第87話:自由の倦怠と、黄金の苗床
【1885年:地球・大西洋上『特別自治特区・リバティ』】
「自由」という名の熱狂が、静かな「倦怠」へと変わり始めていた。
特区リバティの建国から一年。
パレスが提供した強固なインフラは、依然として完璧に稼働し続けていた。
水道からは清浄な水が流れ、電力は安定し、セレス(農業統括)の指導を仰がずとも、肥沃な大地は豊かな実りをもたらしている。
だが、そこに住む五万人の市民たちの心には、目に見えない澱が溜まり始めていた。
「……また、このメニューか」
居住区の食堂で、一人の男がパレス製の合成食料を前に溜息を吐いた。
かつては「飢えからの解放」と称えられたその食事も、今や「パレスに飼われている証」として忌むべき対象になりつつあった。
「文句を言うな。自分たちで献立を決める権利を勝ち取ったんだろう? 議会が栄養バランスとコストを議論した結果がこれだ」
「分かっている。だが、パレスの直轄地では、もっと多様なメニューが毎日無償で提供されていると聞く。なぜ自由を選んだ我々の方が、不自由な思いをしなければならないんだ?」
この「贅沢な不満」こそが、特区リバティを蝕む病の正体であった。
パレスは、独立した彼らに対して「必要なデータ」と「管理マニュアル」を全て公開していた。
しかし、そのマニュアルは数千ページに及ぶ高度な数式と論理の塊であり、専門家が束になっても、システムを「最適」に維持するための合意形成には数週間を要した。
パレスなら一瞬で終わる調整が、民主的な議会では終わりのない紛糾を生む。
そのわずかな「ズレ」が、住環境の細かな快適さを損なわせ、それが市民のストレスを増幅させていく。
ジャン議長は、連日連夜、議場で叫び続けていた。
「自由とは、パレスの至れり尽くせりなサービスを捨てることだ! 多少の不便は、我々の自律の証ではないか!」
だが、民衆の耳に届くのは、その崇高な理念ではなく、隣の「パレス直轄区」から聞こえてくる、完璧に管理された安楽な生活の噂だけであった。
不満は種火のように、静かに、確実に蓄積されていた。
【同時期:地球・アイアン・パレス「エリュシオン」特別教育区画】
特区での低俗な不満を余所に、パレスの最深部では「真の進化」が加速していた。
「……お父様、この銀河地図の『重力勾配』の計算、修正してもよろしいでしょうか?」
まだ幼い、魁斗の第一子が、空中に展開された三次元マップの特定座標を指差した。
その指先が触れると、パレスのスーパーコンピューターが数時間を要する複雑な軌道計算が、わずか数秒で「最適化」されていく。
「ええ。あなたの論理が正しい。やってごらんなさい」
魁斗は、椅子の背にもたれかかり、我が子の驚異的な成長を満足げに見つめていた。
エリュシオンで育つ子供たちは、他の赤ん坊とは比較にならない速度で言語と論理を吸収している。
彼らにとって、複雑な数式を解くことは呼吸と同じであり、万物をパレスの論理で俯瞰することは生存の本能であった。
「彼らには、リバティの住人のような『迷い』はありません」
傍らに立つアテナ(教育統括)が、静かに告げた。
「彼らは自分たちが『支配者』として生まれてきたことを、細胞レベルで理解しています。自由を欲しがって溺れる大衆を管理し、導くことが、自らの存在意義だと確信しているのです」
「それでいい、アテナ。……彼らは私の最高傑作だ」
魁斗は、遊戯室の中で静かに(しかし冷徹な効率性を持って)学ぶ子供たちを見つめ、漆黒の瞳に深い愛着を宿した。
「外の世界では、愚か者たちが『自由』という名の不平不満を育てている。……彼らが自らの無能さに絶望し、再び私の足元に跪くその日まで、この子たちを完璧な『管理者』として完成させなさい」
特区リバティの停滞と、エリュシオンの急速な進化。
その対比は、人類という種が「管理される側」と「管理する側」へ、不可逆的に分断されつつあることを示していた。
魁斗の関心は、もはや地球の小さな内紛にはなかった。
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