第58話:瓦解する合衆国と、無血の侵略
本日4話目
【1870年12月中旬:アメリカ東海岸】
パレスによる大西洋の完全封鎖。
それは、アメリカ合衆国という巨大な心臓への供給を止めるに等しかった。
経済は、もはや死に絶えようとしていた。
貿易は途絶え、物資は枯渇し、紙幣はただの紙くずと化した。
ニューヨークやボストンの街角では、一切れのパンを求めて暴徒が荒れ狂っていた。
そんな絶望のどん底にある東海岸の沖合に、漆黒の艦隊が姿を現した。
黒煙一つ上げず、波間に音もなく佇むその異形の影。
沿岸防衛を担うアメリカ陸軍の兵士たちは、ついに本土決戦が来たと悟った。
彼らは死を覚悟し、震える手で旧式の大砲に重い弾を込めた。
しかし、パレスの艦隊は一発の砲弾も撃ってこなかった。
代わりに艦隊の甲板に設置されたのは、巨大な音響増幅装置。
そして、夜の帳を切り裂くような、真っ白な巨大スクリーンだった。
闇が深まる中、突如として沖合から、クリアで美しい音楽が鳴り響いた。
それは軍歌でも、古臭い讃美歌でもない。
アイドルグループ『アルタイル』と『ヴェガ』が歌う、豊かさと論理の賛歌。
アーク灯の強烈な光が、スクリーンに「動く映像」を鮮明に映し出した。
「な、なんだあれは……! 人が、絵の中で動いているぞ!」
海岸の塹壕にいた兵士も、街から逃げ出してきた市民も、武器を放り出して釘付けになった。
スクリーンに大写しになったのは、豪奢な服を着た若者たちの姿。
彼らは山盛りのローストビーフや、見たこともないほど瑞々しい果物を囲んでいた。
そして、心から幸せそうに、眩いばかりの笑顔で笑い合っていた。
一人の美しい青年が、透き通るような声でアメリカ大陸に向かって語りかけた。
『同胞たちよ。私はエドワード。かつてボストンの貧民街で育った水兵です』
「おい……嘘だろ。あいつ、港の酒場で皿洗いをしていたエドワードじゃないか!?」
「二ヶ月前の海戦で、名誉の戦死を遂げたと軍から知らされていたのに……!」
群衆の中から、悲鳴のような、あるいは祈りのような歓声が上がる。
『私たちは生きています。パレスは我々を殺さなかった。
それどころか、我々を人間として扱い、完璧な食事と、真の尊厳を与えてくれました。
もう、無能な政治家のために血を流す必要はありません。
武器を捨ててください。ここには、約束された幸福があります』
その言葉と同時に、パレスの艦隊から色とりどりの気球が放たれた。
海岸に向けて、無数の「贈り物」が空から舞い落ちる。
それは、高精細なカラー印刷でパレスの生活を綴った雑誌。
そして、新鮮な肉や甘いシロップ漬けの果物が詰まった、銀色に輝く缶詰だった。
飢えた市民たちは、先を争ってその缶詰に群がった。
蓋を開けた瞬間に広がる、甘美な香りに誰もが涙を流した。
雑誌に描かれた、神の如く美しい『アルタイル』たちの姿。
それは、民衆にとっての新しい「福音」そのものだった。
「こんな紙くずのために戦うのはもうごめんだ! 俺はパレスに行く!」
「軍服を脱げ! 撃ち合えば、あのシチューが食べられなくなるぞ!」
愛国心や国家への忠誠。
そんな不確かな概念は、極限の飢餓と「目に見える絶対的な豊かさ」の前に霧散した。
翌朝には、海岸線を守っていた部隊は、将校から末端まで完全に武器を放棄した。
彼らは白旗を振り、パレスの艦隊へ向けてボートを漕ぎ出していた。
【12月下旬:ホワイトハウスの陥落】
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
第18代大統領ユリシーズ・グラントは、執務室で血走った目を剥いていた。
「ふざけるな! 国民が敵国の歌を歌っているのだぞ! 兵士を動かせ!」
「大統領……。防衛部隊はすでに、このワシントンにすら存在しません」
陸軍長官が、絶望的な声で首を振った。
「彼らは自ら海に飛び込み、パレスの船へと泳いで向かっています。
市民も、政府の配給所ではなく、海岸に流れ着くパレスの缶詰を求めて暴動を起こしている。
閣下……我々には、もう戦うための『人間』がいないのです」
将軍たちですら、こっそりとパレスの雑誌を隠し持ち、あの豊かな世界へ行きたがっている。
もはや、戦争ですらなかった。
パレスは一滴の血も流さず、圧倒的な「環境の差」を見せつけるだけで。
アメリカ合衆国という巨大な国家の基盤を、音もなく溶かしてしまったのだ。
【クリスマス直前:新しい歯車】
漆黒の巨艦『鳳凰』の最上階。
九条魁斗は、降伏を懇願するアメリカ市民たちの姿をモニターで見下ろしていた。
「九条様。ワシントンの市民たちがホワイトハウスを包囲しました。
彼らは現政権の解体と、パレスへの無条件降伏を求めています」
軍事統括の龍炎が、畏敬の念を込めて報告する。
大砲を一発も撃たず、数曲の歌と映像だけで一国を崩壊させたこの男。
その底知れぬ恐ろしさに、龍炎は心の底から震え、同時に深く心酔していた。
「素晴らしいですね。これが『最適化』の結果です」
魁斗は、最高級の紅茶のカップを静かに置いた。
「物理的な破壊は、修理という無駄なコストを生む。
しかし、精神を内側から書き換えれば、彼らは自ら進んで私のために働く。
さあ、彼らを迎えに行きましょう。国家というノイズから解放された、新しい歯車たちを」
アメリカ合衆国は、国民自身の「支配されたい」という強烈な欲望によって、その歴史に幕を下ろした。
九条魁斗の論理は、ついに巨大な新大陸をも完全に呑み込んだのである。
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