第70話:温室の中の幸福、空を見上げる百億の瞳
本日4話目
【1876年12月:旧ロンドン市街 パレス特別居住区】
石炭の煤煙に汚れ、貧困と病が蔓延していたかつてのロンドンは、今や「パレスの論理」によって磨き上げられた無菌室のような美しさを湛えていた。
元工場労働者のトーマスは、パレスから支給された清潔な衣服に身を包み、広場にある巨大な「パレス・ビジョン」を見上げていた。
そこには、月面に降り立った銀色の輸送船と、若き科学者レオンハルトの姿が映し出されている。
「……信じられるか、マーサ。俺たちは、あんな遠い場所まで管理下に置いたんだ」
隣に立つ妻のマーサは、パレスの配給センターから受け取ったばかりの、栄養バランスが完璧に計算された合成食料をカゴに入れ、穏やかに微笑んだ。
「ええ、トーマス。昔は明日のパンの心配ばかりしていたけれど。今は九条魁斗様が、空の向こうまで私たちの安全を広げてくださっている。なんて平和な時代かしら」
彼らにとって、パレスによる支配は「不自由」ではなかった。
それは「生存の保証」であり、自分たちでは決して解決できなかった飢え、寒さ、そして争いという名の『摩擦』からの完全な解放であった。
パレスのスピーカーからは、心理音響統括ミューズが設計した、安らぎを誘う周波数が静かに流れている。
市民たちは知らず知らずのうちに、パレスの管理を呼吸と同じくらい自然なものとして受け入れていた。
【旧アメリカ・ニューヨーク:パレス・レジャーセンター】
かつてのアメリカの喧騒は、今や「管理された効率的娯楽」へと昇華していた。
元軍人のジョンは、パレス製の高精度義肢を動かしながら、野球のナイター中継を見ていた。
アメリカのジャック・ミラーが100マイルの剛球を投げる姿に、人々は熱狂している。
「俺たちの国が負けても、パレスが勝てばそれでいい。結局、世界は一つなんだからな」
ジョンの周囲にいる男たちも頷いた。
彼らはかつて銃を取って戦っていたが、今やそのエネルギーは、パレスが用意したランキングやスポーツ、そして「宇宙開発という共通の夢」へと転嫁されていた。
不満の種となる不平等は、経済管理統括マモンによって完全に消し去られている。
すべての通貨はパレスの「クレジット」に一本化され、誰もがその労働(パレスのシステム維持)に応じて、必要十分な報酬を受け取っていた。
「次は月面旅行の募集が始まるらしいぜ。パレスの市民ランクを上げれば、俺たちだって空に行ける」
そんな噂が、若者たちの向上心を刺激する。
パレスの支配は、絶望ではなく「終わりのない向上」という名の依存を、人類に植え付けていた。
【旧日本・江戸:パレス中央公園】
夕暮れ時の江戸。
パレスの技術で空調管理された公園では、桜の花が季節を問わず美しく咲き乱れていた。
元侍の老人は、かつての刀をパレスの博物館に預け、今は盆栽の手入れに余念がない。
彼の隣では、孫たちがパレス・アカデミーの端末を操作し、核融合や地磁気の基礎理論を学んでいる。
「じいじ、空を見て。月があんなに光ってる」
子供が指差す先、月面にはパレスの磁気シールドが放つ、微かな青白い光の輪が見えていた。
それは地球からでも、パレス製の望遠ビジョンを通せば確認できる、絶対的な秩序の灯火であった。
「ああ。あそこには、魁斗様がお作りになった新しい都がある。お前たちが大きくなる頃には、あそこまで散歩に行けるようになるだろうな」
老人は目を細めた。
かつて命を賭して守ろうとした「国」や「主」は、今やパレスという巨大なシステムの中に溶けて消えた。
だが、その後に残ったのは、かつて一度も経験したことのない、全人類が共有する「穏やかな夜明け」であった。
【アイアン・パレス:マスター・デッキ】
世界中のビジョンが消灯し、人々がパレスの管理する安眠へとつく時間。
魁斗はデッキに立ち、足元に広がる光の海を見下ろしていた。
各都市の明かりは、パレスの神経網のように等間隔で並び、一切の無駄なく脈動している。
「マスター。百億の民のバイタル、すべて安定域です」
生体統括アスクレピオスが、タブレットを手に報告する。
「彼らは幸せか、アスクレピオス」
「はい。セロトニンとドーパミンの分泌量は、旧文明の平均値から40%上昇しております。彼らはもはや、悩む必要さえありません。パレスが、すべてを決めてくれるのですから」
魁斗は満足げに頷き、夜空の月を見上げた。
「摩擦なき世界。管理された幸福。……これが、私が求めた最適解です。ですが、アスクレピオス。人類の進化は、ここから加速します。地球という揺りかごを整えた今、私たちはようやく、宇宙という名の『試験管』に入る資格を得たのです」
夜空の向こうでは、ルナ・パレスの銀色のドームが、地球という主君に忠誠を誓うように静かに輝き続けていた。
人類は今、自分たちの意志ではなく、九条魁斗という神のタクトによって、未知の深淵へとその歩みを進めようとしていた。
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