第86話:自由の代償と、衆愚の泥濘
本日4話目
【1884年 冬:地球・大西洋上『特別自治特区・リバティ』】
「民主化要求グループ」のリーダーであるジャンは、決して愚か者ではなかった。
むしろ、旧世界においては優秀な政治学者であり、優れた組織の扇動者であった。
マスター魁斗から「完全な自治特区」として大西洋の孤島を提示された際、ジャンは万全の準備を整えていた。
彼はパレスの高度な管理システムに依存しないよう、自分たちの理念に賛同する優秀な旧世代の技術者、農学者、そして医師たちを数千人規模で説得し、移住団に引き入れていた。
さらに、パレスのインフラに頼らずとも五万人が自給自足できるよう、地熱発電プラントや水質浄化システムの設計図と機材を、交渉によってパレス側から合法的に譲り受けていたのだ。
(魁斗はそれを、まるで子供に古い玩具を与えるような微笑みで、あっさりと許可した)
「……見ろ、我々の手で作り上げた『真の国家』だ」
移住から三ヶ月後。
特区リバティの議事堂のバルコニーから、ジャンは誇らしげに街を見下ろしていた。
彼らの計画は、見事に成功しているように見えた。
農地では専門家たちの指導によって豊かな作物が実り、旧型のプラントは技術者たちの不眠不休の努力によって島全体にエネルギーと清浄な水を供給していた。
自分たちの代表を自分たちの選挙で選び、自由に発言し、法律を議論する。
そこには、アイアン・パレスの冷徹な管理下では味わえなかった「人間の尊厳」と「活気」が満ち溢れていた。
だが、彼らが謳歌していた「自由の美酒」は、少しずつ、しかし確実に腐敗の臭いを放ち始めていた。
【移住から五ヶ月後:特区リバティ議事堂】
「ふざけるな! なぜ農業区画の労働時間ばかりが削減され、我々工業区画の負担が増えるのだ!」
議事堂内に、工業代表の議員の怒号が響き渡った。
「食料の生産こそが国家の生命線だろう! トラクターの修理部品の供給を遅らせているのはそっちではないか!」
農業代表の議員が、顔を真っ赤にして反論する。
問題の根本は、極めて単純であった。
資源も、人材も、時間も「有限」なのだ。
パレスの統治下では、魁斗という絶対的な上位演算者が、全地球の資源状況をリアルタイムで把握し、一切の感情を排して「一秒」で完璧な最適解を弾き出し、配分していた。
しかし、民主主義を採用したこの島では、限られた資源の分配先を決めるために、それぞれの「利権」を代表する者たちが、数週間、時には数ヶ月にわたって議論し、牽制し、妥協点を探らなければならなかった。
さらに致命的だったのは「選挙」というシステムの存在である。
次期選挙での当選を目論む政治家たちは、民衆の耳障りの良い公約――「労働時間の短縮」「配給の増加」「娯楽施設の建設」――を乱発した。
財源や資源の裏付けがないまま、議会は民意に迎合し、本来必要なインフラのメンテナンス予算を削ってまで、目先の福祉に資源を回し始めたのだ。
「……皆さん、冷静になってくれ! 今、水質浄化プラントのメインフィルターが限界を迎えている!」
議長席に座るジャンが、必死に声を張り上げる。
「新しいフィルターの製造には、工業区画の全ラインを三日間止める必要がある。これは島全体の命に関わる問題だ!」
だが、工業代表は首を横に振った。
「とんでもない! 今ラインを止めれば、来月配給予定の生活必需品の生産が間に合わなくなる。市民からの突き上げを食らうのは我々だぞ!」
「ではどうする! 汚水を飲めと言うのか!」
「農業区画の予算を削って、外部からパレスの部品を輸入すればいいだろう!」
「パレスとの交易は全面禁止の法律を可決したばかりだろうが!」
議事堂は、再び果てしない罵倒と責任の押し付け合いの泥濘へと沈んでいった。
誰もが「自分の区画」「自分の支持者」の利益を守ることに必死で、島全体の未来を見据える者は一人もいなかった。
パレスの論理において「一秒」で実行されるべきインフラの維持補修が、彼らの民主主義においては「一ヶ月」経っても結論が出ない。
【地球・アイアン・パレス「エリュシオン」情報統制室】
「……あーあ。見事に予測通りの崩壊曲線を描いてるね」
空中に展開されたモニターでリバティ特区の議会の様子を眺めながら、攪乱統括のロキが嘲笑した。
「彼らは頭が悪いわけじゃありません。ただ『合意形成のコスト』というものを、致命的に甘く見ていたのです」
教育統括のアテナが、冷徹な声で分析する。
「人間が百人集まれば、百通りの欲望が生まれます。それを『話し合い』で一つにまとめることなど、最初から不可能なのです」
部屋の奥で、美しい革張りのソファに深く腰掛けた魁斗が、年代物の赤ワインが入ったグラスをゆっくりと揺らしていた。
「ええ。彼らは今、歴史の教科書に載っている『衆愚政治への転落』を、見事なまでに実演してくれています」
魁斗の漆黒の瞳には、苦しむ者への同情は一切ない。
あるのは、自らの設計した「完璧な鳥籠」の正しさが、愚か者たちの失敗によって証明されていくことへの、深い満足感だけであった。
「……さあ、ジャン議長。そろそろフィルターが限界を迎えますよ。あなたの愛する『自由な市民たち』は、渇きと病の中で、どんな美しい多数決を見せてくれるのでしょうね」
パレスの王は、自らが与えた「自由という名の劇薬」が、反逆者たちの胃袋を完全に食い破る瞬間を、極上の娯楽として待ちわびていた。
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