第69話:無音の飛翔、月面を覆う銀色の産声
本日3話目
【1876年秋:アイアン・パレス 宇宙港エリア】
かつての蝦夷地の荒野は、巨大なプラントと幾何学的な構造物が立ち並ぶ、世界最大の宇宙港へと変貌を遂げていた。
「美しいでしょう? これが、パレスの質量制御が生んだ、真の姿です」
設計・意匠統括のダヴィンチが、銀色に輝く輸送船を指し示す。
レオンハルトは、発射パッドに鎮座するその巨大な船体を見上げ、言葉を失っていた。
爆発を前提とした無骨なロケットなど、そこには存在しない。
あるのは、エネルギーを質量へと昇華させ、重力の檻を優雅に抜け出すための、滑らかな曲線の塊であった。
輸送船のブリッジは、微かな機械音すらしない完全な静寂に包まれていた。
レオンハルトが耐Gシートに座ると、正面のモニターに司令室の魁斗の姿が映し出された。
『レオンハルト。今、船体の前方で、エネルギーによる擬似的な質量生成が始まっています。船は今、自ら作り出した空間の歪みへ向かって、落下を開始します』
魁斗の合図と共に、輸送船は「ふわり」と浮き上がった。
轟音も、衝撃もない。
ただ、船前方に発生した強烈な「重力の崖」に向かって、船体が引き寄せられるように加速していく。
「信じられない……。上昇しているのではない。我々は、宇宙という目的地に向かって『落ちて』いるのか!」
レオンハルトは、パレスの科学がもたらす逆転の発想に、狂おしいほどの感動を覚えていた。
窓の外では、青い地球が急速に遠ざかり、空の色が濃紺から漆黒へと塗り替えられていく。
一方、中央司令室では、輸送船の完璧な軌道を監視する傍らで、女性幹部たちによる寵愛争奪戦が激化していた。
「マスター。月面までの数時間、私が肩をお揉みしましょう。シエルの紅茶よりも、私のマッサージの方が、リラックス効果が高いことは数値で証明されていますわ」
美容・被服統括のアフロディテが、魁斗の背後に回り、そのしなやかな指先で首筋に触れる。
「あら、アフロディテ様。相変わらずお派手なことで。主のお体は、そんな香水臭い指先で弄るもんやあらしまへんえ」
涼やかな、しかし氷のような冷たさを孕んだ京言葉が響いた。
武芸・近接統括の桜華が、超硬合金の刀の鞘を指で弾き、一歩前に出る。
「主、お疲れどすなあ。不粋な連中が騒がしゅうして堪忍どす。ウチがここにおれば、雑音も不浄も、空間ごとバッサリ断ち切って差し上げますさかい」
桜華は魁斗のすぐ横に膝を突くと、アフロディテの手を優雅に、しかし不可視の速さで払い除け、自らの柔らかな掌を魁斗の膝に置いた。
その瞳は、獲物を狙う鷹の鋭さと、愛しい人を独占したいという強かな色香を同時に宿している。
「ウチの『間合い』は、主を傷つけるもんを一切通さしまへん。それは刺客だけやのうて、主の心を乱す『余計な誘惑』も同じどす。なぁ、主……ウチだけを見てはるのが、一番の安らぎやおまへんか?」
桜華は魁斗の腕を抱きしめ、その耳元で熱い吐息を漏らす。
戦場での殺戮者としての顔はどこへやら、彼女は今、パレスという巨大な権力の頂点に立つ男の「正妻」の座を狙う、一人の強かな女であった。
「……桜華、主を独占するのは規律違反よ」
司法・規律統括のテミスが眉を潜めるが、桜華は薄く微笑むだけだ。
「規律? そんな窮屈なもん、主が望んではりまへんえ。ウチは主の影。影が主に寄り添うて何が悪いんどす? なにより、主の心臓の鼓動を一番近くで感じられるんは、間合いを極めたウチだけどすさかいに」
桜華は魁斗の腕に自身の柔らかな胸を密着させ、勝ち誇ったようにアフロディテを見据えた。
その瞳の奥には、主への盲目的な忠誠と、それを愛と履き違えた女の凄絶な執念が揺らめいている。
「ふふ、皆の献身には感謝していますよ。だが今は、あの静寂の海に、我々の確固たる楔が打ち込まれる瞬間を見届けましょう」
魁斗が穏やかに制すると、桜華は名残惜しそうにしながらも「……御意に。よろしゅうお頼み申しますえ」と、艶っぽく頭を下げた。
輸送船は、月の軌道へと到達した。
眼下に広がるのは、クレーターに覆われた灰色の死の世界。
しかし、その「静かの海」には、先行して送り込まれた建設ドローン群と、重土木・建築統括のヘラクレスが指揮する自動重機が、巨大な銀色のドームを完成させていた。
「……おお……魁斗様……!」
輸送船の窓からその光景を見たレオンハルトは、涙を流していた。
真空と放射線の死の世界に、エネルギーを質量に変える神の力で、人類が――パレスが、完璧な生存圏を構築している。
音もなく月面へ舞い降りた輸送船。
ハッチが開き、パレス製の防護スーツに身を包んだレオンハルトが、月面へ第一歩を踏み出した。
彼が見上げた真っ黒な空には、青く美しく輝く地球が浮かんでいる。
その青い星は、すでに九条魁斗の完璧な支配下にある。
そして今、この静寂の月面にも、パレスという名の絶対的な秩序の産声が、確かに響き渡ったのであった。
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