第93話:神の視座と、冷酷なる民主主義
本日3話目
西暦1889年4月1日、地球 ― リバティ特区 中央広場。
「食い物を寄越せ!あいつらが隠し持っていた食い物を!」
暴徒と化した数万の市民が、広場に集積されつつある物資のコンテナを取り囲み、今にも略奪の波となって押し寄せようとしていた。
怒号と殺気が渦巻く中、治安維持部隊の盾の列が軋み、崩壊は秒読みの段階に入っていた。
「押し留めろ!絶対に火器は使うな!」
最前線に立ったアーサーが絶叫し、その声に合わせて、巨大な軍用トラックから大量の湯気が立ち上った。
「聞け!今すぐ炊き出しを始める!順序を守れば、全員に温かい食事が届くんだ!略奪ではなく、市民の正当な権利として受け取れ!」
アーサーの合図で、治安部隊の手によって大鍋で煮込まれた温かいスープと、焼きたての肉が次々と市民たちに配られ始めた。
胃袋を直接掴むその圧倒的で暴力的なまでの「匂い」が、広場を支配していた殺意を塗り潰していく。
温かい食事を手にした者から、手にしていた鉄パイプや石を捨て、その場にへたり込んで無心で食らいつき始めた。
極限の空腹という本能が満たされたことで、暴動の熱は急速に引いていき、広場にはスープをすする音と、安堵の涙を流す声だけが響くようになった。
市民の理性がようやく地上へ引き戻されたのを確認し、アーサーは広場の中央に設けられた仮設の演壇に立った。
「市民たちよ。皆の腹が少しでも満たされた今、聞いてほしいことがある」
アーサーの背後に、手錠をかけられ、無惨に引きずり出されたバルボアら元貴族たちが並ばされた。
そして、広場の巨大モニターに、数日前の統議評議会の映像が映し出された。
それだけではない。
アーサーは、治安維持局が強制捜査で押収した「裏帳簿」と「隠し倉庫」の生々しい記録、そして彼らが独断で住民の出国申請を握りつぶしていた証拠のメール群を、次々とモニターに叩きつけた。
『怠惰な有象無象を食わせるために、私の正当な財産を一ミリたりとも削るつもりはない』
バルボアの冷酷な肉声が広場に響き渡る。さらに、彼らが私兵を雇って、物資を奪いに来た市民を射殺する許可を出していた極秘指令書までもが公開された。
「これが、我々の指導層の真実だ。彼らは自由という美名の下で富を独占し、諸君らを見殺しにするどころか、逃げようとする者の足まで折って、ここで野垂れ死にさせようとしていたのだ!」
映像と証拠を見た市民たちの間に、地鳴りのような激しい怒りのどよめきが広がる。
「殺せ!そんな奴らは殺してしまえ!」
市民の怒号に対し、アーサーは力強く首を振った。
「いや、殺してはいけない! 彼らと同じ獣に成り下がってはいけないんだ! 私は今日、法を犯し、強権を用いて彼らを拘束した。私を独裁者と呼ぶ者もいるだろう。だが、私はこの特区の未来を、これ以上この恥知らずな獣たちに売り渡すわけにはいかなかったのだ!」
アーサーの悲痛な叫びに、広場は水を打ったように静まり返った。
「私は今この瞬間、腐敗した議会を解散する! 没収した物資は全て平等に分配し、彼らには公正な裁判を受けてもらう! そして、特区全土での解散総選挙を布告する! 諸君らの手で、本当に信頼できる新たな代表を選び、この自由な国を、人間の尊厳ある国を建て直してほしい!」
それは、泥を啜ってでも民主主義の火を絶やさないための、アーサーの命を懸けた大演説だった。
【西暦1889年5月1日:エリュシオン】
第一階層アクセス権限、承認。
サブ・ユーザー:九条魁斗、ログイン。
エリュシオンの玉座に座る魁斗の眼前に展開された巨大なホログラムスクリーンに、ダイソン球から引き出された途方もない情報量が、パレスの量子AI群によって視覚的に最適化されて出力される。
「……素晴らしい。これが、神が見ていた景色というわけですか」
それは、人類が観測し得る限界を超えた、深宇宙の真理だった。
ダイソン球は、この宇宙が最終的に行き着く絶対零度の終焉、「熱的死」をいかに引き延ばすかという、途方もない演算を永遠に繰り返す「宇宙の演算機」であったのだ。
「魁斗様、ダイソン球の演算リソースの30パーセントを、パレスの統括AI群へバイパスすることに成功しました」
ダヴィンチの声は、かつてなく興奮に震えていた。
「これで、全地球の気象制御、地殻変動の完全予測、さらには全人類の遺伝子レベルでの最適化シミュレーションすら、数秒で完了します。もはや我々に、予期せぬエラーは存在しません」
「ご苦労様です、ダヴィンチ。……このダイソン球の演算によれば、宇宙の熱的死を回避するための最適解は、『知的生命体による無秩序なエネルギー消費の完全なる統制』だそうです。我々がパレスで行っている人類の徹底的な管理は、宇宙の真理においても『正しい』と証明されたのですよ」
魁斗は、地球儀のホログラムの中で微かに光る、特区の座標を冷ややかな目で見下ろした。
「地球に残るあの愛すべき愚か者たちも、そろそろ自らの足で歩くことに疲れ果てた頃でしょう」
同日、地球。
暴動から一ヶ月が経過したリバティ特区では、アーサーの公約通り「総選挙」の投票日が数日後に迫っていた。
だが、執務室で報告書に目を通すアーサーの顔は、酷く沈み込んでいた。
「……立候補者が、たったの三名。しかもそのうち二名は、『パレスへの無条件降伏による、食料とインフラの恒久的な保障』を公約に掲げている。独立の維持を訴えているのは、私だけか」
側近の青年が、沈痛な面持ちで頷いた。
「没収した備蓄も、長くは持ちません。市民は気づいているのです。我々の生産設備では、パレスのような『完璧に計算された豊かさ』は永遠に手に入らないと」
街の巨大モニターからは、パレスのプロパガンダ放送が絶え間なく流されている。
清潔な衣服、温かい食事、完璧な医療。
「泥水を啜ってでも自由を選ぶ」という崇高な理想は、一度飢えの恐怖を味わった市民たちの前では、あまりにも無力だった。
アーサーは、夕暮れに染まる特区の街並みを見下ろした。
魁斗が冷酷に予測した通り、外部からの武力介入など一切必要なかった。
数日後の選挙は、特区の市民たちが自らの手で、合法的に「自由の終焉(パレスへの降伏)」に判子を押すための、残酷な儀式へと変わり果てていた。
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