第85話:ノイズの胎動と、慈悲深き観察者
本日3話目
【1884年 冬:地球・旧フランス パリ第三居住区・地下集会場】
アイアン・パレスの統治下において、地球上のあらゆる都市は美しく作り替えられていた。
セーヌ川は透き通るような清流を取り戻し、街角にはアヌビス(廃棄物処理統括)のプラントが清浄な空気を供給し続けている。
飢えも、凍える夜も、疫病も存在しない。
人々はパレスから与えられる豊かな配給と、適度な労働によって、有史以来最も平和な生活を謳歌していた。
だが、人類という種は、満ち足りた環境を与えられると、必ず「次なる不満」を見つけ出す生き物である。
パリ第三居住区の地下深く、かつてのワインセラーを改装した薄暗い集会場に、数百人の男女が息を潜めて集まっていた。
彼らの多くは、旧時代の大学教授、思想家、そして「血を流して勝ち取った革命の歴史」を誇りとする若者たちであった。
「同胞たちよ! 我々は今、黄金の鳥籠の中で飼い殺しにされている!」
演壇に立った青年、ジャンが、熱を帯びた声で聴衆に呼びかけた。
「確かに、パレスは我々にパンと平穏を与えた。だが、それは『家畜への餌付け』に過ぎない!」
「我々には、自分たちの代表を選び、自分たちの法律を作り、自分たちの未来を決定する権利があるはずだ! マスター魁斗というたった一人の独裁者に、人類の運命を委ねてはならない!」
「そうだ! 我々に自由を!」
「真の民主主義を取り戻せ!」
地下室は、ジャンに共鳴する者たちの熱狂的な歓声に包まれた。
彼らは、パレスの「完璧な管理」を人間の尊厳の剥奪であると定義し、各地で秘密裏に同志を募っていた。
いずれ大規模なストライキとデモを起こし、パレスに対して「民主的な議会の設置」を要求する計画を企てていたのだ。
【同時刻:地球・アイアン・パレス「エリュシオン」情報統制室】
「……やれやれ。お腹がいっぱいになると、人間ってのはすぐにこういう寝言を喚き出すんだから。世話が焼けるよね」
攪乱・情報戦統括のロキが、空中に展開された無数のホログラムモニターを眺めながら、呆れたように肩をすくめた。
モニターには、パリの地下集会場の様子だけでなく、ジャンの心拍数、参加者全員の身元データまでが、リアルタイムで詳細に表示されていた。
パレスの監視網を逃れることなど、地球上において不可能である。
「ノイズです。パレスの完璧な秩序を乱す、非合理的なバグに他なりません」
司法・規律統括のテミスが、感情の一切こもらない氷のような声で断じた。
「即座に治安維持部隊を派遣し、首謀者ジャン及び賛同者412名を拘束。パレス基本法違反として、社会システムからの『消去』を推奨します」
テミスの提案は、パレスの論理において最も正しく、最も効率的なノイズ排除の手順であった。
彼女の指先が、鎮圧部隊の出撃コードを入力しようとした、その時。
「待ちなさい、テミス。……手荒な真似は感心しませんね」
静かな、しかし絶対的な重みを持つ声が室内に響いた。
扉が開き、仕立ての素晴らしいスーツを着こなした魁斗が、優雅な足取りで入ってきた。
「マスター魁斗。しかし、彼らの思想は伝染する性質を持っています。放置すれば、生産ラインの低下を招きます」
「ええ、分かっていますよ。ですが、彼らを武力で弾圧して『消去』してしまえば、彼らは地下に潜ったまま『自由のために散った悲劇の殉教者』になってしまう」
「それは、後に続く愚か者たちにとって、甘美な英雄譚として消費されるノイズの温床になります」
魁斗はモニターに映るジャンの熱弁を見つめ、微かに、そして底知れぬほど冷徹に微笑んだ。
「アテナ(教育統括)の再教育プログラムを施すのも手ですが、今回はせっかくの機会です。彼らの熱意を尊重し、少し『実地研修』を行ってあげましょう」
「実地研修、どすか?」
傍らの桜華が小首を傾げる。
「人間という生き物は、頭で理解させられるより、自分で痛い目を見ないと学習しないのです」
「彼らがそこまで『民主主義』と『自己決定権』を渇望し、私の庇護を『家畜の檻』だと蔑むのなら……その望み通り、完璧な自由を与えてあげればいい」
魁斗の瞳の奥で、全てを見透かした猟師のような暗い光が揺らめいた。
「ロキ。彼ら『民主化要求グループ』の代表者たちに、私からの招待状を送りなさい。彼らの主張を真摯に受け止め、話し合いの場を設けるとね」
「……さあ、彼らが欲してやまない『残酷な自由』という名の劇薬を、たっぷりと味わわせてあげましょう」
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