第14話「恋しちゃいました」その1
櫻子の悲鳴がリビングルームに響き渡った。
黒い鬼が櫻子の首を掴み、もう片方の指先を顔に向ける。
この状態で鉤爪が伸びれば間違いなく、櫻子の顔に穴が開くだろう。
玄関を突き破り廊下で横たわる慎之介はピクリとも動かない。
気絶しているのか、絶命しているのかは定かではない。
背中と腹から流れる血が、灰色の廊下に血だまりを作る。
――(もうおしまいだ……)
櫻子がそう覚悟した時、鬼の手から力が抜けた。
その理由も分からず、フローリングの床に尻餅をつく。
鬼の背後。
廊下の向こう側。
玄関の先に、右手を前に突き出す一人の男が立っていた。
雨に濡れている。
白いカッターシャツの上から黒いシックなロングコートを纏うその男。デニムジーンズに茶系のブーツ。
緩んだ黒いネクタイの下には、雨で濡れ、シャツから透けて見える鎖骨と盛り上った胸筋。
弱めのパーマがかかった無造作ヘアーの隙間から見える色気のある二重の瞳。 端正な顔に整えられた顎鬚。
前髪から雫が垂れる。
村雨 祥生
現怪伐隊の隊長だ。 外界用の私服を纏う。
「テメェか、黒い鬼っつうのはよ。前に殺された隊員の仇だ。さっさと掛かって来い、消し炭にしてやる」と、透き通ってはいるが腹に響くような低い声を掛ける。
村雨はそう言いながら、左手で胸ポケットから取り出した煙草を咥えると、オイルライターを親指で擦り火をつけた。
カチンと金属音を鳴らし、オイルライターを指で転がすと、デニムのポケットに仕舞い込む。
右手の力を緩めると鬼が歩き始めた。
コートのポケットから指先が出る赤い手袋を嵌める。
その表面には、呪術の文字が書かれている。
村雨がふと横を見ると、足をつり、寝室で絶賛悶絶中の佐伯が目に入った。
煙草を指で摘み「お前、何してんだ電話に出ねぇと思ったら」と言い、室内の光景に驚く。
「皇……それにコイツは、法力ゼロのガキんちょじゃねぇか。テメェ、これはどう言う事だ」と凄む。
阿鼻叫喚の様で、何かを訴えようとしている佐伯に、「おい、印を解くんじゃねぇぞ」と注意する。
「あと何分だ」と訊ねる。
佐伯は、ほとんど呼吸の状態で、「あ、……あと、2分です……ぅ」と答えた。
「そうか。まだ2分もあるのか」と不敵な笑みを浮かべながら、ゆっくりと迫りくる鬼に顔を向けた。
そして再び煙草を咥える。
ふいに鬼が距離を詰め、村雨に向かって鉤爪を伸ばした。
村雨は、体を反転させ軌道を逸らすと、一気に間合いを詰め鬼の腹に強烈なボディーブローを放った。
その瞬間、ボンッ……と厚いゴム風船が破裂するかの様な音が鳴り、鬼の腹が吹き飛び、拳の倍程の穴があいた。
金切り音の悲鳴を上げ、後ろに後退する鬼。
表情は分からないが、焦っている様子に見える。
村雨は乱れたコートの襟を正すと「悪りぃな。俺強すぎるんだわ」と言い、咥えたままの煙草を勢いよく吸い込む。
その光景にただ目を見開き驚く櫻子。
鬼の腹に開いた穴から村雨が見える。
そのまま村雨が廻し蹴りを喰らわせると、鬼が木製のトイレのドアを突き破り、便器の上に崩れ落ちた。
割れたドアの残骸を退ける村雨。
「さて。じゃあそろそろ除霊すっか」
そう言って尻ポケットから取り出した長財布から一枚の呪符を抜いた。
だが、その時、村雨は黒い鬼の異変に気付き、間合いを取る。
鬼は静かに立ち上がると、体をガタガタと振動させ始めた。
穴が開いている腹部が塞がり、全身の筋肉が膨れ上がる。
今まで、異様に細長かった四肢は、鍛え上げられた筋肉の様に繊維質が浮き上がり、黒光りしている。
「こいつ、再生しやがった。……しかもアップグレードしてやがる」
そう言った時、黒い鬼の拳が村雨の頬を掠めた。いや、ギリギリで交わしたのだ。
廊下の壁に拳の穴が開いた。
硬くなった皮膚が村雨のボディーブローを耐える。
直後に伸びた手に村雨の首が捕まった。そのまま足が浮く。
カタカタと肩を震わせながら不気味な笑い声をあげる黒い鬼。
掲げた村雨の赤いグローブ。黒い文字が蒼白い光を発光させた。
腹の底から唸りを上げ、鬼の太い腕を手刀で切り落とす。
鬼の悲鳴……。
床に転がる腕がのた打ち回る。
村雨は、隣の部屋で眠る仲間達への被害を防ぐ事と、狭い廊下では動き難いと判断し、リビングに移動する。
「お前は、あっちのオッサンと隅でいろ」と、櫻子に真理の父親の元への避難を指示した。
「はい」と答え、移動する。
慎之介の状態が気になるが、今はどうする事もできない。
再びリビングルームにやってきた黒い鬼。
床を這う腕。
指先で地面を歩き、鬼の足を這いあがると元あった場所へと戻る。
すると、繋がった腕が更に肥大し、拳が禍々しい形態へと変身した。
より赤黒く、ゴツゴツとしており、肘から角が伸びる。
「また、アップグレードか」と村雨が口から紫煙を吐く。
そう言ったあと、またも不敵な笑みを浮かべる村雨。
「じゃあ俺もアップグレードすっかな」と言い、ロングコートを脱ぎ、床に落とした。
白いシャツの胸ポケットから携帯灰皿ケースとアルミ製の紙巻煙草ケースを取り出す。
今吸っていた煙草を消すと、紙巻煙草を一本取り出した。
その表面には、陰陽の呪術が細い筆で書かれている。いや、と言うよりは呪符で煙草の葉を巻いているようだ。
オイルライターをカシャリと鳴らし穂先を炙る。
そして、紫煙を肺の奥底に送り込んだ。
「待っててくれるなんて、見掛けによらず律儀じゃねぇか」
そういい、見開いた眼が黄色く光った。
その眼から光の筋を残し、鬼の懐に急接近した村雨。
櫻子の目には人間の出せるスピードを超えているように見えた。
振りかぶる村雨の拳を、鬼のアップグレードした掌が真っ向から受けて立つ。
次の瞬間、消し飛ぶ鬼の腕。
直後に、高速連打のパンチが黒い鬼の全身をタコ殴りにする。
それは、まるで連射するマシンガンの様だった。
顎を弾き、胸部、腹部、脇腹、大腿部、腕を何度も殴り続ける。
最後に鬼の顔を鷲掴み、足払いを掛ける。鬼がバランスを崩し横転する力を利用し、頭部を全力で床に打ち付けた。
曲がる首、フローリングの板がへし折れる。
鬼の動きが止まった……。
濡れた前髪が乱れ、かき上げる村雨。
村雨は、煙草の煙をゆっくりと吐きながら、尻ポケットから取り出した長財布から、新たに一枚の呪符を抜いた。
「さっき戦ってきた擬態肌鬼の方が、今のお前より遥かに強かったぜ。さぁ消してやるよ。この世から」
そう言って、右手の中指と人差指で手刀を作り唇に当てる。
その途端、またも不気味な気配を感じ間合いを取る。
村雨は、黒い鬼に注意しながら横に移動し、櫻子達を背に立った。
勿論、何かあった際に彼女達を守る為だ。
次の瞬間、鬼の全身からハリネズミの様な無数の鋭利な触手が飛び出した。
リビングルームの至る所に穴が空く。
村雨は持っていた呪符に咄嗟に呪力を流し込み、床に叩きつけると、目の前に防御結界が展開され触手を防いだ。
触手が縮み鬼の体に戻るや、鬼はベランダのガラスを突き破り土砂降りの闇夜へと消えていった。
「クソッ……逃げやがったか」
村雨は煙草を噛んだ。
――『02:00:01』
力なく歩く桃眞が、真理とその母親の融合体の下へと辿り着いた。
後方では、皇と飛葉、そして山那が水晶の刀で泥人形を斬り続けている。
「真理ッ、聞こえるか」と声を掛ける。
すると四つの目が桃眞を捉えた。
「何故お前がココにいる。ここから去れ」と母親が怒りに歪んだ顔で叱咤する。
振りかぶった鬼の拳が伸び、桃眞の腹にめり込んだ。
桃眞は後方の木に背中を打ち付ける。
「かはッ……」と息が飛び出し、湿った落ち葉の上に崩れ落ちた。
「真理……。あと二分しかないんだ。それを過ぎたらお前の母さんが死んでしまう。解放してやってくれ」
すると、またも母親が喋った。
「余計な事を言うなッ。私はこのままで幸せだ。真理も幸せだ。お前にそれを邪魔する権利はない」
母親の顔にへばりつく真理の顔を見る。
真理は、黙ったまま悲しそうな顔をしている。
その時、桃眞は思った。
母親こそが、真理に執着しているのだと……。
真理も、霊となってから母親の事が気になっていたのかも知れない。
だが、言動、感情が攻撃的になっているのは真理ではなく母親だ。
絆を作っているのは母親自身なのだ。
つまりは、真理では無く、母親の説得から始めなくてはならないのか……。
もう時間は既に二分を切っている。
桃眞は、痛む腹を手で抑えながら母親に話しかける。
「真理の母さん。俺のせいで真理を死なせてしまって本当にごめんなさい」と深く頭を下げる。
「今更、そんな事を言っても無駄だ」
「でも、このままじゃダメなんです。真理もいつまでも成仏できない。真理の母さんが真理をあの世に送り出してあげないと」
「黙れェッ!!」
母親の怒声に、枯葉が吹き飛び桃眞を襲う。
一枚一枚が刃のように滑空し、桃眞の頬、腕、足に裂傷を作る。
桃眞は両手で顔を覆い、耐え続けた。
黒いジャージの至る所が切れ、血が滲む肌が現れる。
――『01:30:03』
恐らく、黒い鬼の毒気が一番影響しているのは母親なのかも知れない。
全く聞く耳を持たない上に、激しく感情をぶつける。
では、一体、真理は今どういう心境なのだろうか。
「真理ッ、聞こえるか。俺だ桃眞だ」
「と、とおま……」と消えかけの声で真理の顔が喋った。
「俺が分かるか……」
桃眞がそう言った瞬間、真理の顔に怒りが満ちた。
「桃眞ッ……」と唸り、大きな手で桃眞の首を掴む。
息苦しそうに、鬼の手を掴む桃眞が真理に問いかけた。
「あの時……警察署でリーパーに襲われてる時、俺を遺体安置所に引き摺り込んだよな? あれはお前だろ。ポータルのある部屋に俺を招き入れたのは……ここに来て欲しかったからじゃないのか? 俺に真理の母さんを止めて欲しいんじゃないのか……」
真理の動きが止まり、首を掴む手の力が緩む。
その時、真理の母親が口を開いた。
「黙れぇッ。お前の言う事を真理が聞く訳がないだろう」
真理が再び話し始めた。
「桃眞……あの時……あの森で……何故、私を助けてくれなかったの……」
「スマン……あの黒い鬼が現れて、どうする事も出来なかった。俺だッて!! ……怖かったけど……凄く悔しかったし、悲しかったし……お前を……助けてやりたかった。俺の命に変えてでも」
――『01:00:00』
――『00:59:59』
「それは、どうして? 何故そう思うの……」
「それは……」と、桃眞が俯き口篭る。
「言って……お願い……」
真理の顔を見上げた桃眞。
「お前が好きだったからだ」
その言葉を聞いて、真理の目から透明の涙が流れた。
「何で、怖いモノが苦手なアタシが……桃眞と心霊スポットに付いて行ってたかわかる? 私も……ずっと桃眞の事が好きだったから。側にいれば何にも怖くなかったからなの……」
そう言って、ボロボロと頬を伝う涙が落ち葉に染みる。
「不思議だね」と真理が言った。
「何が」と桃眞が訊ねる。
「お互いが思い合ってたのを、死んでから分かるなんて……」
「そんなの恥ずかしくて中々言える訳ないだろ」
「どうせなら、こんな醜い姿じゃなくて……綺麗な姿で伝えたかったよ」
その言葉に、桃眞は思いつきだったが可能性に賭けて提案してみた。
「ここは、精神世界だろ。真理が念じれば……きっと美しい姿になる事もできるんじゃないか?」
真理は目を瞑り、集中し始めた。
――『00:30:00』
すると、鬼の体を暖かい光に包み込む。
安らぐ顔をする真理の横で、母親が苦悶の表情をする。
「やめてぇ……真理。お前は私のモノだぁ……どこにも行くなぁ。行かないでぇ」
光が収まると、眩い光に包まれる真理の姿が宙に浮いていた。
黄金色の和装を纏う、それはまるで天女のような出で立ちだ。
「やべぇ、真理。お前、めっちゃ綺麗だ」と桃眞が言うと、真理はニコリと笑う。
湿った地面に膝から崩れ落ちた母親。
外の世界で着ていたパジャマ姿に戻っていた。
皇達を囲む無数のリーパー達が一瞬にして崩れ去った。
飛葉達がスマートウォッチを覗き込むと、『00:08:12』の表示で時間が止まり、文字の色が赤から青に変わった。
母親は真理を見上げると、目に涙が溢れる。
そして、声にならない声を出しながら泣いた。
真理が慈しみの目を向け語りかける。
「お母さん。私、綺麗でしょ」
「凄く綺麗よ……。最後に貴方を見たのは、目を背けたくなる程の……だから。最後に貴方のこんなに綺麗な姿が見れて……母さん良かった」
真理は桃眞へ顔を向けた。
「桃眞。私は、桃眞をこれっぽっちも恨んでなんかいないよ。さっきはあんな言い方になったけど、桃眞の気持ちもちゃんと伝わったから。私はそれで満足。だから、もう悲しまないで。強がる素振りはしないで」
その言葉に桃眞の目から涙が溢れた。
「強がってなんかいないさ……」
「ほら、また強がってる。桃眞は昔からそうなんだから。私には強がってるのはお見通しなんだからね」
そう言ってニコリと笑う真理に「うるせぇ」と桃眞は口を尖らせた。
すると、真理の体が光に包まれ姿が見えなくなる。
「お母さん。桃眞を許してあげて。それとお父さんにもゴメンネって伝えて。そして、お母さんもお父さんも愛してるって」
その言葉に、真理の母親が号泣し溶けるようにして地面の中に消えていった。
そして、真理は跡形もなく消え去った……。




