の地図には載らないものも記していた。羅針盤の乱れ、水辺の妙な光、普通の道理から外れた地点。私には、それが何なのかまだ分からない」


まちるは少しだけ視線を落とした。


「でも、分からないからこそ測る」


「それが、あなたの目的ですか」


「そうだ」


まちるは測量帳を閉じた。


「だから、北へまっすぐ行けると思うな。必要な土地があれば測る。川があれば渡れる場所を探す。村があれば聞き取りもする。父さんの地図に空白があれば、そこも埋める」


「つまり、回り道が発生する」


「そういうことだ」


「ノースゲート到達までの効率が低下します」


「そこは我慢してくれ。こっちは仕事で歩いてるんだ」


まちるは即答した。


「こっちはあんたを北へ連れていく。あんたは私の仕事を手伝う。多少の回り道くらい、文句はなしだ」


エアノーレは少し考え込んだ。


「その測量記録は、古帝国軍中継器の所在特定にも寄与する可能性があります」


「そうだろうな」


「であれば、わたくしの任務にも有用です」


「なら、なおさら文句はなしだ。あんたにも得があるんだろ」


エアノーレは、胸元の星衣核に指先を添え、真剣な顔で考え込んだ。


「……なら、この条件は、わたくしがあなたの仕事を補助する形を取りながら、同時にあなたがわたくしの任務を補助する形にもなります」


「そうなるな」


「では、これは条件なのでしょうか」


まちるは少し考えた。


「条件だろ」


「しかし、わたくしにも利益があります」


「なら、ちょうどいい」


「ですが、対価として成立しているのか判然としません」


「面倒なやつだな」


まちるはため息をついた。


「つまり」


エアノーレは真剣な顔で言った。


「あなたは、わたくしの任務補助を、あなたの仕事の補助として偽装している可能性があります」


まちるは目を細めた。


「偽装してない」


「しかし構造上はそうなります」


「構造って何だ」


「わたくしが古帝国軍中継器へ施しを行うには、地点の特定が必要です。あなたは地点を測量する。結果として、あなたはわたくしの任務に寄与します」


「なら、あんたも私の地図に寄与しろ」


「します」


「ならいいだろ」


「いいのでしょうか」


「いい」


「本当に?」


「くどい」


エアノーレは黙った。


少しして、真面目な顔のままぽつりと言う。


「……地球の契約概念は、複雑です」


「たぶん、あんたが複雑にしてる」


布団の端で、ハクが小さく鳴いた。

まるで、まちるに同意するように。


エアノーレは、ハクを見た。


「この小型個体も、同意していますか」


「たぶん」


「では、三者合意ですか」


「勝手に増やすな」


「同行契約には、観測個体の承認も含まれる可能性が」


「含まれない」


ハクは、まちるの肩へ軽く飛び移った。

そして、ふさふさした尻尾を揺らした。


まちるはその尻尾を見て、少しだけ笑った。


「とにかく、北へ行く。ただし、ただ北へ歩くんじゃない。測りながら行く」


まちるは三脚に手を置いた。


「それが私の仕事だ」


エアノーレは静かに頷いた。


「了解しました」


「それと、途中で敵の杭を見つけたら、あんたが施しをする」


「古帝国軍中継器です」


「私には敵の杭で十分だ」


「よくありません」


「細かい名前は、歩きながら直してくれ」


エアノーレは、まだ納得していない顔をしていた。


けれど、拒まなかった。


その夜、まちるはあまり眠れなかった。


布団に横になっても、頭の中で羅針盤の針が揺れていた。


星衣核。

ノースゲート。

古帝国軍中継器。

施し。

地球適合星衣。


知らない言葉ばかりだった。


エアノーレの話は、半分も分からない。

いや、一割も分かっていないかもしれない。


空の向こうから来たと言われても、まだ信じきれない。

天女でも、神の使いでも、狐の化かしでもないと言われても、では何なのかと聞かれれば答えられない。


それでも、胸元の青い光が弱っていることは分かった。

エアノーレが今のままでは帰れないことも、分かった。


そして、自分との戦いが、その道をさらに遠くしたのかもしれないことも。


まちるは、横で眠るハクに小さく言った。


「父さんなら、どうしたかな」


ハクは丸くなったまま、片耳だけ動かした。


「たぶん、助けただろうな」


まちるは天井を見上げた。


父・森蔵なら、正体が分からない相手でも、道に倒れていれば背負っただろう。

言葉が通じなくても、水を飲ませただろう。

その者に帰る場所があると知れば、道を探しただろう。


測量師は、道を知る者ではない。


道を、確かめる者だ。

まだない線を、歩いて、測って、地図に残す者だ。


「……分からないものは、歩いて確かめる」


まちるは呟いた。


布団の向こうで、エアノーレの星衣核が淡く光った。


聞こえていたのかもしれない。


だが、エアノーレは何も言わなかった。


何も言えなかった。


星衣核の奥に残った本部の言葉が、エアノーレの中でまだ冷たく響いていた。


対象個体の処遇判断を保留。

補修用星衣核受領後、再識別を実施。


まちるは知らない。


自分が、まだ判定されていないことを。

助けようとしている相手が、いつか自分を再び識別しなければならないことを。


エアノーレは、布団の中で静かに目を閉じた。


今は、言えない。

言うべきではない。


そう判断した。


けれど、その判断が任務によるものなのか、別の何かなのか。

エアノーレ自身にも、まだ分からなかった。


夜明け前。


宿の外は、青白い冷気に包まれていた。


まちるは父の測量帳を荷に収めたあと、部屋の隅に置いていた古い革袋を引き寄せた。


それは、父・森蔵の荷物だった。


測量帳。

予備の紐。

小さな油紙に包まれた針。

古い方位記録。

擦り切れた布片。


その奥に、一枚のローブが入っていた。


深い藍色の布だった。


夜の湖をそのまま染めたような色。

光の角度によって、青とも黒ともつかない色に沈む。

布は薄いのに、不思議と重みがあった。

手に取ると、冷たいようで、どこか懐かしい温度が残っている。


エアノーレは、布団の上からそれを見た。


「それは」


まちるは、少しだけ手を止めた。


「母さんのものだ」


短く答えてから、ローブを広げる。


「父さんの荷物に残ってた。私には少し大きいし、普段は使ってない」


「形見、というものですか」


まちるは一瞬、エアノーレを見た。


「そういう言葉は知ってるのか」


「記録にはあります。所有者の死後、遺された者が保管する品。感情的価値が高い」


「感情的価値、ね」


まちるは小さく笑った。


「間違ってはいない」


そして、エアノーレの方へ歩いた。


「これ、着ておけ」


エアノーレはわずかに目を見開いた。


「わたくしが、ですか」


「その格好で外を歩く気か。悪目立ちにもほどがある」


「偽装ですね」


「また変な言い方をする」


「外見情報を現地環境に適合させる行為です」


「そういうのを、こっちでは“目立たないようにする”と言う」


まちるはローブを差し出した。


エアノーレは受け取ろうとして、少し躊躇した。


「これは、あなたにとって重要な品ではありませんか」


「重要だよ」


「では、なぜ」


まちるは少し黙った。


母の顔を、はっきり覚えているわけではない。

声も、匂いも、もう遠い。

けれど、この布を父がずっと荷に入れていたことだけは知っている。


父は、母の話をあまりしなかった。

でも、捨てなかった。


まちるは、その意味を知っている。


「帰れないのは、困る」


まちるは静かに言った。


「さっきも言いました」


「だからだ。……それに、そのまま外へ出したら、私まで面倒に巻き込まれる」


エアノーレは、まちるの顔を見た。


まちるは視線をそらす。


「母さんのものなら、たぶん道に迷った人を隠すくらい許す」


「許可確認は取れないのでは」


「だから、たぶんだ」


「曖昧です」


「家族のことは、だいたい曖昧なんだ」


エアノーレはすぐには答えなかった。


やがて、両手でローブを受け取る。


「お借りします」


「貸すだけだ」


「はい。必ず返却します」


挿絵(By みてみん)


エアノーレは、藍色のローブを肩にかけた。


その瞬間だった。


胸元の星衣核の光が、ほんのわずかに鈍った。


消えたのではない。

弱まったのでもない。


まるで霧の中に沈むように、光の輪郭がぼやけた。


エアノーレは目を細めた。


「……これは」


まちるが眉をひそめる。


「どうした」


「星衣核反応が、外部へ漏れにくくなっています」


「漏れにくい?」


「検知されにくい、という意味です」


「その布でか」


「はい。通常の繊維ではありません」


まちるは、藍色のローブを見た。


母の形見。

父の荷物に残されていた布。

古く、けれど傷みの少ない、不思議な藍。


「……母さんのものだ」


まちるは、それ以上うまく言えなかった。


エアノーレは、ローブの端を指で確かめる。


「この布の由来は」


「知らない」


「あなたの母上は、どこでこれを」


「知らないと言ってる」


まちるの声が少し硬くなった。


エアノーレは、それ以上聞かなかった。


代わりに、胸元に手を当て、静かに頭を下げる。


「では、今は問わないことにします」


「そうしてくれ」


「ですが、このローブは有用です」


「なら使え」


「はい」


「ただし」


まちるは指を一本立てた。


「汚すな」


「任務上、汚損の可能性はあります」


「汚すな」


「……努力します」


ハクがまちるの肩で小さく鳴いた。


まちるは鼻を鳴らす。


「お前も見張ってろ」


エアノーレは、藍色のローブを深く羽織った。


白い衣も、胸元の光も、銀白の髪の大半も、布の影に隠れる。

それでも完全に普通の旅人には見えない。


けれど、先ほどまでの異質さは薄れた。


まるで夜明け前の影が、彼女を一時だけこの土地に馴染ませたようだった。


まちるはその姿を見て、少しだけ息を吐いた。


「よし」


「適合しましたか」


「まあ、変な旅人くらいにはなった」


「評価基準が低いです」


「今はそれで十分だ」


まちるは三脚を背負い、測量帳と羅針盤を荷に収めた。

父の古い道具は、いつもより少し重く感じた。


一晩休んだとはいえ、エアノーレが元に戻ったわけではなかった。

ただ、昨夜よりは足に力が戻っている。

宿の外へ出るだけだった歩行補助は、どうにか次の休み場まで身体を運べる程度には安定していた。


エアノーレは、まだふらつきながらも立っていた。

星衣核の最低限の補助が戻ったとはいえ、歩くたびに肩がわずかに揺れる。


本来なら重力を感じさせずに身体を支えるはずの星衣は、今はただ、彼女を倒れないよう支えているだけだった。


星律棍を歩行の支えにし、藍色のローブを肩から羽織る。

白い衣と銀白の髪は、それでも完全には隠しきれない。


「歩けるのか」


まちるが尋ねる。


「歩行可能です」


「無理なら言え」


「任務者は、必要以上の脆弱性を申告しません」


「そこは申告してくれ。倒れられたら、また私が運ぶんだろ」


「……必要であれば、申告します」


「最初からそう言えばいいんだよ」


ハクはまちるの肩に乗り、エアノーレをじっと見ていた。


エアノーレも、ハクを見る。


「その個体は、同行するのですか」


「する」


「役割は」


「ハクだ」


「役割名ではありません」


「私にとっては、役割みたいなものだ」


エアノーレは少し考え込んだ。


「理解困難ですが、記録します」


「記録するな」


宿の戸口に立つと、北から冷たい風が吹いた。


まちるは羅針盤を開いた。


針はやはり、北から少しずれた方角を指している。

震えるように。

呼ばれるように。


エアノーレの胸元の星衣核も、それに応じるように淡く瞬いた。

藍色のローブ越しに、その光はやわらかく滲んでいる。


「行くぞ。遅れるなよ……いや、無理はするな」


「はい」


「言っておくけどな、これは条件だからな」


「理解しています。わたくしも、任務上同行するだけです」


「そうか」


「はい」


挿絵(By みてみん)


二人はそれ以上、何も言わなかった。


条件だから。

任務だから。

ついでだから。


まだ、その言葉でよかった。

まだ、そう言っていればよかった。


北へ。


地図を作るために。

帰る道を探すために。

古帝国軍中継器へ施しを行うために。


そして、いつかその言い訳が必要なくなる日へ向かって。


まちるは一歩を踏み出した。


湿った土が、草履の下で小さく沈む。

三脚の金具が背中で鳴る。

肩の上で、ハクが尻尾を揺らす。


少し遅れて、エアノーレが歩き出した。


星律棍の先が、こつ、と地面を突く。


その音は、まだ頼りなかった。

けれど、確かに前へ進む音だった。


まちるは振り返らなかった。


分からないことは、山ほどある。

信じられないことも、山ほどある。


だが、帰れないのは困る。

それくらいは、分かる。


だから、北へ行く。


測りながら。

記しながら。

逃げながら。


まだ誰のものでもない地図の空白へ。


二人と一匹の旅は、少しこじつけた約束から始まった。



つづく


著 國風惠昂


ここまでお読みいただきありがとうございます。


第3話では、まちるとエアノーレの旅がようやく始まりました。


とはいえ、まだ二人は仲間でも友人でもありません。

まちるにとっては「帰れないのは困る」から。

エアノーレにとっては「任務上同行するだけ」だから。

そんな、少しこじつけた理由からの出発です。


今回、まちるがエアノーレに貸した藍色のローブは、母の形見です。


父・森蔵は、母の話をあまりしなかった。

でも、そのローブは捨てずに残していた。


まちるは、父が何を語らなかったのかまでは知りません。

けれど、捨てなかったということの意味だけは分かっています。


言葉にされなかった家族の記憶を、今度はまちるが、帰れなくなった誰かのために使う。

このローブは、そんな小さな継承の品でもあります。


次回、第4話では、まちるの本業である測量の旅が本格的に始まります。

開拓使の仕事。

父の未完の地図。

そして、エアノーレの任務。


三つの目的が、少しずつ同じ道の上で重なっていきます。


第4話もお楽しみいただければ幸いです。

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